(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

(予告編)冬灯雑感~日本は「知的没落」のはじまりか

2017-11-26 | 読書
最近感じたことを書きつづります。しばらくお待ち下さい。なお新しいジャンルの記事として「料理」のことについて書いてみようと目論んでいますが、まだ十分に内容が熟成していません。次回に取り上げようと思っております。













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読書 『阿弥陀堂だより』を読んで

2017-11-13 | 読書
読書 『阿弥陀堂だより』を読みながら

 この乱れた世相にあっては、お伽ばなしとでもいうべき小説がある。それが、今回の記事の主題になる小説『阿弥陀堂だより』(文春文庫 南木佳士)である。単行本として世に出たのは1995年6月のことであり、私が手にしたのは、もう15年近く前のことである。はじめて読んだときは、ある種の感動を覚え、親しい友人と感想を述べあったように記憶している。しかし、このブログのもとになる読書日記を始めるよりも以前のことであり、なぜか読書ノートにも記録が残っていない。

 読んだという記憶が蘇ってきたのは、年来の友人が幼いころ終戦直前に疎開をした飯山という町にセンチメンタル・ジャーニーで訪れるというところからである。この小説は、2002年に小泉堯史監督により映画化された。文字通り同名の「阿弥陀堂だより」である。その舞台になったのが飯山であり、町の高台にある正受庵こそが、小説に出てくる阿弥陀堂なのである。今も存在している。

 小説を読み返し、また映画は今でも見ることができるので、その美しい日本の原風景というような景色も楽しんだ。同時に、私は飯山とい地名から、以前手にした『信州すみずみ紀行』(高田宏)という旅の名随筆のことを思い出していた。

 
この旅の紀行文には、飯山の町のことや東の高台にある正受庵のこと、また飯山から少し北上した森宮野原は豪雪地帯であることなどが描かれている。それやこれやで、友人と話をしているうちに私の頭の中では飯山という町のイメージが次第にふくらんでいった。さらに映画『阿弥陀堂だより』では、美しい日本の原風景が描かれた。それらをひっくるめ、『阿弥陀堂だより』を中心に飯山のことなどを書きつづることにした。

 前おきはさてをき、物語はおよそ次のようなあらすじである。印象に残るところを引きつつ、ご紹介する。少し長くなることはお許しください。


   
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 小説の舞台は、信州にある谷中村の六川(むかわ)集落である。その山の中腹には阿弥陀堂があり、集落全体が見渡せる。

 ”周囲を山に囲まれた六川集落であるが、春の訪れを知らせる風は川から山の斜面に沿ってゆるやかに吹き上がっていた。木々の葉は緑の気配を見せ始めたばかりの三月末で、名の知れた花はまだ咲いていない。風が春の先触れだと知れるのは、ぬくもった腐葉土の香りを含んでいるからである。南に向いた斜面に建つ阿弥陀堂の庭の端にはフキノトウが枯れた雑草の下から鮮やかな若草色の芽をのぞかせている。”


 小説家を目指した孝夫は、一度は新人賞を受賞したが、その後は鳴かず飛ばずで作家としての行き詰まりを感じていた。大学の受験勉強の頃に知りあった美智子と結婚し、彼女は内科医として活躍を始め、専門とするガンの化学療法で論文を発表、都立病院の医長として順調な道を歩んでいた。しかし、妊娠三ヶ月で子宮内胎児死亡という悲劇に見舞われた。症状は次第にひどくなり、心療内科では恐慌性障害との診断をくだされ、深い心の病に苦しむようになった。ふたりは、東京という大都市の環境から離れ、孝夫のふる里である谷中村に移り住むことに決めた。

 美智子は、そこで町の診療所に週に三回ほど務めることになり、歩いて診療所に通った。山路通勤は、心身のリハビリに最適のようで、やせていた体重も次第に戻っていった。帰りの山路も整備されていて、自然歩道の趣きがあり、木や草の香りと野鳥の鳴き声に満ちていた。

 ”それにしても、谷中村に来てからよく眠れる。睡眠薬は一錠の半分しか飲まなくなった。森を吹く風と川の流れる音が子守歌になる。夜にはそれに加えて、人工の光の混じらない天然の闇そのものが人の意識を吸い取ってしまう濃さを持っているのである。”


 隣のおばあさんが町の広報紙を届けてくれたのがきっかけになって、孝夫は自分から広報紙を配る役目を引き受けた。4ページの短い広報紙の裏表紙にある囲み記事に<阿弥陀堂だより>というタイトルがあった。阿弥陀堂のおうめ婆さんのインタビュー記事らしい。この短い記事だけが光っていた。

 ”「阿弥陀堂だより」 
  目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬまに九六歳にになっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿の秘訣かもしれません。”


     


 孝夫と美智子は、おうめ婆さんが同じ六川集落にいるので、時折様子を見に出かける。集落から阿弥陀堂までは七曲りと呼ばれる急な山路を登ってゆく。おうめ婆さんは、以前血圧が高くなって倒れたので、美智子は丁寧に診察をした。


おうめ婆さんから聞いて、「谷中村広報」の<阿弥陀堂だより>は役場の若い女性が書いていると知った。ある日、阿弥陀堂に行くと彼女に出会った。首に黄色いスカーフを巻き、赤いギンガムチェックのブラウスに白いジーパンをはいたショートカットの若い娘だった。彼女は口をきけないので、大学ノートに自分の言葉を書いてくれた。話しかけてみると、孝夫の出た大学の文学部の後輩であった。明るい笑顔の小百合ちゃんは、大学生のときに、喉の悪性の肉腫ができ、放射線治療による障害で声帯が動かなくなったという。

 孝夫と美智子は南に向かった斜面切り崩し、そこに小さい新居を建てた。美智子はそれが出来上がるのを楽しみに、毎日工事現場に足を運んだ。小百合ちゃんは、孝夫に向かって、小説が書ける人は羨ましいといい、書き上げる体力のない自分には、<阿弥陀堂だより>が精一杯ののところだと言った。二人が、小説を書く、書けるというような話をしていると、おうめ婆さんが話に割って入ってきた。

 ”小説っていうのは昔話のようなものでありますか。ふんとの話でありますか、うその話でありますか”

孝夫は事実と虚構について説明しようとしたが、失敗した。おうめ婆さんは孝夫の話を聞いても呆然としていた。そこへ小百合ちゃんが、大学ノートの一ページに大書して、おうめ婆さんに前に広げた。

 ”小説とは阿弥陀様を言葉で作るようなものだと思います。”

おうめ婆さんは、それに対して、」

 ”おう、これだらよく分かるであります。わしにも分かるであります。”
 ”わしゃあ この歳まで生きてくると、いい話だけ聞きてえであります。たいていの切 ない話は聞き飽きたもんでありますからなあ”

おうめ婆さんは、小説を書く二人に小説のあるべき姿に関する説教を垂れた。

 美智子は東京からきた若い人のイワナ釣りに刺激され、川で釣りを楽しんだ。はじめてイワナを釣り上げた時、”やったあ”と歓声をあげ、美智子の顔は無邪気に笑い崩れた。これほどまでに生き生きした美智子の顔を見るのは、孝夫にとって出会ってはじめてではないかと思うほど、その顔は紅潮していた。イワナを焼いて、ふたりは骨酒を味わった。彼女は釣りをはじめてから食事も増し、体重も増えて心身ともに健康だった頃の丸みをとりもどしていた。

 ふたりは阿弥陀堂をたびたび訪れ、おうめ婆さんと話をした。おうめさんに、「これまで眠れなかったことなんてありますか」、とたずねると次のような答えが返ってきた。

 ”雨ん日だとか雪の日は体を動かさねえから、やっぱり寝つきが悪いでありっますよ。そんなときゃあ、ろくなことを考えねえから、そこの湧水の音を聞いて、水になったつもりで川に出て流れて下ることを考えてみるでありますよ。そうすりゃあ、いつのまにか寝てるであります。”

川を流れてどこへ行くかと、聞くと、

 ”わしゃあ、若え頃、一度だけ善光寺に参った覚えがあるでありますよ。そんとき汽車の窓からみた町だの村だのの景色が見えてきて、ああ、このまんま下りゃあ海に行くだなあって、気が楽になって眠っちまうであります。わしゃあ、この目で海なんぞみたこたあねえでありますがなし”


 雨の季節がきて、集落で田植えがはじまった。孝夫も田植えを手伝ったが、思って「いた以上にハードであった。小説がかけなければ土方でもやるか、と肉体労働を甘くみていた孝夫は大いに反省させられた。

 ”水のはられた棚田がすべて緑になると、六川でカジカガエルが鳴き始めた。ヒュルルルルと高く澄んだ鳴き声をはじめて聞く美智子は、それが小鳥ではなく、清流にしか棲まないカエルの声なのだと知ると興味深げに驚き、六川までたしかめに行った。「山の深さを思い知らせてくれる余韻のある鳴き声よね。山に抱かれて眠る気分になって、いいなあ」 寝入りばな、美智子はカジカガエルの声に聞き惚れ、母親の優しい手で背を叩かれたこどものように、すぐ寝息を立て始めるのだった。”

 谷中村の夏は短く、8月10日を過ぎると六川を渡る風が冷たく、固くなり、秋の気配が漂ってきた。

 ”<阿弥陀堂だより> お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。話してるうちに、自分がこの世にものなのか、あの世のものなのか分からなくなります。もう少し若かったころはこんなことはなかったのであります。怖くはありません。夢のようで、」そのまま醒めなければいいと思ったりします。”


 谷中村に来て半年経った頃、小百合ちゃんの病気が再発し、喉の悪性肉腫の転移が見つかった。発育の早い肉腫なので、化学療法をやらないといけない。珍しい病気のようだ。美智子は孝夫に励まされ、診療所の食滞医師とという立場を越えて、現代医療の最前線に復帰することを決意した。町の総合病院の若い医師と協力して全力で治療に当たった。開始してから一週間して抗がん剤に効果が確認できた。しかし、副作用の肺炎の恐れがでてきて、白血球が減少して肺炎を併発した。

 孝夫が、おうめ婆さんに小百合ちゃんの病魔のことを伝えると、おうめ婆さんはすすけた木像の前に座って合掌し、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えた。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」おうめ婆さんの低音の念仏は、途切れずにつづいた。美智子は、肺炎の予想外の進行に対処すべく全力をつくした。病状がよくなるか、死に至るか、五分五分であった。若い医師と交代で仮眠をとりながら治療を続けた。その結果、肺炎はヤマを越え、肺への転移病巣葉完全に消失した。


 ”<阿弥陀堂だより> 阿弥陀堂に入ってからもう40年になります。みなさまのお陰で今日まで生かしてもらっています。阿弥陀堂にはテレビもラジオも新聞もありませんが、たまに登ってくる人たちから村の話は聞いています。それで十分です。耳に余ることを聞いても、余計な心配が増えるだけですから、器にあった分の、それもなるたけいい話を聞いていたいのです


 小百合ちゃんは入院中は、阿弥陀堂へ行っておうめ婆さんの話を聞くことができなかったので、孝夫が代わりに阿弥陀堂へ行って、おうめ婆さんの話をカセットテープに収めてきた。小百合ちゃんも、入院中それを聞いていた。

 ”私も念仏はよく分かりません。最近では、おうめさんの存在そのものが念仏ではないかという気がしています。・・・”

 小百合ちゃんの退院した日、彼女が入院直前に書いておいたコラムが「谷中村広報」に載った。

 ”<阿弥陀堂だより> 食って寝て耕して、それ以外の時は念仏を唱えています。念仏を唱えれば大往生ができるかからではなく、唱えずにはいられないから唱えるのです。もっと若かった頃はこれも役目と割り切って唱えていたのですが、最近では念仏を唱えない一日は考えられなくなりました。子供の頃に聞いた子守歌のように、念仏が体の中に入ってきます。”

 今、孝夫は自由に、書きたいものを書き始めた。六川集落に住んで半年、家事と肉体労働にあけくれた日々であったが、このまま山に埋もれてしまうわけにはとの思いが募ってきたのである。書くに当たって己に課した唯一の戒めは、谷中村で生活する現実から目をそらさないことであった。・・・”

 本格的な雪が二度降り、軒下に根雪が積り始めた頃、小百合ちゃんは阿弥陀堂に登れるだけの体力を回復した。クリスマス・イヴの日、小百合ちゃんを連れて新雪をラッセルしながら、阿弥陀堂まで登った。小百合ちゃんは、おうめさんに茶色のひざ掛けをプレゼントした。

 四月のよく晴れた日、孝夫、美智子、小百合ちゃんはそろって阿弥陀堂に登り、97歳になろうとしているおうめ婆さんと再会した。今、孝夫の机の前には、その日、彼が写した写真が貼ってある。

     


阿弥陀堂の目張りだらけの障子を背に右に美智子がたち、彼女の妊娠七ヶ月になるせりだした腹の横に、桑の木の杖をつき、九十度に腰を曲げたおうめ婆さんの顔があり、左に小百合ちゃんがいる。三人たちは実にいい顔で笑っていた。軒下のダンボールの小屋で無事冬を越した二匹の猫たちが庭でじゃれあっている。南に向いた畑の土手にフキノトウが芽を出した。川から吹く風に淡く土の匂いがして、たしかな春の訪れを告げていた。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  この小説のストーリーをほぼ忠実に追ったつもりですが、みなさんお読みになっていかがでしたか?もちろん、おうめ婆さんそれに孝夫と美智子、そして小百合ちゃんが主人公です。なにかしら人生に傷をもった彼らの生き方をビビッドに描き出しています。そうした人間像とともに、山村の美しい自然が持つ力のようなものが底流に流れていますね。それが、もうひとつの主人公ともいえるでしょう。なにか心にほのぼのと暖かいものを感じさせてくれる作品です。

作家の南木佳士は、ごく最近日経紙のコラムに「定年後の夕景」と題する短いエッセイを書いていました。それによると彼は37歳でパニック病を発症し、やがてうつ病の泥沼にはまり、かなり追い詰められたとのこと。この体験が、小説『阿弥陀堂だより』に孝夫と美智子という二つの分身として反映されている。彼は、信州佐久の総合病院に勤めていたが、日々そこの裏口を出て千曲川に沿う道を北に向かう。正面には浅間山がそびえている。この情景も小説に映し出されているようだ。

 さて映画は小泉堯史監督・脚本で制作され、2002年に公開された。映画のキャッチコピーは、”忘れていた人生の宝物に出逢いましょう”とあった。人々の心あたたまる交流、美しい自然などは、たしかに人生の宝物のように思います。

映画のロケ地に飯山がなぜ選ばれたのかは、分かりませんが、飯山という町のことを調べてゆくうちに、ぴたりと当てはまるように思いました。小泉監督とそのスタッフは、一年半にわたる長期撮影のロケ地として、古くからある日本の原風景が残る場所として飯山を探し出したそうです。妙高、斑尾山、黒姫山、戸隠など北信五岳を西に望み、町の東側には千曲川が流れるところですが、実に美しい自然が残されています。また飯山はお寺の町とも呼ばれ、寺めぐり遊歩道もあります。そのお寺のひとつが正受庵で、阿弥陀堂のモデルとなっています。臨済宗の白隠禅師も、ここで修行したとか。飯山という町は、文豪島崎藤村が”雪国の小京都”と呼んだそうです。

 南木佳士は、エッセイの中で次のように信州のことを書いています。

 ”信州の山奥は奥が深い。どこまで行っても律儀な信州人の跡が存在し、それがまた、ただの自然そのものよりも、人の心に訴える懐かしい風景として写るのである。誰もが、無意識のうちに持っている人間としての基本的な暮らしとしての理想。そういったものが、信州の田舎には色濃く保存されている。”


 ところで現在の飯山のことにふれない訳にはいかない。長野駅を発し、ほぼ千曲川沿いを北上してゆく飯山線は、十日町を過ぎ越後川口に至るのであるが、その途中に飯山という町がある。ローカル線の駅であったが、最近は北陸新幹線が通るようになり、町も少しは大きくなったようだ。とはいっても、まだまだ日本の原風景を残している。

米の一大産地である。大規模経営の作農が行われている。また工業団地に立地する企業があり、情報通信機械の製造が行なわれている。BTOのパーソナルコンピューターを製造する会社にマウスコンピューターというのがある。エプソンといい、この会社といい、水がと大気がきれいなところは精密機器の製造に適しているようだ。近々、ここのノートパソコンをバックアップ用に入手するつもりである。

少々前のことになるが、前出の『信州すみずみ紀行』には、「飯山線沿線紀行」という一節があって、飯山のことを次のように紹介している。

 ”飯山線の大半は千曲川に沿って走っている。そのうち九つの駅が飯山市にある。飯山の市街地から少し山にかかったところに正受庵という禅寺がある。臨済宗妙心寺派の禅修行場だ。坐禅堂があり、茅葺きの本堂がある。簡素なたたずまいの、そこにしばらくいるだけで気が澄み、心が安らいでくる場所だ。大ケヤキ越しに飯山の町並が見下ろせ、その向こうに千曲川に流れが光っている”
 
 ”飯山には「寺めぐり遊歩道」が設けられている。山沿いのこの道を行くと、寺から寺へと、道の両側に草木の茂る道がつづいてゆく。曹洞宗、浄土真宗大谷派、浄土真宗本願寺派、浄土宗、臨済宗、真言宗などなど、宗派はさまざまだが、この土地の信仰心の深さを示す諸寺が並んでいる。”


 ”(島崎藤村が「千曲川のスケッチ」に、飯山を訪ねた時のことを書いている。)雪の海、一晩に四尺も降り積もるというのが、これから越後にかけての雪の量だ。飯山に来てみると、まったく雪に埋もれた町だ。あるいは雪の中から掘り出された町だと言ったほうが適当かもしれぬ。・・・・

 藤村も飯山の雪を体で知って、「土地の人が信心深いというのも、偶然ではないと思う」と書いているのだが、雪という大自然にじかに向き合うとき、人は自然を自ずから畏敬し、真に謙虚になれるのではないだろうか


 これまで飯山のことは何も知らなかったが、地図で見てみると、先年訪れた小布施の町から、そう遠くないところである。機会をみつけて、足を運んでみたいと思うようになった。




     ~~~~~~~~~~終わり~~~~~~~~~~












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おわびと近況ご報告

2017-11-08 | 読書
お詫びと近況ご報告

 「阿弥陀堂だより」の予告編を書いて以来、はや秋が過ぎ初冬を迎えるに至りました。長い間のご無沙汰をお許しください。

本来は余生を静かに楽しむという時節もであり、たかがブログ記事の更新などに手間どることもないのですが、これほどのお休みを頂くというのはどうしたことでしょう。それは、多分に好奇心の対象がますます広がっているということでもあります。投資対象としての中国に端に発し、猛烈な速度で発展しつつある中国問題、たとえば90パーセントを超えるキャッシュレス社会へ進展や、研究開発投資を加速してアメリカを追い上げる中国。それに最近の習近平主席の党大会での3時間にも及ぶスピーチに見る一帯一路構想の加速、など目を離せない状況があります。また、いずれ本ブログでも取り上げる予定ですが、アメリカと中国は、私たちが余り知らいいくらいの昔から、共生とでも云うべき結びつきがあります。中国の関係は、あまり本や資料も出されておらず、中国語が読めない私たちにとっては、情報収集すら容易ではありません。それが、この半年くらいまえから、様々な人たちとのつながりができ、いろいろな情報が入ってくるようになりました。今は、その消化に追われています。

 またこの一年余ほど前からつながった知人からは、ひんぱんに音楽の聴き比べの情報が入っています。ジャズがメインですが、クラシックもグレン・グールドのピアノ演奏の聞ききらべ、バロックの聴き比べなどあり、少し上等なヘッドフォンで聞いて楽しんでいます。

 その上、車をSUVに買い換えてからというものは、あちこちドライブしたいという思いが強くなり、松阪牛の焼肉ならぬ松阪のホルモン焼きを食べに行きたい、いや広島の焼き牡蠣の「はやし」も行きたいなど、なグルメ旅の情報収集とプランニングににいそいしんでいます。

 みなさん、Netflix という動画配信サイトをご存知でしょうか? 有料で契約しますと、スマホなどで最新の映画を見ることができます。たとえば、「マトリックス」という悪ですが、それが巨悪と戦うというのがあり、シリーズが次々と続くのです。面白くって、毎夜小さなスマホの画面で見ていました。毎晩2時間も3時間も・・・。あの小さな画面で。これは、一種の中毒ですね。とうとう視力が低下し、おかしくなりました。今は、それを見る時はPCなどの大画面にし、それも時々にしか見ません。

 と、いうようなことが重なり、ついついブログの更新を怠ってしまいました。しかし、心をいれかえまして(笑)、記事を書くことにしました。「阿弥陀堂だより」、近々にアップいたします。少し、お待ち下さい。










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