黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

上杉顕定書状(長享2年3月16日)・その1

2024-06-14 20:51:17 | 山上保の物語・総集編

ひめちゃんは、ケンくんが大好きでした

5年前の8月、七海ママもまだ健在です

ひめちゃんは、ママのお散歩にもよく同行しました。

ある日、向こうからケンくんがやってきます

ひめちゃんは大喜びでしたけど、ケンくんは、ママの方に行ってしまいました

2004年6月生まれのママは、15歳でした。

いくつになっても、モテモテ熟女の七海ちゃんでした

 

 

 

 

2通目の上杉顕定書状です

 

上杉顕定書状(赤堀文書)

葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間、及防戦砌、速有合力得勝利、敵手負死人数多、至于御方も同然、其動心地好感悦候、於向後も無油断、現形成候、不移時刻、可被加力候、周防守事後御方之由 上意、然而如斯慮外之揺、不思議之次第候旨趣、
言上之所、断而可被成御咎之段、被仰出候、恐々謹言

  三月十六日          顕定(花押)
   赤堀上野介殿
                      (『群馬県史資料編7』)


まず上杉顕定(うえすぎあきさだ)です。

上杉顕定は、室町時代後期から戦国時代に架けての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。(ウイキペデイア)

では、上杉顕定はどこを拠点にしていたのでしょう?
それは鉢形城(はちがたじょう)です

上杉顕定は1478年から亡くなるまでの32年間、鉢形城を拠点としていました。

顕定が亡くなった後も、憲政までの70年間は、関東管領上杉氏の持ち城だったと考えられます。

(中略)

1546年の川越夜戦において北条氏康に大敗を喫し、同族の扇谷上杉氏が断絶するほどの痛手を負いました。

この戦いで上野国平井城に撤退したことで、鉢形城は関東管領の拠点としての機能を失ったと考えられます。             
                              (鉢形城歴史館HP「鉢形城主上杉顕定」)

 

書状の確認です

葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間

葛塚の要害とは、葛塚城のあたり、山上城の北東・諏訪神社の東、堀之内付近でしょう
山上城からみたら、大河ではない蕨沢川(天神川)があるくらいで、あとは田んぼと豚舎で、とうてい要害の感じはありません
ところが東をみると、さもありなんという感じなのです
ひめちゃん達は、時には堀之内の東の牧場あたりに足を伸ばしました
牧場の中を鏑木川が流れています。
ここは数年前、この牧場の主・アキラさんが足を滑らせて亡くなった場所です
こんな雰囲気の深い険しい場所がずっと続きます
その向こうには、険しくはないけれど越えなければ東の町・大間々に出られない山々があります
深い川は何本も走り、高低差のある田畑住宅地牧場があります
攻めにくいのです

さほど険しい所まで歩いていませんが、ひめちゃんたちと歩くだけでも、「要害」を味わえます


佐野周防守差懸相攻之間

この佐野周防守は、多くの歴史家が桐生佐野氏としています。
桐生の本町はまだありませんから、北の柄杓山城(ひしゃくやまじょう)麓あたりに館があったと思われます
車だと30分くらい、馬でもさほどかからずにやってきます
ちょっと高台に登り、山道を越え、険しい川を越えなければならないけど
大間々方面から来ると、かなりの上り坂なのです

「差懸」とは、さしかかる、さしせまるの意です。

「相攻之間」、この部分のキーワードは「攻」です。
佐野周防守が攻めてきたのです
「相」は動詞について婉曲を表します。
「間」は「~なので」くらい意味でしょうか。

「葛塚の要害に佐野周防守か攻めてきた」ので、どうしたのでしょう?



及防戦砌、速有合力得勝利

「砌」は、「みぎり」はおり・ころ・その場合・その時、つまり及防戦(防戦に及んだ時)
「速有合力」、「速」は速やかに、「有合力」とは協力して一緒に戦ったのでしょう
赤堀上野介は迷わず上杉顕定方として駆けつけ、佐野周防守と戦ったのです
そして勝利を得たのです



敵手負死人数多、至于御方も同然

「数多」は「あまた」、敵(佐野周防守)方はけが人や死者が多数出た。
「至于御方も同然」、御方に至りても同然(みかたにいたりてもどうぜん)、つまり、御方にも負傷者や死者がたくさん出たということです


其動心地好感悦候、

「其動」、「動」は「働」と同じと『群馬県史資料編7』には、註があります。

「そのはたらき」とは、葛塚の要害で佐野周防守を撃退した働きです。
「心地好」、「心地好く」、それはそうでしょう、気分いいですよね


「感悦候」、「候」は丁寧で「~です」「~ます」。

活用語の連用形に接続します。

そうすると「感悦」を活用語とすると、「感悦なり」です。連用形は「感悦に」です。「感悦候」は「かんえつにそうろう」です。

「感悦」は非常にうれしことです。
赤堀上野介の働きを、関東管領上杉顕定はとても喜んでいます



葛塚が荒れ果てて、「後閑の地(こかんのち)」になっていく序章です
現在のひめちゃんちのあたりは、山上の後閑(ごか)です

最近、後閑・薬師堂のたくさんの五輪塔の残骸は、「もしかしたら、この長享の乱・序章の葛塚の要害の戦いでの戦死者のものだったのかも?」、なんて気もしてます

ここの墓地は、現在よりずっと広かったと古老は言います

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿  2024.06.14

 

(つづく)

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上杉顕定書状(長享元年12月8日)

2024-06-11 22:09:50 | 山上保の物語・総集編

とても暑い一日でした

でも、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、夜はおうち犬です。

先日、ひめちゃんは雨の夜に2度目の「アタチ挟まってまふ」事件を起こしました

6面サークルのドアのある1枚を押して隙間を作り、脱走しようとしたのです。

ジャンプ力抜群のひめ対策で、上はもちろん塞いであります。

ところが上半身は出たけれど、肉球がパーツの連結部分に挟まって、救出に駆けつけたおとうたんの手をかんでしまったのです

以来、夜は室内犬です。

真夏にはどうしましょう

 

5年前の5月末、獅子丸はまだ実家に帰っていませんけど、実家のみんなとお散歩していました。

大勢でのお散歩、楽しかったね

 

 

 

中世葛塚村に関する5つの文書、3番目は赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)です

 1、太田貞宗寄進状(建武元年11月27日)
 2、宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(南北朝期年未詳3月18日)
 3、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)
 4、赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享2年3月16日)
 5、由良成繁事書案(永禄10年)

上杉顕定書状は2通とも葛塚が出てきます
いずれも長享の乱の中で出された文書です。

長享の乱は、ウィキペディアによれば、
長享元年(1487年)から永正2年(1,505年)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いに寄って上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将・伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出を許す結果となった。


まず赤堀上野介宛上杉顕定書状・長享元年12月18日を確認です。です


赤堀上野介宛上杉顕定書状(長享元年12月18日)

去十四日長尾蔵人幷佐野周防守同心ニ、善・山上取立候地へ差懸、終日相攻候處、不移時合力候故、敵退散手負数多、四五人被討捕候由注進、其動誠心地好感入候、於向後も、弥無油断、被加力肝要候、恐々謹言、

(長享元年)          (上杉)
十二月十八日           顕定(花押)
 赤堀上野介殿

              『群馬県史資料編7』




長享元年(1487)12月18日


長享元年閏(うるう)11月に、関東管領上杉顕正の兄・上杉定昌によって足利の勧農城が攻撃され、長享の乱が勃発します。
勧農城の長尾房清は扇谷方に内通していたといいます

いろいろ調べても閏11月以上はわかりません
いずれにせよ約1月後、今度は関東管領方の善・山上が攻撃されるのです。


去十四日

長享元年12月14日、この文書の4日前です。
戦いが行われたのは、長享元年12月14日です。
旧暦ですから今の1月後半になるでしょう、ちょっと寒いかな
この歳は閏11月、つまり2度目の11月があったので、もう少しあとの厳寒の2月かもしれません


長尾蔵人幷佐野周防守同心ニ

長尾蔵人は足利勧農城主、佐野周防守はやはり桐生佐野氏の佐野周防守でしょう。
長尾蔵人と佐野周防守が、一緒に攻めてきたのです


善・山上取立候地へ差懸

取立は、強制的に取ること。または、抜擢すること。
善・山上取立候地(ぜんやまがみとりたてそうろうち)とは、善・山上の(関東管領方が)奪い取った(奪い返した)土地
差懸は、建物に火を懸けたり矢を放つ意味もありますから、真冬に攻撃される方はたまりません
善・山上取立候地で、善城・山上城とは言ってません
まだ、無いのでしょう


終日相攻候處
しゅうじつあいせめそうろうところ

「相」は動詞の前について婉曲を表します
「一日中攻撃が続きましたけど」くらいの意味です



不移時合力候故、
ときをうつさずごうりきそうろう(の)ゆえ

赤堀上野介がすぐに兵を連れて駆けつけたのです


敵退散手負数多、

赤堀上野介の働きで敵は退散しけが人もたくさん出て、


四五人被討捕候由注進
「被」の下の活用語を「討捕」とすると、「うちとらえーず」下二段、すると「被」は四段以外の時は「らる」なので、「うちとらえらる」
「候」が付くので、「うちとらえられそうろう」
「由」は之をともない「~であること」、四五人討ち捕らえられ候の由
「注進」は、報告書。


ウイキペヂアによれば、戦国時代までの注進状は、主に敵の動きや戦いの結果を報告する書状を示す。
赤堀上野介は善・山上へすぐに駆けつけ、敵はけが人たくさんが出て、4・5人が討ち取られたこと、つまり自分は敵をたくさん傷を負わせ、4・5人を討ち取ったことを、上杉顕定に報告したのです



其動誠心地好感入候、
動は働で、そのはたらきまことにここちよくかんじいりそうろう
よくやった、ようがんばったのうと、ほめているのです



於向後も、
こうごにおいても

これから先も


弥無油断、
ますますゆだんなく

「弥」はますます
「無油断」ゆだんなく


被加力肝要候、

被加力は直前の活用語を「加力」とすると「加力す」でサ変なので、かりきせらる
肝要候は「かんようにそうろう」
何がかんようかというと、直前の加力することでしょう。
そうすると、「かりきせらることかんようにそうろう


恐々謹言

戦国武将の手紙の結びのきまり文句です。
恐れながら謹んで申し上げます。



関東管領は、「今後もこんな時には、すぐ駆けつけてね」といいました。
戦いがあったのは12月14日です。
14日に報告をだして4日で、返信が帰ってきたのです

長享の乱の勃発は閏11月に、関東管領方の上杉定昌が足利の勧農城を攻撃したことに始まるといいます。
そして今度は、足利から攻めてきたのです

膳・山上の地は、長享元年の乱で、戦場となったのです。

関東管領・上杉顕定方の最前線で、一日中攻撃が続いたのです。

 

 

 

 

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改稿 2024.06.11

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鎌倉公方足利基氏書状

2024-06-07 17:08:28 | 山上保の物語・総集編

ちょうど5年前の今頃、獅子丸は7年間暮らした養家に別れを告げて、実家に戻りました。

朝のお散歩前に、みんなのお散歩の用意ができるまで緊張して待機しています。

ひめちゃんも、モコモコです。

換毛真っ盛りでした。

獅子丸とお散歩に出たひめちゃん、ちょっと不機嫌です。

獅子くん、威張っちゃったのかな?

獅子丸は、ぬいぐるみが大好きでした

解体新書が得意なひめちゃんとは、対照的でした。

 

 

 

葛塚村が出てくる次の文書は、「鎌倉公方足利基氏書状」です。

鎌倉公方足利基氏書状
 ○神奈川県鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

大田美作孫七郎邦康申、上野国山上保内田部・薄井・葛塚村才事、退違亂輩、全知行様ニ
可有沙汰候、謹言、
 三月十八日           基氏(花押)
  宇都宮下野守殿
(『群馬県史・資料編6』)

「神奈川県鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書」とは、また「大田貞宗寄進状」と同じ所にあったのです


まず差出人は、鎌倉公方足利基氏です。
受け取り人は、宇都宮下野守・宇都宮氏綱です。

足利基氏は足利尊氏の息子で初代鎌倉公方です。


ウイキペデイアによれば、
暦応3年(1340)3月5日生まれ、貞治6年(1367)4月26日死亡と言うことですから、27才で亡くなっているのです
鎌倉公方の在任期間は貞和5年(1349)9月9日から貞治6年(1367)4月26日です。
ということは、9才の子供が鎌倉公方になったのです
当然大人の補佐が必要です
その一人が、上杉憲顕だったのです

宇都宮氏綱は、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)で足利直義方に着いた上杉憲顕が剥奪された上野・越後の守護職を与えられました。

ところが、上杉憲顕が放免されるとその返還を求められ、剥奪されるのです(貞治元年1362)


この文書は月日しか記入されていません
でも観応の擾乱の結果としての事績なので、『群馬県史・資料編6』では、観応の次の年号文和元年の所に入っています

上野・越後の守護剥奪は、幼い心にすり込まれた上杉憲顕への信頼によってもたらされたなんて、宇都宮さんにはいい迷惑でしたね

この文書の時は、宇都宮さんが上野守護でした

では、文書の中身を検討しましょう

 


「大田美作孫七郎邦康申」

「大田美作孫七郎邦康」、大田邦康が苗字と名前です。
大田邦康は大田美作孫七郎つまり大田美作の孫の七郎・7番目の男の子であると受け取れます


大田美作(おおたみまさか)とは誰でしょう?
聞いた事ありますね


「大田貞宗寄進状」で、大田貞宗は前美作権守(さきのみまさかごんのかみ)と署名しています
「大田貞宗寄進状」は建武元年(1334)、この文書は年未詳ですが群馬県史では文和元年(1352)に入れています。
そうすると約20年で孫がこの地を支配していると受け取られます


「大田貞宗寄進状」を書いたとき大田貞宗は高齢で、息子は短命だっとと受け取れます
前美作権守なので第一線を引退していたけど、出張らなければならない事態だったのかもしれません

「申」は口で訴えたのではなく、申文(もうしぶみ)を鎌倉公方に提出したのでしょう。
残念ながらそれは残っていないようです


「上野国山上保内田部・薄井・葛塚村才事」

どこかで見た地名です。
山上保内田部・葛塚村は「大田貞宗寄進状」にありました
薄井は、「かばい」で久保井のことだと言われています


山上保(やまがみほ)は山上(桐生市新里町山上)だけでなく、田部(前橋市粕川町田面)から東は桐生市新里町新川久保井まで含まれていたのです


「退違亂輩」

「違亂輩(いらんのやから)を退けとは、言うことをきかない奴らを退けてということです。
大田邦康が山上保内田部・薄井・葛塚村を支配するのを邪魔している連中がいるということです
山上保は山上氏が地盤としていたところなので、違亂輩(いらんのやから)とは山上氏のことと考えられます
山上さんまだいたんですね


「全知行様ニ可有沙汰候」

全知行とは全く知行するということ、つまりちゃんと支配するということでしょうか?
可有沙汰候とは「沙汰有るべく候」で、この場合の沙汰とは全知行出来るように対処しなさいということになります

「謹言」
これは文書の終わりのきまり文句です。

この鎌倉公方の文書は、大田邦康の「山上保内田部・薄井・葛塚村で言うことをきかない連中がいます。なんとかして下さい。」という訴えに対して出された沙汰(命令・指示)です。


やはり山上の領主は、太田さんです
違亂輩(いらんのやから)とは山上さんでしょう

 

 

 

太田貞宗寄進状とこの鎌倉公方足利基氏書状から、中世山上を支配していたのは、太田氏と知れます。

そして、新里の人が大好きな山上氏は違亂輩として存在していたらしいことが知れます

とても、新田義貞について鎌倉攻めに行けるような状態ではなかったでしょう

そうすると、新田16騎の山上六郎左衛門は、実在が怪しくなります

上野国山上出身の山上六郎左衛門が、鎌倉目指して出陣するは無理そうです

 

 

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改稿  2024.06.07

 

 

 

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太田貞宗寄進状・その6(建武元年11月27日)

2024-06-04 08:37:16 | 山上保の物語・総集編

昨日の夕方は、激しい雷雨に見舞われました

ひめちゃんは、雷鳴を聞いて少し短めのお散歩で切り上げておうちに入れてもらいました。

昨夜は、タバサねーちゃんも一緒におうち犬です。

タバサねーちゃん、もうじき16歳です

 

5年前の今頃、七海ママはまだ健在でした

2004年の6月生まれのママは、15歳になったところです。

もてもての熟女で、雄犬はみんな、ひめちゃんよりママに挨拶しようとしました

末っ子のひめちゃんは、いつもママと一緒でした

もうじき、もう1名の末っ子・獅子丸が帰ってきます

 

 

 

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

 

太田貞宗寄進状は未来の約束でした。


どうして、建武元年11月27日に出さなければならなかったのでしょうか
限年紀沽却が終わってからでは、どうして間に合わないのでしょう?

建武元年前後のことを確認します

まず建武元年(1334)の前の年、元弘3年(1333)の出来事です


5月8日、新田義貞が生品神社で挙兵しています
5月22日、稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅亡します。
この時、自刃した北条高時の遺児亀寿丸は、諏訪に逃れます
6月5日、後醍醐天皇帰京、建武の新政が始まります

論功恩賞は公家に厚く、実際に戦った武士にはうすいものでした
論功にみあう土地を与えられない武士達は不満を抱きました
そして新しい盟主として足利尊氏がクローズアップされてくるのです

10月20日、鎮守府将軍・北畠顕家は義良親王を奉じて陸奥国多賀城に向かいます。
12月14日、足利直義は、成良親王を奉じて鎌倉に向かいます。


建武元年(1334)
北条の残党による蜂起や政権内のごたごたで、世の中落ち着きません

11月15日、後醍醐天皇は護良親王を足利直義に預けました。
11月27日、太田貞宗寄進状が書かれました
旧暦なので今のこよみだと、年末あたりです
赤城おろしが冷たい、冬の収穫物も何もない時に書いたのです


建武2年(1335)
相変わらず北条の残党による蜂起が繰り返されています
7月14日、中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発します
諏訪神党・諏訪頼重らが北条時行(北条高時の遺児亀寿丸)を擁して信濃国に挙兵、鎌倉に攻め寄せます
7月23日、足利直義は、護良親王を殺害して西奔します
7月25日、北条時行は鎌倉を占拠します


こう眺めると、諏訪が目立ちます

太田さんがこの2・3年どういう風に振る舞ってきたか分かりませんが、今現在は山上(やまがみ)の主(あるじ)のようです
政権に公認されているようです
山上の主は寺社を押さえる必要があります
寄進するから言うことを聞きなさいと言います

山上の諏訪神社は、諏訪の諏訪大社を勧請したものです。
諏訪での動きが気になったかもしれません

 

太田貞宗寄進状から、鎌倉末期(元弘3年)の上野国山上の支配者は、太田貞宗です。

藤姓足利氏の山上氏ではありません。

上野国山上から、山上六郎左衛門が新田義貞に従って鎌倉責めに行ったとは考えにくいです。

新田16騎の山上六郎左衛門が実在だとしても、上野国山上が彼の故郷とは考えにくいのがわかります。

 

 

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改稿 2024.06.04

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太田貞宗寄進状・その5(未来の約束)

2024-06-01 14:55:43 | 山上保の物語・総集編

ひめちゃんちとタバサねーちゃんは、昨日は一日中室内犬でした。

今日は晴れて、お外犬です

 

2019年の6月、実家に帰った獅子丸は、元気いっぱいにお散歩です

東の牧場にもよく行きました

ヤギさん家族も増えていきました

 

 

 

 

 

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

 

この文書には、寄進する3ヶ所(田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、)が、まずあげられていました。
そして、気になるのは、どこも今は期限付きで売られている(限年紀沽却)という事でした
いったいいつ返ってくるのか、気になるところです

 

 

本日の検討部分です
「以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件」

 


「以件得分」
「以」は体言の直前について、「~で以て~を通して」の意味、「件」は、くだんつまり前に述べたことです。
そうすると、この部分は前に述べたことでゲットした分はという事になります。
3ヶ所が限年紀沽却の期限が過ぎて寄進された分はということです

 



「神事料田不足之時」
料田とは、神社の運営のための田で課税対象外だったようです
すると、諏訪神社が経済的に運営資金が不足した時というような事でしょうか?

 



「且令勤行祭祀、且可備當社燈油也」

且は「且~且~」の形で、「あるいは~あるいは~」、または「一方では~一方では~」


令勤行祭祀は、「勤行祭祀」は神社のお仕事で、「令」は使役と言うより婉曲で「~する」くらいでしょうか?
可備當社燈油也、普通に読むと「當社に燈油を備うべきなり」かな?

この部分の解釈は難しいです。
これからあげる分は予備の予算だよ、しっかりお仕事(祈祷)して燈油も備蓄しておいてね(^-^)/

 


「為祝管領可勤彼役也」

「管領」とは、領地を支配することです
「可勤彼役也」、なんとなく「彼の役を勤むべきなり」と読めてしますうんですけど
そうすると、最初の「為祝」は「祝(ほうり)として」かな?
祝(ほうり)は神官で、神主よりも下という説もあります。

しっかり神官として領地の管理もして加持祈祷のお仕事もしてね
そんな感じを受けます。

「乃寄進状如件」最後は決まり文句のようなものです。
寄進状は前に述べた通りでーす

 



これは未来の約束です
多くの人は限年紀のあと寄進したと言ってますが、本当に寄進されたのでしょうか?


ウイキペデイアによれば、信濃国諏訪大社では、鎌倉時代の初期に大祝、権祝、擬祝、副祝などの職名があったといいます。

山上の諏訪神社は、この時代(建武元年)太田貞宗を領主としていたのです
山上を支配していたのは、太田貞宗だったのでーす


あれ、山上さんはどうしたんでしょう?

存在感ありませんね

危うし、山上六郎左衛門の実在

山上氏はいたとしても、新田義貞について鎌倉攻めに行くような存在ではなかったかも

まして、早川を挟んで新田氏と領土争いをしていた淵名氏の一族・藤姓足利市の山上さんだもの

 

 

 

初出  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー中世葛塚村考

改稿  2024.06.01

 

 

(つづく)

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