第17章 行くも地獄、行かぬも地獄
安寿(アンジュ)は、蕎麦屋まで送ってもらってからバイクで帰宅した。
暦も師走に入り、長野県の中では温暖な上田市ではあるが、さすがにバイクを運転するには厳しい空気になってきた。風は、冷たいを通り越して、痛い。
上田駅からバイクで10分ぐらいの金井という地区のアパートに住んでいる。市街地には近くて便利なのだが、道が狭くて坂が多いというのが、たまに傷だ。上田市民にこよなく愛されている太郎山の傾斜地にあり、集落の間にはリンゴ畑が広がっている。長閑(のどか)な風景で、心身を休めるには、いい場所だ。
鍵を開けて、アパートの中に入った。
部屋の中は静かで、吐く息も白かった。
「うー、寒い、寒い」と急いで石油ストーブとコタツを付けた。
室内が暖まってきた頃合いを見計らって、慶士(ケイジ)の部屋に入った。
神主と話した感じでは、慶士が盗んだというのは、単なる憶測で、証拠は全くなさそうだった。でも、いったい、誰が、何の目的で盗んだのだろう?骨董品マニアが、趣味や売買目的で盗んだのだろうか?もしそうなら、犯人を捕まえて盗品を回収すれば、事件は解決する。そうではなく、慶士の失踪と関係しているなら… 何か、とても嫌な予感がする。
慶士が山家神社を訪れたのが1ヶ月ほど前。
行方不明になったのが1週間ほど前。
幸村の脇差しが盗まれたのが判明したのが1日前。
遡って考えてみると、慶士が山家神社を訪れたのが、引き金になって、一連の事件が動き始めているような気がする。
そもそも、慶士が、神社を訪れた、真の目的は何だったのだろう?
安寿は椅子に腰掛けて、本棚を眺めた。
天井近くまである本棚が三つ並び、本やファイルがびっしりと並んでいる。
慶士が帰って来なくなってからも、彼の机の引き出しや本棚などは調べていなかった。内心、女が絡んでいるかもしれないという不安があった。下手に調べて、浮気の証拠がいろいろと出てくるのが怖かった。海野が言っていたように、慶士はプレイボーイで女癖が悪い。それは百も承知で、浮気のひとつやふたつには、薄々感づいていた。しかし、敢えて気付かない振りをしていた。もし、彼の物を根掘り葉掘り調べて、それこそ、決定的な証拠が出てきたりしたら、許す自信がなかった。慶士がもし帰って来ても、もう彼とは一緒に暮らせないかもしれない。
目を閉じて大きく深呼吸した。
行くも地獄、行かぬも地獄。ならば行って後悔したほうがいい、と意を決して本に手を伸ばした。
先ずは、真田一族をはじめ歴史や郷土史に関する本を、ごっそりと本棚から抜き取って机の上に山積みにした。さすがに全部読む気にはならず、何かメモ書きや付箋などが入っていないか、ページをパラパラとめくって探してみた。
数冊探してみたが、めぼしい物は出てこなかったが、根気よくページをめくった。
とあるページの角が折られているのに気が付いた。そこは、真田幸村の逃亡伝説が書かれているページだったので、そのページからじっくりと読んでみた。
安寿は、正直言って、真田幸村についてはあまり詳しく知らなかった。子供の頃から、歴史が好きという訳でもなかったし、クラスの男子のように戦国武将に熱狂するような事もなかった。しかし、中学の時に上田に引越して来てからは、その名前は、いやがおうにも知る事になった。ただ、幸村をはじめ真田一族や十勇士の名前は、なんとなくは知っていたが、その詳しい生涯などは知らなかった。
本棚にあった本を読んで、初めて詳しく、真田幸村の生涯について知ることができた。
真田幸村の生涯を簡単に説明すると、1500年代半ば、真田昌幸の次男として誕生した。今でこそ、幸村と呼ばれているが、実は正式な名前は、”信繁(のぶしげ)”であった。
18歳の頃、越後の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の下に、人質として赴いた。その後、上杉景勝が上洛した際に、豊臣秀吉に気に入られ近習として取り立てられ、それからしばらくして、秀吉の有力家臣であった大谷吉継(おおたに よしつぐ)の娘と結婚する。
秀吉が亡くなった後、政治を牛耳るようになった家康が、1600年、上杉景勝を討伐する為、兵を会津に向かわせた。
幸村は、父の昌幸、兄の信之と共に、徳川方の討伐軍に加わり進軍した。しかし、現在の栃木県佐野市あたりまで来た時に、豊臣方から密書が届く。その中身は、家康を討伐するために挙兵するので、それに加わって欲しいという要請だった。
真田親子は、議論を重ねた末、幸村と父の昌幸は豊臣方へ、兄の信行は徳川方へ付くという結論に達した。真田親子は袂を分かち、幸村は父と共に信州上田城に引き返し、兄の信行は家康の下に駆けつけた。
会津に向かっていた徳川軍は進路を東から西に変え、家康は主力を率いて東海道を、息子の秀忠が別働隊を率いて中仙道を進んだ。
秀忠は、信州の小諸城に入ってから、真田軍が守る上田城を攻めた。真田軍は4千程度、一方、秀忠軍は3万8千と、凡そ10倍の兵力だった。そのような逆境においても、幸村と昌幸は、巧みな武略を駆使して秀忠軍を翻弄し、堅固に城を守った。
落城を諦めた秀忠は小諸に引き返し、主力の家康軍と合流すべく美濃へと向かった。しかし、上田城で、数日足止めを食らったせいで、天下分け目の関ケ原の戦いには間に合わなかった。
関ケ原の戦いは、徳川軍が勝利した。
徳川に刃向かった幸村は、父の昌幸と共に、高野山の九度山に幽閉された。やがて、父の昌幸は亡くなり、幸村は、九度山で10数年、不遇の時代を過ごすことになる。
関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は、征夷大将軍となり江戸に徳川幕府を開く。それから10年ほど時が経ち、江戸と大阪の間に、不穏な空気が流れはじめる。
豊臣秀吉の息子である秀頼が再建した方広寺の鐘に書かれた「国家安康、君臣豊楽」の言葉が、”家”と”康”の字を分けいるので、これは家康への呪いの言葉だと言い掛かりを付けて、家康が戦を仕掛ける。これが世に言う大阪城冬の陣だ。
この情報を聞きつけた幸村は家臣共々、九度山を脱出し大阪城に赴く。
幸村は出撃作を進言するも、戦経験のない秀頼家臣の主張により篭城策が取られることになる。それでも幸村は、城構えの最前線に真田丸と呼ばれる出丸を作り、徳川軍に大打撃を与えた。結局、家康のしたたかな戦略により、冬の陣は和睦となり、戦は終わった。外堀を埋めるという和睦条件だったが、徳川軍は、すっとぼけて内堀も全て埋めてしまった。それは、次なる戦いへの布石でもあった。
冬の陣から半年後、家康は再び、大阪城を攻める。大阪城夏の陣だ。
幸村は、大阪城の南にある茶臼山に陣取り、獅子奮迅の活躍を見せる。最後の突撃では、あと少しで家康の首を取る所まで攻めたが、衆寡敵せず、討ち死にした。燃え盛る大阪城の中で、豊臣秀頼も、母の淀君と共に自刃し、戦塵の灰と化した。
と…ここまでが、いわゆる歴史の通説だが、実は、幸村は秀頼を連れて薩摩に逃亡したという伝説があると書いてあった。
暖房を入れているとは言え、底冷えする部屋の中で、肩肘張って本を読んでいたせいで疲れを感じた。
「あーっ、何だか少し肩が凝ってきたし、何か温かい物でも飲むか」と本を置いて、台所に向かった。
冷蔵庫から、牛乳を取り出し、電子レンジで温めてから、たっぷりとスプーン2杯分、はちみつを入れて書き混ぜた。掬い上げたスプーンには、薄白い乳膜がまとわり付いていたので、ペロンと嘗めて食べた。スプーンに残ったはちみつと混じった濃厚なうまみが、口から鼻へとやさしく広がった。
第17章 終了
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