昨日12月5日をもってわたくし、はらだりょうじは28歳となった。
さっき綺麗になったばかりの宿のBARカウンターでぼけっと音楽を聞いていたら、ゴーイングステディの童貞ソーヤングが流れてきた。
その中に ”あー誰かが言ってた「あの頃は若かったー」うるせぇ、くだらねぇ” という歌詞がある。
聞いていてなんだか落ち着いた。どなたでも、誕生日の翌日におすすめの一曲ですのでどうぞ。
28にもなってダラダラと定職にも就かず生きていると、
「しっかりしろよ」とか「ちゃんとしなさい」とか周りからいろいろ言われるようになる。
…とおもっていたのだが、そんなことはなかった。
周りからは特に何も言われず好き勝手やらせて頂いている。
昨日は居候しているゲストハウスのバーカウンターを模様替えした。
溢れ出るアイデアを二人でぶちまけていたら、出来うる範囲で最高のバーカウンターが出来上がった。
誰かに否定されようが、過剰におだてられようが関係なく、我が道を突き進んだ先に浮かんだアイデアの中につまらないものはほとんどないのだとおもう。
それを、「ああした方がいい」とか「こういうもんだ」とか余計な雑味をぶち込んでしまうと、知識や技術ではない「何か」が削がれてしまうのだと思う。
多くの場合において、他人にとやかく言うというのはその人のことを信用していないのだと思っている。
「私はあなたを信用していない、だから私の言った通りにやって頂戴」
「あなたを信用していないから、大学に行った方がいい」
「あなたを信用していないから、それはやめた方がいい」
「あなたを信用していないから、毎日電話して」
「あなたを信用していないから、ここはこういう色を使って」
模様替えをしながら、「お願いだからこの道を通せんぼしないでくれ」と思っていた。
誰も通せんぼしない道の先にあるのは、それはそれはとても素敵で無敵な世界であるのだろう、と今でも信じている。
好きならば勝手にやっている、僕は自分でも意識しないのに勝手に生きているのだから、きっと生きるのが死ぬほど大好きなんだろうなと思っている。
好きで勝手にやって熱中しているモノの先にあるのが仮に地獄の苦しみだとしても、勝手にやっているレベルのものであれば、きっと不死鳥ののごとく蘇ることが出来るのだと思う。
他人をプロデュースとかナンタラという団体で恵まれない人々を支援するとか、
他人の為とかいって言い訳してないで、とっととハム太郎。
…違う、とっとと自分の為に生きたい。
家族も友達も会社の上司や部下も、勝手に成長しながら勝手に生きている、勝手に生きたその先で交わることがあったらハイタッチでもしよう。
もし、それでも心配してくれるのであれば、もしよろしければなのですが、
「なにやったっていいけどさ、たまにはここに帰ってきて顔出せよ」とか言って欲しい。
今、お借りしているパソコンでこの文章を打っているのだが、
先程使った黒板スプレー(吹きかけた箇所が黒板になるすごいやつ!)がまだ指についていたようで、
気がつけばそれがキーボードに移ってしまったようでやや緑がかっている。
信用して欲しいぜ!と声高に叫んだ途端これである。
言い訳が思いつかないほど焦っているが、まぁ拭けば大丈夫だ、きっとセーフだ。
そんなこんなで28歳になった、特に変わった事は何もない。
ただ、インドの刑務所で過ごすかもしれなかったこの時を、ここで過ごせている事に感謝して。