小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

612 八千矛の神 その17

2017年10月09日 01時07分01秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生612 ―八千矛の神 その17―


 応神・仁徳天皇の伝承を見てみると、海人が登場するとともに吉備との関わりが強いことに
気づきます。

 15代応神天皇の場合は、『日本書紀』の、応神天皇二十二年の記事に登場する妃の兄媛
(えひめ)で、兄媛は吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の娘と記されています。

 16代仁徳天皇の場合は、『古事記』に登場する黒日売(くろひめ)と八田若郎女(ヤタノ
ワキイラツメ)の伝承です。
 黒日売は、吉備の海部直(あまべのあたい)と記されています。
 八田若郎女の方は異母妹なのですが、この伝承の中に吉備国の児島の仕丁が登場するのです。

 もうひとつ、『播磨国風土記』の賀古郡の項には、12代景行天皇が、丸部臣(わにべの
おみ)らの祖、比古汝茅(ヒコナムチ)と、吉備比古の娘(もしくは妹か?)、吉備比売との
間に生まれた、と印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)を妻問した話が登場します。
 『古事記』には、景行天皇の后に針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)の
名が見られ、『播磨国風土記』の印南の別嬢のことだと解釈されていますが、こちらは吉備臣らの
祖、若建吉備津日子の娘と記されているのです。

 それでは、本来海人が伝えていたと考えられる、神語をはじめとする恋話に吉備が絡むのは
どういった理由によるものか、ということですが。
 これには、海人と吉備のつながり、それから海人と葛城のつながりの両方で見る必要があり
ます。

 まず海人と吉備のつながりについてですが。
 吉備の有力氏族である吉備上つ道臣、吉備下つ道臣、笠臣について、その始祖伝承は
『日本書紀』と『古事記』では異なる記述がなされています。
これに対して、天皇は大変満足し、吉備を分割して御友別の子どもたちに与えます。
 『日本書紀』には、応神天皇が親元に帰った兄媛を訪ねた時に、兄媛の兄弟たちに吉備を
分割して与えたことが始まりとしています。

 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に
与える。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは三野臣の
始祖なり。また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。それから兄の
浦凝別に苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」

と、『日本書紀』は記すのですが、これに対して『古事記』の方は、7代孝霊天皇の皇子である
大吉備津日子命が吉備上つ道臣の始祖、若日子建吉備津日子命が吉備下つ道臣と笠臣の始祖と
記しています。

 それで、この孝霊天皇のふたりの皇子ですが、それぞれの母親について、『古事記』は、
大吉備津日子命の生母を蝿伊呂泥(ハエイロネ)、またの名を意富夜麻登久邇阿礼比売命
(オオヤマトクニアレヒメノミコト)、若日子建吉備津日子命の生母を蝿伊呂杼(ハエイロド)と
します。
 このふたりは姉妹で、『古事記』は、3代安寧天皇の孫で、淡道(淡路)の御井宮に坐す
和知都美命(ワチツミノミコト)の娘と記しています。
 天皇ではない和知都美命の住まいが宮と称されているのは極めて珍しいケースなのですが、
その宮の名が御井宮。
 ここで思い出されるのが、仁徳天皇の時代に枯野と呼ばれる船で毎朝夕、淡路島の冷水を
酌んでそれを天皇に奉った、とする『古事記』の記事です。
 すでにお話ししたように、これは水取部の職務だと考えられるのです。
 仁徳天皇の恋話のひとつにある桑田の玖賀媛(くがひめ)。この人はおそらく丹波国桑田郡の
人だったのでしょうが、桑田郡には氷室が置かれていました。氷室の管理を行っていたのが
水取部です。
 また、八田若郎女の伝承に登場する吉備国の児島の仕丁は水取部に仕えていた、とあります。
 このように、水取部と関係がありそうな御井宮の主、和知都美命の娘たちが吉備上つ道臣、
吉備下つ道臣、笠臣の始祖を生んだ、と『古事記』にはあるのです。

 それから、もうひとつの、阿曇氏をはじめとする海人が葛城と関係を持っていたからなのでは
ないか、という考察についてですが。
 こちらは、むしろ葛城と吉備のつながりの方にその理由があるように思えます。

 すでに考察したように、玄界灘に浮かぶ沖ノ島の奥津宮、ここの祭神である多紀理毘売が、
『古事記』では大国主の妻となってアヂシキタカヒコネを生んだとなっています。
 そのアヂシキタカヒコネは葛城の高鴨神社にて祀られているのです。
 同じく葛城にて祀られている八重事代主も記紀では大国主の御子神とされており、こちら
では海洋性が備わっているのです。

 阿曇氏や海人が葛城と関係を持っている、そして葛城は吉備と関係を持っている。正確には
葛城の大豪族、葛城氏が吉備と関係を持っていた、ということなのです。