小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

21 長幡部と桑田玖賀媛の悲恋

2012年10月10日 23時56分25秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生㉑ ―長幡部と桑田玖賀媛の悲恋―


 それから、新皇后の名前にハタという言葉が入っていること、さらに『日本書紀』
では「綺」という字を用いていることにも注目したいと思います。

 『常陸国風土記』の久慈郡の項に、このような話が載せられています。

 太田の郷に長幡部(ながはたべ)の社あり。珠売美万命(スメミマノミコト=ニニ
ギノミコトのことといわれています)が天より降った時に、その御服を織るために従っ
て一緒に降ったカムハタヒメノミコト(綺日女命)を祀る。この神は降った日向の土
地から美濃の引津根(ひきつね)の丘に移った。
 後、崇神天皇の時代に、長幡部の祖先のタテノミコト(多弖命)が美濃から久慈に
移り機殿(はたどの=はた織り機の置かれた製作所)を造った。そこで作られたハタ
(服)は、屈強な武人が鋭い刀をもってしても断ち切ることができないものだった。
毎年、作られたハタの中でも最上のものが神社に奉納される。

 ここに登場する長幡部の社とは、茨城県常陸太田市にある長幡部神社のことです。
祭神はここに登場する綺日女命と多弖命です。
 カムハタヒメは、ニニギの服を織るために天より同行してきたわけで、長幡部の性格
を表す神でもあります。この神名にあてられた漢字が「綺」であることに注目したいわ
けです。これをカニハタトベに当てはめると、この女性は天皇に仕える巫女の存在にな
ります。皇后に迎えられた理由がここから推測できるというものです。

 さらに、神の衣を織る巫女が神婚する神は穀霊神か雷神か蛇神であり、鴨氏の祖先も
別雷命である、と井上辰雄(『古代王権と語部』)が指摘していますが、カリハタトベ
(『日本書紀』ではカニハタトベ)のいた山代の大国にある朱智神社に祭られるカニメ
イカヅチノミコがやはり雷という言葉が名前に入っているのです。
 朱智神社が京田辺市にあることは先に書きましたが、京田辺市を含む南山城には旧相
楽郡加茂町(現木津川市)があり、ここは鴨氏が大和から拠点を移した地です。
 さらに述べて行きます。
 さて、カムハタヒメとともに、常陸太田市の長幡部神社に祀られている多弖命ですが、
この多弖という名前が「オオテ」とも読めることから、「大根(オオネ)王」のことで
はないかという説もあります。『古事記』の開化天皇の記に、

次に神大根王は、三野(美濃)国の本巣国造、長幡部連(ながはたべのむらじ)の始祖。

とある神大根王(大根王とも書かれたりします)です。前にお話しした、ヤマトタケル
の兄オオウスのカムオオネの王のふたりの娘を后にしたことは前にもお話ししましたね。
このように、『古事記』の記述は多弖命と一致します。

 このカムオオネの王は、開化天皇の皇子ヒコイマスの王が、近江の御上(みかみ)に
祀られていましたアメノミカゲの神(天之御影神)の娘オキナガミズヨリヒメ(息長水
依比売)を娶って生まれた王で、ミチノウシの王の同母兄弟なのです。

 そんなわけで、この第3の皇后に関する説話には、ヤマトタケル、美濃のカムオオネ
の王、丹波がみごとに絡み合っているのです。

 しかし、南山城を語る時に決して忘れてはいけない氏族がおります。
 この地に拠点を置いた鴨氏と、帰化人系の秦氏です。

 京都府の旧相楽郡加茂町(現在は木津川市に含まれています)には岡田鴨神社があり
ます。伝承では、鴨氏は、葛城の鴨から南山城の岡田に進出し、その後、現在の京都市
に進出し、上賀茂神社と下鴨神社を奉じるようになったといいます。
 秦氏もまた京都市へと進出していきました。
 京都における秦氏の拠点は、深草と葛野郡(かどの郡=現在の京都市北区、南区、中
京区、右京区、下京区、西京区)でした。
京都市には秦氏に関係するお寺や神社がいくつもあります。有名なところでは、伏見稲
荷大社、松尾大社などがそうです。

 帰化人や服属した隼人、蝦夷を軍事・交通の要衡の地に置く例は多く、その理由とし
て、大和政権下の豪族たちと違って彼らは皇族直属であったため、と考えられています。
 帰化人である秦氏もその例に漏れないわけですが、葛野郡は、東は近江に、西は丹波
に抜ける要衡であり、丹波は出雲へと抜けるルートでもあったのです。

 秦氏は、養蚕にも携わっていました。
 京都太秦の広隆寺は秦氏の氏寺ですが、秦酒公が衣をうず高く積んだので「うずまさ」
の名を雄略天皇から賜ったという話が『日本書紀』の「雄略紀」に載っています。


 さて、同じく『日本書紀』の、「仁徳紀」には次のような話が載せられています。

 16年の秋、天皇(註:16代仁徳天皇)は、女官の桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)を
舎人たちがいる中に呼ぶと、舎人たちに、
 「朕はこの玖賀媛を后にいたいと願っていたが皇后の嫉妬がひどくてそれが叶わない。
だからと言ってこのまま歳をとらせるのも忍びない」
と、話し、

 水底(みなそこ)ふ 臣の少女を 誰養はむ

と、歌を詠んで問いかけた。
 ここに、播磨国造の祖速待(はやまち)が進み出て、

 みかしほ 播磨速待 岩くだす 畏(かしこ)くとも 吾養わむ

と、詠んだので、天皇は玖賀媛を速待に賜った。
 しかし、玖賀媛は、
 「大君のおそばにいることが叶わないのであれば、私は一生独り身でいたいと思い
ます」
と、言って速待の妻になることを拒んだので、天皇は玖賀媛を桑田に送り返すことに
した。
 ところで天皇は、速待が玖賀媛を妻にしてくれることを望んでいたから、速待を桑田
まで送らせることにした。
 しかし、玖賀媛は病にかかり、その道中で亡くなってしまった。

 この哀しい物語の主人公桑田玖賀媛は、その名前から丹波の桑田郡の人ではなかったか、
と考えられています。
 桑田郡は現在の京都府亀岡市がそうなのですが、亀岡市には、篠町山本と篠町馬堀に
それぞれ桑田神社が鎮座しています。

・・・つづく

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