傍流点景

余所見と隙間と偏りだらけの見聞禄です
(・・・今年も放置癖は治らないか?)

避けては通れぬディラン~『No Direction Home』

2006-01-31 | 徒然(sound&vision)
 去年公開された音楽系のドキュメンタリーはいずれも劣らぬ見応えのあるものばかりだったが、今月半ばに観たマーティン・スコセッシ監督のボブ・ディランの『No Direction Home』ほど、個人的に大きなフィードバックがあったものはない。何せ、この半月ばかり当ブログの更新に身が入らないほど、私の好きな「ディラン周辺の人」関連をほじくり始めてしまったのだから。

 一言断るなら、私はディラン自身のファンではない。というか、彼のような存在はファンとか好きとか嫌いを超越したものだと思っている。ビートルズやローリング・ストーンズ、或いはエルヴィス・プレスリー等のある種「歴史的偉人」という位置付けだ。
 ただ正直なところ、私はずっと彼の「唄声」が苦手だった。あの特徴的な、硬質でザラついてひしゃげた声。歌うというよりは、言葉を投げ、ぶつけている感じ。唄が上手い下手は好みと関係がないが、声のトーンの好みはある。ディランの声は、私にとって耳馴染みの良いものではなかった。けれど、その詩は凄いと思う。彼の唄は詩が主体だ。メロディではない。現代の吟遊詩人とは彼のような存在を言うのだろう。但し悲しいかな、英語圏の人間ではないから、詩はダイレクトに耳に入ってはこない。曲だけ聴いてる分には、彼のフォーク・ソングは単調で素朴過ぎて、ひっかかりが無かった。そうして、彼の唄をちゃんと聴き始めた頃は、アルバムを2枚ほど買っても、さほど聴き込みはしなかった。

 ところがである。おそらく現代のロック・ミュージシャンで、ディランの影響を受けてない人は殆ど存在しないはずで、私の好きなアーティストも例外ではなかった。それどころか、我が最愛のギタリスト、ミック・ロンソンは、ディランの70年代のツアー【ローリング・サンダー・レヴュー】に参加していたので、殆ど仕方なく(苦笑)ツアーのライヴ・アルバム『ハード・レイン』と、ブートレッグを何枚か、そしてTVのライヴ中継のブートビデオなどを買った。このときのライヴ、ツアー・メンツはビジュアル的にもかなり私は好きで、“ロック”なディランを堪能できるが、いかんせん興味が彼でなく脇だったため、持っててもあまりありがたみを感じたことはなかった。
 その時期と前後して、当時NHKで放送されたD.A.ペネベイカー監督の『ドント・ルック・バック』('67)を観ることになる。'65年の英国ツアー時のディランのバックステージものドキュメンタリーだけど、これがベラボウに面白かったのである。“サブタレニアン・ホームシック・ブルース”の「歌詞の紙芝居」から始まるところから、グッと気持ちを持っていかれる。まだ若く、青くて繊細な色気のあるディランの姿。相手が誰であろうと無礼な態度や気に障ることがあれば、辛辣な言葉を浴びせる。カメラが回ってることなど気にも留めないかのように。常に緊張感をまとった彼の眼差し、佇まいは、ある意味既にフォーク・シンガーというより、ロック、パンクであった。しかし、仲間うちでは時折無愛想な表情を崩して、屈託ない笑顔を見せる。ツアーに同行していた当時の恋人、ジョーン・バエズの美貌(そして美声)やコケティッシュさも印象的だった。(彼女は先述の【ローリング~】のツアーにも参加している。そして『ノー・ディレクション~』でもインタヴューに応えているが、歳はとってもやはり知的美人であり、現在でもバリバリ現役・貫禄の女性活動家オーラを放っていた。余談だが、そんな彼女に対してディランは今でもロマンティックな気持ちを抱き続けているらしいのが、なんだか微笑ましいというか、イメージよりも可愛いいなあ、と好感度アップなのだった)
 それでもやはり、ファンではない私には特に掘り下げる気にもならず、それでも次なるディラン・アイテムを購入するハメになったのは'92年。【30周年記念コンサート】のブート・ビデオだった。コレはもう、当然ながらゲストの顔触れが凄過ぎた。個人的目玉はパール・ジャムのエディ・ヴェダー&マイク・マクレディ・コンビと、ルー・リード出演だったが、予想外に目と耳を奪われのはカッコ良過ぎる白髪鬼(笑)ジョニー・ウィンターと、凄まじいブーイングに晒されたシニード・オコナーだった。当のディランは・・・何か今一つ精彩にかけるというか、主役なのにやっぱり不機嫌そうな印象で、盛り上がってるのは客とゲストだけみたいで何だかなあ、と感じたものだ。
 だが、一番熱が入ってしまったのは、同じスコセッシ監督によるザ・バンドの『ラスト・ワルツ』DVD廉価版を購入して、観返してしまったことに尽きる。すっかり忘れてたが(笑>ヒドイ~)ディランとザ・バンドには浅からぬ縁があったのだった。おかげで、ゆるーーく続いてたザ・バンドへの愛が沸々と湧きあがってきてしまった---が、これはまた次の機会に。

 そんなこんなで、手元にあるこれらのディランものを改めて総ざらいしてしまうほど、いろいろと思うところの多かった『ノー・ディレクション・ホーム』だが、まずこの作品の面白さというのは、ディラン本人の来歴・歴史を振り返ること自体がアメリカン・ルーツ・ミュージックからポピュラー~フォーク、ロックへの変遷を見事に物語っている、ということなのであった。
 今作では、60年代までのディランの活動に絞られているのだけど、彼自身の当時のパフォーマンスに限らず、当時彼が影響を受けた音楽/アーティスト達の貴重な映像、インタヴューも盛りだくさんで、米国音楽史の資料的価値という意味でも、ディランのみならずアメリカン・ミュージックのファンは必見!といった内容になっている。(そして、それこそがスコセッシの目指したものであるように感じた)3時間余りの長丁場が苦にならないほど、興味深く音楽好きには楽しめるはずだ。

 そしてディランの何が、その他大勢のフォーク・シンガーと彼を決然と分けるものであったか、その孤高にして唯一の存在たらしめたのかも理解できる作品でもある。現在のディランは今も尚こう語る。「歌い始めたのは、ずっと自分の"home"(魂の故郷、という意味かと思う)は此処(出身地ミネソタの小さな街)ではないと感じたからだ。今でも、俺は自分の"home"を見つけるために唄っている」 ------それは、N.Y.に行った彼がプロテスト・フォーク・シンガーの新旗手として人気を得たとしても、時代の波にのって「世代の代弁者」的位置に祭り挙げられることを拒否した姿勢、仲間やフォロワーとされる人たちとさえ決して「つるまない/馴れ合わない」態度、何より多くのフォーク・ファンから「裏切り者!」と罵声を浴びせ掛けられても、自ら選んだエレクトリック・ギター・サウンド(ロック)への道を突き進んだことにも繋がるのだろう。ときに息切れしたり回り道をしたとしても、決して辿り付くことはないかもしれない、まだ見ぬ"home"を目指して旅を続ける。だからこそディランという存在は、芸能としてのパフォーマーに留まらない、正しく現代最高峰の吟遊詩人として揺ぎ無い位置に在るのだろう。

 改めて思うに"home"というのは、特にアメリカ人にとっては、普通よりも意義深い言葉かもなのかもしれない。建国300年余りの彼の国の、殆どの国民は移民なのだから。彼らは故郷を捨てて、あるいは理想を夢見てアメリカに来た。捨てた故郷には帰ることは出来ないし、理想とは違ったからといって簡単に戻れる訳でもない。やがて血は様々に混じりあい、遠ざかるほどに望郷の念は強まれど、ではその故郷とは何処なのか---或いはその"home"への道程こそが、彼の国の表現者にとって創造の源、命となっているかもしれない。

目玉はマーク・ロマネク

2005-10-28 | 徒然(sound&vision)
 シリーズ1弾(スパイク・ジョーンズ、ミシェル・ゴンドリー、クリス・カニンガム)は、私にとってはいまいちソソラれないメンツだったのだけど、本日発売のディレクターズ・レーベルvol2には、激しく気持ちが動いている。ただし今の私に4枚組+ボーナスディスク入りのBOXセットを即買出来るほどの胆の太さはなく;; 割引価格だった密林で予約カートに入れたものの…検討・保留中。とはいえ、私の最大の目的はマーク・ロマネクだけなのだが。

 私が初めてミュージック・ビデオの監督としてのマーク・ロマネクを初めて意識したのは、'93年のデヴィッド・ボウイのPV “Jump, They say”であった。ティン・マシーンでのリハビリ期間を終えて再生したボウイの完全復活アルバムとなった『Black Tie, White Noize』第1弾シングルカットの曲であるこのビデオを観て、当時の私は心底感激したのだ。「ああ、遂に本当に、彼は戻ってきた!」と。アルバムのみならず、プロモーション・ビデオでも挑戦的に、視覚を通して受け手の感性を試すようなボウイがアーティスト性を取り戻した、と。
 詩が暗示するシニカルな悲劇を、実にスタイリッシュに撮っている本作を観ながら、こういう画を撮れる(しかも“Look back in Anger”以来初めてボウイの顔面を「醜く」している!)監督の大胆さにもニヤリとした。
 ボウイのPV監督と言えば、70年代後半から80年代はなんと言ってもデヴィッド・マレットなのだが、マーク・ロマネクはマレットに近い毒のセンスを持ちつつ更に、現代的なヴィジュアル・スタイルを持っている人だなあ、と思った。

 次に彼の名前を観たのは、ボウイとも関係の深いトレント・レイズナーのNine Inch Nails“closer”であった。この作品には、ひっくり返った。実にゴシックと猟奇趣味の極北、禍々しいヴィジュアルのサンプリング状態。しかもアーティスト本人(つまりトレント)の臆面もない被虐願望の晒し方に、コチラの頬も引き攣ってしまうほど。(両腕緊縛で吊り上げられ、目隠し状態で「I wanna f**k you like a animal !」と叫ぶトレントの果敢さには頭を垂れるしかない、という感じ;;)
いや、どれだけ変態じみていようと、グロであろうと、全体をセピア色でくすませた画面、視覚イメージはひたすらに美しい。ある意味、モダンアートの世界…なのかもしれない。(事実、このPVはロマネク・コレクションの一部としてMOMA博物館所蔵になってるという。うーん)
 
 そして、最近ではなんと言っても最晩年のジョニー・キャッシュが、そのNINのカヴァーを唄った(!)“Hurt”である。私はこのビデオで初めて、写真でしか見たことのなかったジョニー・キャッシュが唄う姿を、観たのだ。
 以前、NIN関連の記事でも書いたことがあるが、私は今年のサマソニで聴くまで、NINの“Hurt”で泣けることなど無かったのだけど、ジョニー・キャッシュ・バージョンから受けた衝撃は凄まじかった。原曲にほぼ忠実なアレンジなのにも関わらず、唄い手が変わるだけで、こんなにも聴こえ方が違う曲だったとは。
 ジョニー・キャッシュが唄う“Hurt”は紛れもなく彼の唄だった。死期の近い老人の唄だった。
 そしてこのビデオ自体に、殆ど映画に匹敵する重みがある。4分にも満たないミュージック・ビデオの中心にいる老人。ジョニー・キャッシュという1人の偉大な老人が生きた時間の凝縮、その底の見えない深さに、その一片に触れた思いがして、気づいたら涙が流れていた。
(PVを観て泣いたのはパール・ジャムの“Jeremy”以来である。この作品の監督はマーク・ペリントンなのだが、彼についても機会があれば書きたいと思う)
 恐らく、向こう10年は“Hurt”を超えるようなミュージック・ビデオには出会えないだろう。そのくらいの傑作である。

 マーク・ロマネクは、自己の撮りたい映像・技術で素材をいじりまわし結果的に自己満足的な印象しか与えられないタイプのPV監督とは、まるでステージが違う。文字通り“アーティストのプロモーション的映像”だけに専心するタイプではないことも、言わずもがな。彼は、まず第一にアーティストの特性・その表現の核を掴むことに長けている。加えて、それを土台とした詩の映像的解釈といった自身の表現力と、アーティスト自身の個性とのすり合わせ方が抜群なのだ。
 上に挙げた3人のアーティスト以外にも比較的メジャーな、大物を数多く手掛けていて、私も全てを知るわけではないが常に面白い作品を撮り続けているように思う(詳細データは、冒頭のリンク先参照)。今回のDVDでも25作品が収められ、アーティストのインタヴュー、コメンタリー等の特典もあるそうなので、絶対買うのは既に決定!

 …なのだが。繰り返す問題は、バラかハコかである。優柔不断で、オマケ付に弱い私としては、ハコのお得感も捨てがたい。
 ステファン・セドゥナウィは、トリッキーやマッシヴ・アタック、ネナ・チェリー、しかも黒烏まで撮ってるうえに、特典映像にはルー・リード出演のショート・フィルムがあるというので、これもほぼ買い。しかしアントン・コービンは…まあ英国NWファンであればマストでしょうが、私自身はそれほどでもないので微妙だし(笑)ジョナサン・グレイザーに至っては作品を観たこともないからなあ…。
 まあ、いましばらく検討の猶予を、というところだろうか。今回は、第1弾よりも私の好きなロック系アーティスト/バンドが多いので、ハコでも後悔はしないとは思うのだが。(結局ハコ買いの方向に傾いているらしい^^;;)

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 ところで、マーク・ロマネクは既に劇場映画デヴューを果たしているのだが、それが私の苦手な俳優が主演なのでどうにも積極的に観る気がしなくて困っている。えーと、ロビン・ウィリアムスの『ストーカー』なのだが、やはりココまでロマネクのファンをアピールする以上は観たほうがいいのだろうね・・・そのうち気が向いたら観てみよう・・・(>消極的^^;;)