気鋭の俳人長谷川櫂の本『俳句的生活』は、2年半も前の著作だが、依然としてその輝きを失っていない。俳句を詠むということにまだ無縁だった頃に、この本を読んで出だしから衝撃をうけたような気がした。第一章<切る>は、柳生石舟齋の切った芍薬の花から、話がはじまる。このイントロダクションからして只者ではない鮮やかさだ。それは、吉川英治の『宮本武蔵』の第2巻水の巻、「芍薬の使者」の話だ。長谷川櫂の巧みな描写を引用する事にする。
若き日の武蔵が柳生石舟齋を訪ねる場面がある。石舟齋は柳生新陰流の開祖として知られる人である。武蔵は石舟齋に一度会って教えを乞いたいと思い立つ。・・
そこにもうもう一人、石舟齋と手合わせを望む若者がいた。京の剣術の名門、吉岡道場の、その当主清十郎の弟伝七郎である。
もとより会うつもりのない石舟齋は庭の芍薬を一本みずから切り取ると、断りの手紙を結わえてお通に持たせてやった。・・・その手紙を読んだ伝七郎は怒って手紙を結んであった芍薬の花をお通に突き返す。
不思議なめぐり合わせで、その芍薬が同じ旅籠に泊まっていた武蔵の手に渡ることになる。芍薬を手にとった武蔵は茎の見事な切り口を見て、これは石舟齋が切ったに違いないと直感する。そして、何としても会いたいとますます思いを募らせる。
そこで武蔵は石舟齋の切り口の少し上で芍薬の茎を切り落とし、その切れ端を、武蔵を師と仰ぐ城太郎少年に持たせて城へやる。石舟齋は茎の新しい切り口を見て、この若者なら会ってみたいとと思う。・・・・
芍薬の一ト夜のつぼみほぐれけり (久保田万太郎)
『宮本武蔵』の柳生の場面で石舟齋が切ってお通に託した芍薬は白の一重でなければならない。まっすぐに伸びた茎の先で白い一重の花びらが万太郎の句のようにはらりと開きかかっている。その健康な茎が石舟齋の刃によって鋭く断たれていた。
その芍薬の切り口を吉岡伝七郎は見落とした。ちらりと見たかもしれないが、、その尋常でない鋭さに気がつかなかった。一方、武蔵はその切り口に目をとめ、石舟齋の剣の凄さに内心、畏れを抱く。
長谷川櫂は、ここからはじまって俳句における言葉の切れ味、切り口の鋭さに言及してゆくのだが、それはまたの機会に譲ることにする。この芍薬の切り口のエピソードが、私に再び吉川英治の『宮本武蔵』を手にとらせるきっかけになった。そして全八巻を読み通すことになったもうひとうの理由は、著者が昭和11年の初版に序にかいた言葉への共感である。
”書くからには、かつての余りに誤られていた武蔵観を是正して、やや実相にちかい、そして一般の近代感とも交響できる武蔵を再現してみたいという希いを私は持った。ーそれと、あまりにも繊細に小智にそして無気力に堕している近代人的なものへ、私たち祖先が過去には持っていたところの強靱なる神経や夢や真摯な人生追求をも、折には甦らせてみたいという望みも寄せた。・・それらが、この作品にかけた希
いであった。”
と、いうことで読みはじめた『宮本武蔵』、いろんな興味深いエピソードや共感を覚える言葉に満ちあふれている。ふつうとは、ひと味違った読み方として、それらを紹介してゆきたい。 次には牡丹の魅力、本阿弥光悦との出逢い、樹の心などなど・・
4~5回に分けて書いてゆきます。
若き日の武蔵が柳生石舟齋を訪ねる場面がある。石舟齋は柳生新陰流の開祖として知られる人である。武蔵は石舟齋に一度会って教えを乞いたいと思い立つ。・・
そこにもうもう一人、石舟齋と手合わせを望む若者がいた。京の剣術の名門、吉岡道場の、その当主清十郎の弟伝七郎である。
もとより会うつもりのない石舟齋は庭の芍薬を一本みずから切り取ると、断りの手紙を結わえてお通に持たせてやった。・・・その手紙を読んだ伝七郎は怒って手紙を結んであった芍薬の花をお通に突き返す。
不思議なめぐり合わせで、その芍薬が同じ旅籠に泊まっていた武蔵の手に渡ることになる。芍薬を手にとった武蔵は茎の見事な切り口を見て、これは石舟齋が切ったに違いないと直感する。そして、何としても会いたいとますます思いを募らせる。
そこで武蔵は石舟齋の切り口の少し上で芍薬の茎を切り落とし、その切れ端を、武蔵を師と仰ぐ城太郎少年に持たせて城へやる。石舟齋は茎の新しい切り口を見て、この若者なら会ってみたいとと思う。・・・・
芍薬の一ト夜のつぼみほぐれけり (久保田万太郎)
『宮本武蔵』の柳生の場面で石舟齋が切ってお通に託した芍薬は白の一重でなければならない。まっすぐに伸びた茎の先で白い一重の花びらが万太郎の句のようにはらりと開きかかっている。その健康な茎が石舟齋の刃によって鋭く断たれていた。
その芍薬の切り口を吉岡伝七郎は見落とした。ちらりと見たかもしれないが、、その尋常でない鋭さに気がつかなかった。一方、武蔵はその切り口に目をとめ、石舟齋の剣の凄さに内心、畏れを抱く。
長谷川櫂は、ここからはじまって俳句における言葉の切れ味、切り口の鋭さに言及してゆくのだが、それはまたの機会に譲ることにする。この芍薬の切り口のエピソードが、私に再び吉川英治の『宮本武蔵』を手にとらせるきっかけになった。そして全八巻を読み通すことになったもうひとうの理由は、著者が昭和11年の初版に序にかいた言葉への共感である。
”書くからには、かつての余りに誤られていた武蔵観を是正して、やや実相にちかい、そして一般の近代感とも交響できる武蔵を再現してみたいという希いを私は持った。ーそれと、あまりにも繊細に小智にそして無気力に堕している近代人的なものへ、私たち祖先が過去には持っていたところの強靱なる神経や夢や真摯な人生追求をも、折には甦らせてみたいという望みも寄せた。・・それらが、この作品にかけた希
いであった。”
と、いうことで読みはじめた『宮本武蔵』、いろんな興味深いエピソードや共感を覚える言葉に満ちあふれている。ふつうとは、ひと味違った読み方として、それらを紹介してゆきたい。 次には牡丹の魅力、本阿弥光悦との出逢い、樹の心などなど・・
4~5回に分けて書いてゆきます。
ブログを見ていただき、感謝です。古武道をやっておられるとは! これでは、あだやおろそかに武蔵について書けませんね。一瞬、緊張がはしりました。次回は、牡丹について書きます。紙芝居のように、楽しみにしていてくださいね。
ありがとうございました。