光のかけ橋

心と癒しの世界

覚醒体験

2008-10-09 11:15:24 | Weblog
接心と言って、集中座禅が12月に良く行われている所がありますが、その道場は月一回は必ず、接心を行っていました。
観音山の麓にある寺で、朝4~夜8時までの座禅で食事、トイレ以外は座りっぱなしでした。

座禅を始まって、あっと言う間に一日は過ぎました。残る4日間で悟りを開かないと、自分の生命を断つと決めていましたから、なんとしても明日は悟りを開かないと、心に決めて早朝4時起きて、座禅が始まりました。
睡魔と足の痛さは限界に達していましたが、命をかけていたから気持ちをしっかりと持って座りました。

少しずつ外の物音が聞こえるようになって、観音さんの仏像が見ていくうちに初め見た仏像の時と輝きが違っているのに気が付きました。
そして、それに平行するように、周りの外の音や鐘の合図する時の音はだんだん大きく音がなり響く感じがしました。

今まで、錆ついている心の垢がとれて、見るもの聞くものが、よりはっきり綺麗に見え、聞く音もより聞こえて行く感じです。
これは意識が洗われて言っているんだと思いました。

道場では、いつの間にか師匠と二人きりになっていました。
足が痛くて、意識ももうろうとしている時に、なんと師匠が自分の隣に場所を変えて隣に座りました。
足が痛くて、もう限界に達していた体を動かしていると叱責します。
知らないうちに涙がスーツと一筋落ちて行きました。
この涙は一体なんなのか?
どうして涙が、悲しい事もないのに?後から師匠に聞いたところ真珠の涙と言っていました。
貴重な涙であったんだと、後から思いました。

座禅中には、睡魔に襲われたり、意識がもうろうとして幻想とか見えてきたり、線香の燃える音まで聞こえてくるようになりました。
これは、魔境と言って、修行者には相手にしなさんなと昔から言われているものです。

意識は限界に達して、足の痛さはもう例えようがないぐらいに痛く、それでも睡魔も幻想も捨てて、ただ思いを手放しをしていました。
この意識が限界に達している時に、自分は死んだのか?
それとも宇宙にいて、師匠と二人で座っているのかとかの幻覚みたいな感じがしました。
そして、何日経ったとかも今日は何曜日かも解らなくなっていました。
トイレに行く途中で見た山々の山林とかはどうしてこんなに綺麗なのか?
明瞭に美しく輝いて見えます。

座禅中に意思がシャープというか空間がシャープになっているような感じです。
前にこの感情は体験していましたものが、また湧き上がって来ました。
クンダリニー覚醒の前とか、良く心臓にエネルギーが上がって、とても違和感を感じていたものとは少し違うもので、
この感情の感じたものが現れたなら、自分は死ぬとか恐怖を感じていました。
この乗り越えにくいものを、とっさに取放そうとしたところ、その絶妙なタイミングで師匠の恩恵によって、開く事ができました。

立って、立つのも忘れて、座って、座る事も忘れて、意識が限界に達した時に自分はこの感情の怖さ、恐怖から逃げだそうとしたところ師の恩恵によって、開く事ができました。


この意識をのり越える時にエックスシーの体験は筆舌では伝えられない限界があります。
素晴らしい気分になり、意識的に自分を超えるなにものかがあり、合理的な考えだけが全てではないと言うことです。
自然と一体と言うか、山々の木の音や風の音とこの世では聞いた事もないような鳥のさえずり、
鳥が自分であって、自分が鳥のようでした。全てが一体で、自然が自分でした。
あらゆる音や見える景色もまったく今まで見たものとは明らかに違っています。
まさにテッペンカケタカのホトトギスのひと声です。

座禅によって、自分の本性を悟る事が大切だと思います。
まず、結果を求めるのではなくて、なりゆきがだと思っています。
量よりも質と言われていますが、自分は量が大切だと思いますよ。
量の上での質だと言ったほうが良いのかもしれませんね。

座禅は思いを手放しにします。 居眠りをせず考えをせぬようにして、生き生きと覚めて骨組と筋肉で、正しい坐相をねらって行かないといけません。
それと何よりも正道を学んでいる師匠の下で座り、師の恩恵にて悟りを開く事ができると思います。

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