小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

562 製鉄の人々と出雲の神 その17

2017年01月16日 01時51分46秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生562 ―製鉄の人々の伝承と出雲の神 その17―
 
 
 アメノヒボコが新羅から日本にやって来た理由は、妻のアカルヒメが日本に帰って
しまったのでそれを追って来た、と『古事記』には記されています。
 このアカルヒメを祀っていたといわれるのが、大阪市東成区の比売許曽神社(ひめ
こそ神社)です。
 現在の主祭神は下照比売命(シタテルヒメノミコト)ですが、この女神は大国主の娘で
あり、アヂシキタカヒコネの同母妹でもあるのです。
 なお、大阪市鶴見区にはアヂシキタカヒコネを主祭神とする阿遅速雄神社(あじは
やお神社)が鎮座しています。
 もっとも、アカルヒメと下照比売は本来別の神で、いつしか混同されるようなったと
見るのが一般的ではありますが、このようにアメノヒボコと出雲の神が時代の下ると
ともに結びついていったようです。
 
 アメノヒボコの正体は渡来人集団のことであった、と多くの研究者が考えるところ
なのですが、このアメノヒボコが来日当初から先住の人々と融合していたわけでは
なかったようです。
 それと言うのも、『日本書紀』では、アメノヒボコははじめ播磨国宍粟邑(兵庫県
宍粟市)に居住していたとあるのですが、『播磨国風土記』には、アメノヒボコと在住
勢力との紛争がいくつか伝承として残されているからです。
 
 『日本書紀』が記すところでも、アメノヒボコは流転の末に但馬に落ち着いています。
 その点、『古事記』では簡潔に記されています。妻のアカルヒメを追いかけて難波に
上陸しようとしたアメノヒボコは、おそらく瀬戸内海を通ってきて難波の手前で渡の神に
遮られてしまいます。それで引き返して但馬に上陸した、とするだけです。
 
 ただ、この伝承も、神武天皇や応神天皇と重なる部分があり興味を惹きます。
 神武天皇も応神天皇も瀬戸内海を通って難波に上陸しようとして(厳密には神武
天皇の場合、一度日下に上陸していますが)、叶わず紀伊に廻ります。
 高天の原を追放されたスサノオも『日本書紀』の一書によれば、朝鮮に降り立ち、
それから紀伊へと遷ったといいます。
 アメノヒボコも瀬戸内海を通って難波に上陸しようとしてそれが叶わなかったわけ
ですが、こちらの場合は紀伊には廻らずに航路を引換し、日本海側に廻ったようです。
 
 さて『日本書紀』が記すところは、アメノヒボコははじめ播磨国宍粟邑(兵庫県宍粟市)に
住みつき、そこから宇治川を遡って近江国吾名邑(あな邑)に移り、しばらくそこに居住
した後、若狭国を経て但馬国に移ってそこに根を下ろした、ということです。
 
 この記述では、アメノヒボコは近江国吾名邑にしばらくの期間居住していたことに
なりますが、その吾名邑とはどこなのでしょうか。
 実は吾名村の比定地には諸説があり、そのひとつが坂田郡阿那郷です。
 坂田郡阿那郷は、現在では米原市に含まれています。なお、阿那郷は後に息長郷
(おきなが郷)と改められていますが、これはアメノヒボコの子孫である葛城の高額比売が
息長宿禰王(オキナガノスクネノミコ)に嫁いで息長帯比売命(神功皇后)を生んだとする
伝承と結びつくものでもあります。
 
 その他の比定地には草津市穴村町が挙げられています。ここにはアメノヒボコを祭神
とする安羅神社(やすら神社)が鎮座します。
 
 そして、もうひとつ蒲生郡竜王町綾戸もまた吾名邑の比定地となっています。
 この地に鎮座する苗村神社(なむら神社)は式内社の長寸神社の論社ですが、社伝に
よれば、この地がアメノヒボコの吾名邑で、「アナムラ」が「那牟羅(なむら)」と転じ、「長寸」
(寸は村の略字と見做すそうです)になったといいます。
 
 蒲生郡竜王町といえば、ここには鏡という地名がありアメノヒボコを祭神とする鏡神社が
鎮座します。
 『日本書紀』によれば、アメノヒボコが吾名邑を離れた後も、この地に残った従者たちが
いたようで、
 
「近江の鏡村の谷の陶人は天日槍(アメノヒボコ)の従人なり」
 
と、記されています。
 その鏡村の比定地がここ竜王町鏡なのです。
 
 さらに言えば、竜王町は野洲市と隣接しています。
 ホムチワケの生母である垂仁天皇皇后のサホビメの死後、代わって丹波比古多多須
美知能宇斯王(タニワノヒコタタスミノウシ王)の娘、比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)が
召されて皇后となりますが、丹波比古多多須美知能宇斯王は日子坐王と天之御影神
(アメノミカゲ神)の娘、息長水依比売(オキナガミズヨリヒメ)との間に生まれた人物です。
 そして、天之御影神を祭神とするのが野洲市の御上神社なのです。
 
 また、草津市穴村町説は、穴村という地名とともに、ここにアメノヒボコを祭神とする安羅
神社(やすら神社)が鎮座するからなのですが、朝鮮半島の加羅諸国の中に安羅という
国が存在しました。
 
 履中天皇の御子で、仁賢天皇と顕宗天皇のちちである市辺之忍歯王(イチノベノオシ
ハノミコ)が近江で雄略天皇に殺害されたのは、ふたりが近江の久多綿(くたわた)の
蚊屋野(かやの)に狩りに出かけた時でした。
蚊屋野は滋賀県蒲生郡日野町に比定されますが、蚊屋野は、「伽耶の野」を思わせる
もので、やはり朝鮮との関係を見え隠れするのです。

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