こんにちは、おそくなってすいません教育保体の服部です。
題名のとおりです。
この日記にこんなことを書いていいのか疑問に思ったのですが、なんかしてないと気が紛れないので勘弁してください
1月18日の日曜日、自分は課題に追われいつも通りだらだら生活を送っていました。
その二日前に風邪をひいてしまいさらにだらだら増しって感じでした。
20時20分くらいでしたかね。一本の電話がかかってきました。電話をとったのは母でしたが、いつもならいきなり叫びだすのに今回は明らかに違っていました。
なぜかめちゃくちゃ真剣な表情。僕を含め妹もおそらく何かあると一瞬で悟りました。
電話が切れた後発した第一声「おとうが脳幹出血で倒れてたところを発見されて病院に運ばれたみたい」
脳幹出血・・・実は救命救急士もひそかに将来の可能性の一つとしている僕はその病気がなんなのか聞いただけでわかってしまいました。
単身赴任で愛知にいる父のもとへ駆けつけるため、人生初レベルのスピードで用意をしていたのですが、電話がかかってきた時間が遅く、新幹線はありませんでした。ゆっくり用意しようってなった瞬間の涙のとまらなさ尋常じゃないっ、今日中じゃなきゃ絶対にやばいんだよ
とりあえず学校を休む、部活を休むだなんだで何人かの人に即連絡しました。
手段に困っている中、幸い神奈川に住んでいるおじさんが車で送ってくれることになったのですが、厚木まで行く間にかかってくる病院からの連絡。ほんとに最悪でした。一回くらい様態が安定した連絡くれよと何度も思いました
最初はまだ自力呼吸でしたがすぐに人工呼吸、心臓マッサージと負の連鎖は続きました。
「頼む回復しろ」ほんとにこれしか頭の中にありませんでした。
いやーしかし世界は残酷ですな。厚木に到着した瞬間でした。23:09、亡くなられました。
頭真っ白、意味がわからない。今こうしておとといのことを日記に書いているわけですが、めちゃくちゃ過去の話をしているような感じがします。
結局僕たちが到着したのは夜中の2時すぎくらいでしたかね。
テニスの帰りだったそうです。ラケットシューズ等が入ったカバンを下げたまま、17:30くらいに自宅前の道路で倒れているのをたまたま通りかかった通行人が発見してくれて救急車を呼んでくれたみたいです。
不幸中の幸いですかね。ほんとによかったね自宅の中にギリギリ入ってなくて。
しかも脳幹出血は一瞬で意識がなくなり、様態も急降下するんです。ってことはおそらく苦しまなかったってことじゃないっすか。
仮に復帰できたとしても重度な障害が残ってしまう、あるいは寝たきりになってしまう。そういう病気なんです。だからっていなくなってしまうのは一番のぞんでいないことでしたが。
年末年始に帰ってきてたのですが、そこで会ったのが最後になってしまいました。
もちろんこのために練習しているといっても過言ではないテニスをやり、出かけたりしました。
父自身も自分がやりたいことをやった帰りに倒れたので後悔はしていないと思うようにしています。行く前だったら後悔が残ったはずですからね。
僕にかけた最後の言葉は1月4日の見送りの時、「がんばれよ、じゃ行ってきます」です。
いい言葉を残していきましたな。まかせろって。
というわけですいません重い話をしてしまいました。とにかくみなさんにも本当に大切なもの、たくさんあるはずです。
すべてまもるというのは不可能ですが、あって当たり前と思ってはいけないと身に染みて感じました。
載せる画像もないので次に回します。じゃあもうすぐ実験終了で新たにパズドラ―になった清野くん。この後書きにくいかもしれないがたのむ!!!
部活には落ち着いたら必ず戻ります。