時戻素

昔の跡,やがてなくなる予定のもの,変化していくもの,自身の旅の跡など・・・

(243) 可視教

2009年12月06日 04時56分21秒 | Weblog
 本当はよく分からない得体の知れないもののはずなのに,何か見えたつもりになってしまうものは結構多い。たとえば,空気にしても見えているといえば見えているのだろうが,空気という言葉を知らなければその存在というものは見えにくいだろう。透明な物質に限らず,人間の内面や能力に関するものも複雑すぎてつかみ辛い。ある程度特徴をまとめることが可能であっても,その人間をずっと見ているわけではないので,見えている部分はかなり限定されてしまう。人間の性格に関しては通知表の行動の記録が分かりやすいように思う。特に優れていると判断されたものに○がつくので,○がないからといってその人物にその性質がないと言うわけではない。小学校の時の通知表が部屋の整理をしていたら出てきたので,自分の行動の記録の欄を振り返ってみた。

 ○多い:自主性・根気強さ,責任感
 ○半々:生活習慣,勤労奉仕
 ○まれ:明朗快活,創意工夫,思いやり,協力性,公平公正,公共心
 ○なし:自然愛護

 特に注目したいのが○がまれな項目だ。この欄は学期ごとというよりも学年(つまり学級担任)により差が出ている。「思いやり」に○がついたのは担任の仲介でクラスになじめなさそうな人と一緒に遊んだことがあったり,登山中にきつそうな人のサポートをしたりといった行動を担任が見ていたときだった。中学に入ってからは「思いやり」や「協調性」という項目には一切○はつかなかった。その理由も言動を振り返れば納得できないことはない。先に述べた○の持つ意味は分かっていても,○がつかなかった項目については否定されているように感じたこともあった。(当時の友人に○が8割以上の項目についている人がいたのもその意識に影響しているのだろうが・・・)自分自身の体験はこの辺にしておくが,行動の記録につく○によってその人の人物像が見えてしまった気にはならないだろうか。先に自分自身の例を挙げたが,担任から見た自分の像が良く見えてくるように思う。この結果は6人の担任の出した評価を集計したものなので,ほぼ毎回○をつけられている項目については客観性も認められそうだ。たまに○がつくような項目はたまたま○をあげたくなる(あげたくなくなる)行動が目に付いたとか担任の感じ方に左右されている部分もありそうで,どちらかといえば主観的になっている可能性が高い。学校での行動(が担任にどう見えたか)を可視化してくれる評価欄なのだが,一部の行動からしか判断できず,おそらく統一の尺度もないので評定者によって差が生じざるを得ない。主観的な基準を○といういかにも客観的な表現方法にするのに違和感があるように思える。手間は掛かっても文章評価だけの方が行動を評価するには適しているように思われる。(特に「思いやり」に何が何でも○を付けたいと思えば,担任に見える形で思いやりのある行動だと思わせなければならない。「人を見かけで決めつけるな」というメッセージ性をもった文章では一見いかつくて無愛想な人物の仲間想いな一面を描くなどのストーリーが多い。そのような物語があるように,思いやりの全くない人間なんてそういないと思う。かといって何の根拠もなく○をやるわけにもいかない。
)○がついた理由を考えてみようという実践をネット上で見たことがある。目的は学習だけでなく,行動の面からも個性をとらえ,大事にして欲しいからという趣旨だったようだが,「○○だから△△に評価がついたんだ」というやり方が,○をつけるにはどうすればいいのかを研究させることにもつながりそうで嫌だった。行動って自然に出るからこそ行動だし,だからといって常に表れるものでもないと思う。無理に客観的に可視化しようとすると評価してもらうためのテクニックが生じてしまう。
 行動面について先に書いたが,学力にしても同じだろう。(ここでの学力という言葉は特に注意を書かない限りテストなどで測定できるものには限定しない。)この記事でも触れたが,特に「関心・意欲・態度」や「思考」の学力はテストだけでは測りきれないところがある。人が頭の中で考えていることをすべて伝えることも逆に見ることも不可能だ。となると,評価は行動であったり,ノートや発言の内容だったり,試験の解答だったりと外に現れたものから判断せざるを得ない。研究をしていくうえでは重要な疑問も,解決しようと思えばそれなりの時間を要し,授業の進行の邪魔に感じられることもあるだろう。そのような場合,教師によってはその疑問が生徒の興味や思考の表れととることはできないかもしれない。評価者が見るのは生徒の一部分の学力でしかない。しかし,テストの点数や通知表の評定は学力を可視化しているように感じる。しかも客観的に評価されることが多く,その基準が明確になり,評価を上げるためのテクニックが生じていることなどはなかなか見えにくい。
 だからといって,性格や学力があやふやのものだから,見える形にはできないとなると今度はよく分からない不安が生じてしまう。
 就職などの採用試験の場においても,SPIなどの紙のテストの比重が大きくなったり,その業種に有利な資格を確認したりと,客観的な評価は公正さを保つ上でも欠かせなくなっている。
 裁判においてもどれだけ証拠を示せるかが,判決に影響を与える。判断された罪の重さは刑の種類や刑期等で可視化される。
 事故などの後の相手への謝罪の気持ちなども何回見舞いに行ったか,どのような言葉を話したかなど目に見える部分で評価される。どんなに深く反省していても目に見える行動として示さなければ,謝罪の気持ちがないと言われかねない。
 最近話題になった仕分け作業のような,事業の外部評価も盛んに行われている。何らかの基準が設けられ,そこで出された内容を基に評価が下される。そこに現れなかった内容が評価されることはほとんどないだろう。

 この他にも例はまだまだあるだろう。見えるということはある種の安心感を与えてくれ,その見えさせ方が客観的なほどその姿は信頼性を増してくる。見えないものを見える形にしたいと思うのも自然だと思う。ただ,そうして見えた姿は一面的で,その見え方を意図的に変えるテクニックも編み出せるので,見えている世界にに安住することもできないように感じる。そして,そのテクニックなどを利用してビジネスも展開できる。

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