日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー93 ( 世界史 ・近世史要約 )

2008-12-20 07:08:16 | 幕末維新
田中河内介・その92 


外史氏曰

【出島物語ー4】

 まずは、近世史全体を見渡して、そのポイントを簡単に列挙する事から始めよう。

 大航海の始まりは、まずポルトガルとスペインを、一四、一五世紀の先進国に押し上げる事になった。


ポルトガルの海外進出

 一一七九年、カスティリアから独立したポルトガルは、北アフリカのイスラムの拠点モロッコのセウタを占領、ここを海外進出の拠点とし、一四二〇年頃から新航路の開拓を始めた。 胡椒のインドからの直輸入を考え航海事業に乗り出し、ついにはディアスがアフリカ航路を開拓し、アフリカ南端のケープタウンを発見(一四八八年)、ヴァスコ・ダ・ガマがその南端を回って一四九八年にはインドのカルカッタに到達し、インド航路を完成させた。
 ヴァスコ・ダ・ガマは一四九七年にアフリカ回りでインドへ行き、胡椒を積んで九九年に帰還した。 これによって当時、胡椒の価格は百分の一に下ったという。

 インド航路を確立したポルトガルは、一五一〇年には インドのゴアを占領、翌一五一一年には 東南アジア貿易の要(かなめ)マラッカを、さらに東方の最高の香料を産するモルッカ諸島(香料諸島)をそれぞれ占領し、これにより胡椒の直接貿易の宿願を達成し、東南アジアでの貿易で莫大な利益をあげ、国力を一段と飛躍させた。

 これはアラビア商人らにとっては壊滅的な打撃であった。 肉類を常食とするヨーロッパでは香辛料は特に珍重されたが、それまでこれらのほとんどはアラビア商人によって独占され、彼らによって陸路コンスタンチノープルやアレキサンドリアなどに運ばれ、ヨーロッパの各地にもたらされていた。

 当時のヨーロッパとアジアの貿易の形態は、東南アジアの香辛料【 胡椒(こしょう)、肉桂(にっけい)、丁子(ちょうじ) など 】 やインドの綿織物とヨーロッパの銀や銅の取引であった。

 さらにポルトガルは東アジアとの貿易も画策、一五五七年に明国よりマカオを獲得すると、以後、マカオを拠点に東アジアとの貿易を推進していった。


イエズス会
 ポルトガルの海外進出に大きく関与したのが、イエズス会であった。
 一五三四年にイグナチウス・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって設立されたイエズス会は 一五四〇年に正式認可されると、以後、組織をあげてポルトガルが獲得した東洋の新天地での布教に邁進していった。


日本への到達
 ポルトガル人が始めて日本に来たのは、天文十二年(一五四三)、種子島に一隻の唐船が漂着した時で、この中に二人のポルトガル人が乗っていた。 このとき初めて日本に鉄砲を伝えた事はよく知られている。




スペインの海外進出

 ポルトガルの海外進出に刺激されたスペインも積極的に東洋に進出、コロンブスによるアメリカ航路の開拓( 一四九二~一五〇六年 )、さらにはマゼランの世界周航( 一五一九~一五二二年 ) によって、ポルトガルの東回りに対して、西回りの航路を確立した。


 コロンブスは西回りコースの方がインドへ早く到着すると主張。 一四九二年、スペインのイザベル女王はコロンブスの航海プランを許可し、援助する。

 彼はサンタマリア号など三隻の船で、一四九二年八月三日、パロス港を発って東洋を目指し、大西洋に乗り出した。
 出航して七〇日たってもまだ陸地が見えないので、コロンブスを海に投げ込んで引き返すべきだという船員達の反乱が起こった。 コロンブスは、あと三日待てと船員達をなだめたりすかしたりして、それから一日半後の十月十二日に、やっとのことで島に辿り着いた。
 これはカリブ海のバハマ諸島の一部で、サンサルバドル島( すくいの御子キリスト ) と名づけられた。 出港から七十一日目の事である。

 コロンブスは生涯、どうしてもジパングの黄金を求める夢を捨てきれず、新大陸の近辺へ四回行っている。 第四回目の探検では、中米のホンジュラスやニカラグアの海岸に到達していながら、死ぬまでこの付近を新大陸であるとは気付かず、東南アジアの一部であると信じていた。
 一五一三年、スペイン人バルボアがパナマ地峡を横断して太平洋岸に達し、これが新大陸であることが発見された。




コロンブスの新大陸探検 【 「侵略の世界史」 清水馨八郎著より 】


 コロンブスの航海と前後して、アメリゴ・ヴェスプッチが新大陸へ四回航海した。 そして彼は一五〇三年に 『 新世界 』 という本を出版。 これがきっかけとなって、新大陸は 「 アメリカ 」 と命名された。


 ついで注目されるのが、フェルナンド・マゼランの世界一周である。 一五一九年に出発したマゼランは南アメリカを回って太平洋を横断したが、彼はフィリピンで戦死した。 そのあと部下が航海を続けてスペインに帰還し、史上初の世界一周を成し遂げた。


マゼランとその仲間の航路 【 「やりなおしの世界史」  謝 世輝著 】


 両国は 「 地球二分割線 」 を策定して、これによりスペインは西周り、ポルトガルは東回りの航路の開拓に奔走したのであるが、東アジアにおいてこの両国は出会い、その植民地は交錯した。

 一五二一年、スペインはフィリピン島を発見したが、ポルトガル人の抗議をうけ一旦メキシコ、南米に退いた。 しかし、香料諸島 ( モルッカ諸島 ) の領有でポルトガルに後れをとったため、一五七一年更にマニラを征服して政庁をおき東方経略に着手, 中国との貿易に主眼を置いたが、その貿易の形態はメキシコをはじめとする南アメリカ大陸の銀と中国の生糸や絹織物類、陶磁器類との取引であった。

 日本人はスペインのマニラ占領以前からルソン島に進出し、中国海賊と通じて活動していた。


日本への到達
 ポルトガルが平戸を去って十七年、一五八四年(天正十二年)ルソンの商船一隻、長崎行のポルトガル船に尾行して北上したが、長崎を避け平戸に入港した。 これが平戸へのスペイン人来航の初めである。




両国による「地球二分割線」の策定

 以下は、以前にも話した内容で、繰り返しになるが、もう一度取り上げる。 
 新航路発見と同時に、スペイン、ポルトガルの両国は争って通商・植民活動を開始したが、発見した土地や島の帰属を巡って 両国間で紛争が続出。 そこで、一四九四年にローマ教皇アレクサンドル六世が教書を出して、両国の進出領域を決定した。

 この取り決めは、「 トルデシリャス条約 」 と呼ばれ、アフリカの西岸ヴェルデ岬諸島の西方の西経四五度の子午線を基準に、西方をスペイン、東方をポルトガルの進出範囲と決めている。

 これにより、スペインは西周り、ポルトガルは東回りの航路の開拓に奔走したのである。

 しかし、両国の世界制覇の波は、当然に地球の裏側で再びぶつかり合うのは必定。 そこで一五二九年、サラゴサ協定によって アジアでの分界線は、東経一三五度に定められた。
 これは現在、日本の標準時 「 子午線 」 で、まさに日本を真二つに分断している。 この事は、見方によっては、日本はこの二つの侵略国家からは最遠の地ということだ。

 このような経緯もあって、一五四三年に ポルトガル人が種子島に上陸、その六年後の一五四九年には スペインのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸することになる。 日本はこの二つの侵略国家の先端が出会う地点、つまり両国の衝突する地点であった。

 西側の線で南米ブラジルがポルトガル側に入ったのは、一五〇〇年にポルトガルのカブラルが先にブラジルを発見していたからである。


スペイン・ポルトガルによる世界二分割 ( 「 侵略の世界史 」 清水馨八郎著 祥伝社 )


 しかし、このように繁栄を誇ったスペインも、一五八八年、イギリス艦隊にその無敵艦隊を撃破されて以後、著しく海上の勢力を失い、次第に衰退して行くことになる。
 また 十七世紀に入ると、オランダとイギリスが ポルトガルに取って代わって 世界進出の主役となるのである。

 まず、オランダがスペインから独立してアジアに進出を果す(一五八〇年以後)。 フランスが ルイ一四世の治世下で栄光を極め(一六六一~一七一五年)、イギリスにおける商工業の振興、海外貿易の発展、市民革命と科学の著しい進歩などは 西欧が次に世界へ雄飛する根源を築いた。



非ヨーロッパの世界

 他方では、イスラム勢力がこの時代、引続き全盛を誇っていた。
 まず、オスマン・トルコが東ローマ帝国を消滅(一四五三年)させて、しだいに勢力を拡張し、エジプトのカイロ、聖地メッカとメディナを制し、ヨーロッパではベオグラード、ハンガリー、東方ではバグダッドなどいずれもその勢力圏内におさめた。
 また、イランのサファヴィー朝(一五〇一~一七三六年)とインドのムガール帝国(一五五六年以降)も非常に強大であった。

 また 東アジアでは、明帝国が衰退したが代わりに 大清帝国(一八世紀後半)が繁栄を極めていた。

 そして これらユーラシアの強大な諸帝国の存在は、まだ相対的に ひ弱であったヨーロッパの小国の侵入に対しては 十分に対抗し得たのである。

 なお この時期は、日本では、ちょうど戦国時代、安土桃山時代をへて江戸幕府に落ち着くところであった。


                  つづく 次回


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