さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

はしごをはずされた支倉常長 5

2016年03月02日 | 東北シリーズ

   

伊達政宗の命を受けて太平洋を渡り、メキシコ経由で大西洋を渡りスペインに上陸、
そこからイタリアに行ってローマ教皇にまで会った支倉六右衛門常長。彼は天皇家を
祖先とする家柄の奥州の武将。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮半島にも行った
経歴を持ちます。



政宗の信頼篤い臣下だったのでしょう。使節団の正使としてローマに向かいました。
これがそのとき、政宗からローマ教皇に宛てられた書状です(展示してあるのは
複製ですが)。「宣教師を派遣してほしい。メキシコと交易したいから、スペイン
国王へ仲介してほしい」といった内容だそうです。

行きには同行していた案内役のスペイン人宣教師ルイス・ソテロの故郷に寄って
歓迎されたり、はるか海の向こうから刀を差して風格のあるサムライがやってきた
ことが訪ねた土地の市民に珍しがられ、パレードまであったとか。

常長はスペイン王フェリペ3世、そしてついにローマ教皇パウルス5世に謁見を
果たします。



これが教皇から受け取ったローマ市民権証書。彼は貴族の地位を得て、ローマに住む
ことが許されたのです。政宗の書状には、彼自身も洗礼を受けて、奥州領にキリスト
教を広めたいと書いてあったのですから、それだけ厚遇されたのでしょう
。しかし
本当に「独眼竜キリスト信者」になるつもりなんてあったのかぁ?結局それは国際上の
約束を破ったことになります。なにせその頃、日本ではキリスト教を禁じる政策を
始めていたのですから。

地球の反対側まで使いに出されて、「はしごをはずされる」とはまさにこのことです。
ヨーロッパにまでやってきて、教皇に「よろしく」といって洗礼を受け、名前もドン・
フィリッポ・フランシスコってまでなっちゃって、そこで「日本では禁キリシタン」
なんてニュースが入ってくるんだから。

帰りは散々ですよ。太平洋を渡ってようやく帰ってきたのに、マニラで2年間も
帰国の許可が出なかった。その間に、息子に向けて「帰りたいよう」という手紙を
出しているのです。バナナとか食ってたのかな。パクチーは口に合ったのか?

太平洋と大西洋を渡り、はるばるスペイン王やローマ教皇にまで会ってきたのに、
帰ってくるときには禁キリシタン。政宗のお使いを命をかけて頑張ったのに、そのザマ。
実に7年の歳月を旅してきたのです。疲れちゃったのでしょう。俺って何だったんだ、と
思ったのでしょう。帰国して2年後に死んでしまいました。行き先は極楽ではなく
天国か?

しかも後を継いだ息子は、親父がキリシタンだった責任を問われて処刑され、お家
断絶。いくらなんでもひどすぎる。

でも名誉は復活したよ。250年以上過ぎて、江戸幕府が倒れたあとに明治政府が欧米
視察のために岩倉使節団を派遣したとき、イタリアで常長がやってきていたことを
発見し、たまげて感動したそうですから。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤
博文、そうそうたるメンバーが力づけられたのです。それに今では仙台市博物館に
こんなふうに展示されて、国宝にまでなってますからねェ(^益^)b

おまけに:慶長遣欧使節団は、スペインの都市セビリアの近くにあるコリア・デル・リオ
という港街に長く滞在していました。そこにはハポン(日本)姓の人が数百人住んで
いるそうで、どうやら現地に留まってそのまま残った仙台藩の藩士などの子孫がたく
さんいるらしいのです。
世界一周を果たしたマゼラン一行の中にも、平和で住みやすいところにしばらく落ち
着いたときには、「俺、もうここで一生暮らすわ」と言って落ち着いちゃった連中が
いました。きっと現地の女性と愛が芽生えたのでしょう♪「拙者、ナントカでござる!」
なんて言っていたサムライも、ちょんまげを切り落としてラテン系美女と子作りか~。
それもいい(^益^)b



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