小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

271 葛城と海の神

2014年11月03日 02時20分51秒 | 多言語
大国主の誕生271 ―葛城と海の神―


 飯豊郎女は、父履中天皇の生母が葛城氏の女性であり、飯豊郎女自身の生母も
また葛城氏の女性という、葛城氏の血を濃くひく人物なのです。
 もしもシイネツヒコ系の青海氏と飯豊郎女が関係を持つのであれば、同時に
それはシイネツヒコ系の氏族と葛城氏が繋がっていることを意味します。

 ところで葛城には海神である大山祇神(おおやまつみ神)を祀る神社があるの
です。
 鴨山口神社がそれで、大山祗命、大日霊貴命、御霊大神(みれいおおかみ)・
天御中主神を祭神とします。
 興味深いのは、鴨山口神社の鎮座する地が御所市の大字櫛羅字大湊で、クジラ
だとか大湊だとか、大和にあって海に関係した地名であることです。
 大山祇神は、ホノニニギの妻コノハナノサクヤビメの父で、ふたりの間に生ま
れたホオリノミコトも、同じく海神である綿津見神の娘、豊玉比売を妻にしてい
ます。
 それから、葛城市太田には、海積神社が鎮座します。
 なお、海積神社の祭神は海積豊玉彦命で、この名は、豊玉比売と似通ったもの
ですが、この地での伝承では、豊玉比売は海積豊玉彦命の娘ということになって
いるらしいです。と、いうことは、海積豊玉彦命とは綿津見神そのものというこ
とになります。

 それでは、なぜ海のない葛城に海神たちを祀る神社が存在するのか、というこ
とです。
 その理由として考えられることのひとつに、葛城と、播磨や丹波、丹後のつな
がりを挙げることができます。
 これらの、いわば「連合体」は、大阪湾から明石海峡といった瀬戸内海の東部を
「勢力圏」に治めていた、ということです。
 葛城垂水宿禰の垂水が神戸区垂水区のことだとする門脇禎二(『葛城と古代国家』)
の説も頷けなくもありません。
 さらに、このことは後で取り上げる予定にしていますが、葛城臣は渡来人たちと
の関係が深い氏族でもあるのです。

 すると、「伊予国風土記逸文」にある、

 「伊予の国の風土記に曰く、乎知(おち)の郡の御嶋(みしま)。坐す神の御名は
大山積(おおやまつみ)の神、またの名を和多志(わたし)の大神なり。この神は、
仁徳天皇の御世にあらわれ、百済の国より渡り来まして、津の国の御嶋に坐しき。
この地を御嶋というのは津の国の御嶋からきたものである」

という一文が俄然超目されます。
 この記事にある御嶋の神は、愛媛県今治市大三島の大山祇神社の祭神大山祇神の
ことです。
 しかし、一方でこの記事は、大山祇神が朝鮮半島からやって来た神であり、仁徳
天皇の時代に来日した、としているのです。『古事記』や『日本書紀』などが伝える
こととは大きく異なります。
 ただし、仁徳天皇の時代、というのは引っ掛かるものがあります。
 葛城氏の本宗、葛城臣家の全盛期は、葛城曾都毘古の娘石之日売が仁徳天皇の皇后
になったことから始まるからです。

 それと、津の国とあるのは摂津国のことで、津の国の御嶋は大阪府の旧三島郡を
指すとされます。
 これらのことから、伊予国における大山祇神が半島から渡来してきた神とする伝承
は、渡来人たちが摂津の三島から移って来た時に一緒に大山祇神の信仰も持ち込まれ、
そのために大山祇神が半島の神だと思われたためではないか、とする説もあります。

 根拠となるのは、『播磨国風土記』に、摂津の三島に半島からの渡来人がいた、と
する記事があることです。
 これは『播磨国風土記』の揖保郡の大田の里の条にある記事で、それによると、

「大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、最初は紀伊の
名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の三島の賀美郡大田の村に移って
きた。
それが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元は紀伊の大田の
地名が由来である」

とあり、摂津の三島の大田に渡来人がいたことを伝えているわけです。
 そして、摂津の三島の大田、播磨国揖保郡の大田、それに大山祇神社の鎮座する愛媛県
今治市大三島が地名でもつながっていることがわかりますが、これに奈良県葛城市の太田
も加えてよいと思います。
 葛城市太田の海積神社の祭神は先にお話ししたように綿津見神のことであろう海積豊玉
彦命ですが、海神であることから関係があるように思えるのです。

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