小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

534 出雲臣と青の人々 その7

2016年10月04日 01時01分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生534 ―出雲臣と青の人々 その7―
 
 
 このように、「中の宮」の南宮大社と「稚き児の宮」の敢国神社(あえくに神社)の近辺にはともに
青墓の地名が存在するわけですが、谷川健一(『青銅の神の足跡』)によれば、「本宮」の諏訪大社
下社の境内のわきには青塚と呼ばれる前方後円墳が存在するといいます。
 これは下諏訪青塚古墳のことなのですが、南宮大社の場合も大垣市青墓町の地名の由来は
大垣市昼飯町(ひるい町)にある昼飯大塚古墳から来ているという説があります。
 つまり、大塚が「青(おう)塚」になり、アオツカに変化したというわけです。
 
 伊賀の青墓の場合も、やはり近辺の佐那具町(さなぐ町)に御墓山古墳(みはかやま古墳)という
古墳が存在します。
 谷川健一の『青銅の神の足跡』によれば、古墳の名称から青墓の地名がきた大垣市の場合とは
逆に、伊賀市の場合は青墓の地名から古墳の名称が来たそうです。
 そもそも御墓山古墳という名称は大正10年に国の史蹟に指定されて以来のことであり、現地の
人々は「おうはか」と呼んでいたとあります。
 つまり、青墓が「おうはか」となり、御墓という字が当てられると、今度は「みはか」と変化した、と
いうのです。
 
 しかし、三社の南宮の近くにいずれも青の名が残されていることは注目に値します。
 同時に3つの南宮はやはり何らかのつながりを有していたと考えられることになります。
 その共通性について、前出の大和岩雄と谷川健一がともに挙げるのが、製鉄と、そして天武天皇
です。
 
 この辺りのことを少し詳しく見てみることにします。
 第38代天智天皇が薨去した後、吉野に隠遁していた大海人皇子(後の天武天皇)は挙兵します。
いわゆる壬申の乱です。
 
 『日本書紀』によれば天智天皇崩御は、天智天皇十年の十二月三日とあります。
 その後、当時の都であった近江大津宮(『日本書紀』では近江京とあります)では天智天皇の遺児、
大友皇子の即位に向けて動きます。
 これに対して吉野にて沈黙を守っていた大海人皇子が挙兵に向けて動いたのは六月二十二日の
ことでした。
 側近の、村国連男依(むらくにのむらじおより)、和珥部臣君手(わにべのおみきみて)、身毛君広
(むげのきみひろ)の3名に、
 「近江朝廷の臣らが朕を殺そうとしていると聞く。汝ら三人、急ぎ美濃国安八磨郡の多臣品治の
もとに行き、安八磨郡にて兵を起こせ。それから国司たちに命じてそれらの兵を集めさせ、不破の
道を押さえよ」
と、命じ、安八磨郡に派遣したのでした。
  安八磨郡(あはちま郡)は現在の岐阜県安八郡(あんぱち郡)ことと一般に解釈されていますが、
『大日本地名辞書』には美濃国池田郡のことを「もと安八郡の分地」としているから、安八磨郡は
安八郡と池田郡を含んだ地域のようです。
 この安八磨郡は大海人皇子に湯沐邑(ゆのむら、とうもくゆう)として与えられていたと『日本書紀』に
あります。湯沐邑とは、皇后や皇太子に与えられる封地のことです。
 多(太とも)品治は湯沐邑の湯沐令(ゆうのながし=管理者)で、『古事記』を編纂した太安万侶の父
といわれる人物です。 
 そういう意味において、大海人皇子が安八磨郡にて挙兵を考えたのは当然のことだったわけです。
 なお、安八磨郡は後の安八郡には「額田郷」が存在していたのです。
 井上辰夫は、「額田部と大和政権」(鶴岡静夫編『古代王権と氏族』に所収)の中で、額田部と大和
政権の直轄地である屯倉の分布が一致することから額田部氏が屯倉の管理も担っていたのではないか、
と説いていますが、谷川健一(『青銅の神の足跡』)は、額田部氏が製鉄にも携わっていたと考察します。
 額田部を称する氏族のひとつに額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)がいますが、『古事記』には
ホムチワケのために大湯坐と若湯坐が置かれたとあります。
 額田部湯坐連もこの湯坐を職務とする氏族であったものと考えられていますが、『古事記』は額田部
湯坐連を天彦根命の子孫と記し、『新撰姓氏録』は
 
 「天津彦根命の子、明立天御影命の後なり」
 
と、記します。
 天御影神は天目一箇神(アメノマヒトツ神)と同神であるといわれますが、天目一箇神は製鉄の神と
いわれる神なのです。
 
 少し話がはずれてしまったところで、『日本書紀』に記された大海人皇子の行動に話を戻します。
 大海人皇子が側近3名を安八磨郡に派遣したのが6月22日で、その2日後に事態が急変します。
 『日本書紀』によれば、六月二十四日、臣下のひとりが大海人皇子に、
 「近江の群臣らはすでに警戒しているでしょうから、安八磨郡への道中にも人が置かれて密使の三名が
通過するのは難しいと思われます。そうなれば、皇子はひとりの兵もなく裸同然で美濃に入ることになり
ます」
と、進言したので、大海人皇子は安八磨郡に向かった3人を呼び戻そうと考えます。
 そこで、大分君恵尺(おおきだのみきえさか)、黄書造大伴(きふみのみやつこおおとも)、逢臣志摩
(おうのおみしま)の3名を倭古京(都が近江であったため大和をこう称したようです。具体的には明日香を
指します)の留守司である高坂王のもとに派遣して駅鈴を求めました。
 駅というのは官馬を飼っている所で、いくら馬でも長距離の移動は疲労が溜まります。そこで駅にて馬を
乗り換えるのですが、駅鈴はその駅の馬を使用する許可証のとこである、と解釈されています。
 安八磨郡に向かった3名を呼び戻すために官馬を使おうと考えたようなのですが、ところが駅鈴は高坂王の
拒否に遭ってしまうのです。
 
 大海人皇子が駅鈴を求めたことは、高坂王から近江朝廷にも報告が行くはずです。そうなれば近江朝廷側も
大海人皇子の計画を疑い行動に移すはず。大海人皇子は大急ぎで吉野を脱出する必要に迫られたのです。