『パール判事』(その2)
《戦争は国際法違反か?》
パールは、次の四つの期間に区分して議論を進める
1.1941年の第一次大戦まで期間
2.第一次大戦よりパリ条約調印日(1928年8月27日)までの期間
3.パリ条約調印日より世界大戦開始までの期間
4.第二次大戦以降の期間
このうち第一と第二の期間に関しては、「どんな戦争も犯罪とはならなかったということは十分に明白であると思われる」とし、第三・第四の期間を本格的な検討の対象とした。ここで問題になるのはパリ条約である。パリ条約では、「国際紛争解決のために戦争に「訴えることを非とし、国家の政策の手段として戦争を放棄することを宣言している。しかし、自衛権を主権国家固有の権利とみなすことが前提なっており、また戦争が自衛戦争であるか否かの判定を当事国自身が行うことになっている。パールは、そのことにより、戦争を国際法違反とする効果を完全に消滅させてしまったと論じる。パールの見解によれば、パリ条約は戦争の行使について刑事上の責任を導入することに失敗しており、その結果国際法違反に問われた戦争は存在しない。
さらに自衛戦争の正当性を認める以上、厳密な法概念として「侵略戦争」を定義することは難しい。そのような現状で、特定の戦争を「侵略」と断定し、その当事者たちを犯罪者として裁くことには問題がある。では、連合国は、何によって被告人たちを裁こうとしたのだろうか? それは社会通念である。連合国は、法ではなく、国際社会上の社会通念に基づいて裁判を挙行したのである。
この点に関し、パールは
”戦争の侵略的性格を、人類の通念とか一般道徳論とかにゆだねることは、法からその断定力を奪うに等しい”
と論じたのである。
(連合国の欺瞞)
さらにパールは、敗戦国だけが侵略行為を行ったとする連合国の欺瞞を明示するため、ソ連とオランダを例に挙げて痛烈な皮肉を投げかけた。そもそも、ソ連とオランダは東京裁判の訴追国であるが、両国とも日本に対して自国の側から宣戦布告し、戦争を開始した。どちらも「侵略国」である。
東京裁判時点では、国際法は侵略を犯罪とするまでには整備されておらず、いかに道義的・社会通念的に問題があろうとも、戦争の当事者を「平和に対する罪」で処刑することはできない。そして同様の論理は、西洋諸国の植民地支配にたいしても適用される。
”いずれにせよ、「不当な」戦争は国際法上の犯罪であるとはされなかったのである。 実際において、西洋諸国が今日東半球の諸領土において所有している権益は、すべて 右の期間中(第一次大戦以前のこと)に主として武力をもってする、暴力行為によっ て獲得されたものであり、これらの諸戦争のうち、「正当な戦争」とみなされるべき 判断の標準に合致するものはおそらく一つもないであろう”
パールにとって、日本のアジア侵略も西洋諸国の植民地支配も、道義的・社会通念的には、間違いなく不当な行為であった。しかし、法学者という立場上彼は、それを国際法上の犯罪と認定することはできなかった。またそのようなことは文明社会のルール上、絶対にしてはならないことであった。
(共同謀議)(満州事変)
パールは、「張作霖爆殺事件から日米開戦にいたる歴史過程には一貫した方針などなく、指導者による共同謀議など存在しなかった」としている。
満州事変の発端となった柳条湖事件は、関東軍の将校が引き起こした陰謀かもしれないが、その一派と戦犯容疑者との関係は明白でなく、共同謀議によって引き起こされたとは考えがたいと、パールは主張した。しかしながら、パールは、関東軍の行為を非難すべきものと断定した。
パールはここから一歩踏み込み、当時の西洋諸国が国際社会で展開していた政治的・軍事的行為を批判的に取り上げる。そして関東軍と西洋諸国は同じ穴の狢であり、連合国が自らの過去の行為を棚にあげて、一方的に日本を批判し、国際法上の罪に問うのはおかしい、との論を展開した。このような観点からパールは、西洋列強の行動を批判した。
(帝国主義の時代)
そもそもパールの歴史観では、悪しき日本帝国主義を生み出した最大の要因は、西洋列強の植民地主義である。ペリー来航から不平等条約の締結に至る過程こそが、日本を帝国主義への道へ歩ませたそもそもの原因ではないか、とパールは問いかける。
(注)この点については、(その3 余滴)で、さらに言及する。
これ以上詳細に立ち入ることは、紙面の都合上さけるが、南京虐殺に関しては、パールは明瞭に、証拠が圧倒的であるとしている。
(勧告)
以上のような議論を経て、パールは検察が提示した起訴内容のすべてについて「無罪」という結論をだした。しかし、これはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」であるどいうことを主張しただけで、日本の道義的責任までも無罪としたわけではない。
パールがこの意見書で何度も繰り返したように、日本の為政者は様々な「過ち」を犯し、悪事をおこなった。またアジア各地で残虐行為を繰り返し、多大なる被害を与えた。その行為は、「鬼畜のような性格」をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。
しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の犯罪に問うことができない。「通常の戦争犯罪についても証拠不十分であり、A級戦犯容疑者に刑事的責任を負わせることはできない。
パールは、政治が、「法」の上位概念になることをきびしく批判し、その観点から
東京裁判の問題点を指摘したのである。
~~~~~~~~~~~~~~
以上がパール判決書のあらましであるが、中島の著作は、その後のパールの動きについても語っている。ここでは省略するが、パールは、日本の再軍備やアメリカ迎合の態度を批判し、戦後日本の動きには失望感をしめした。
またパールの判決書は、多分に誤解・悪用され、本願寺境内に建立され碑(一般戦没者を慰霊するもの)にあるパールの碑文をもって、「大東亜戦争はアジア解放の聖戦である」とする身勝手な主張まで現れた。アジアにおける責任ある地位を占めたいと思うなら、われわれひとりひとりが、パール判決書に書かれたこともふめ、正しく事態を理解しておかねばならない。、
パールは、その後国連において、国際法の法典化などで活躍した。1967年1月、カルカッタで没。
この著に関連して、私たちの戦争責任は一体どうなるのかなど、いろんな事が頭に浮かんでくる。それらのことについては、(その3 余滴)ですこしふれておきたい。
《戦争は国際法違反か?》
パールは、次の四つの期間に区分して議論を進める
1.1941年の第一次大戦まで期間
2.第一次大戦よりパリ条約調印日(1928年8月27日)までの期間
3.パリ条約調印日より世界大戦開始までの期間
4.第二次大戦以降の期間
このうち第一と第二の期間に関しては、「どんな戦争も犯罪とはならなかったということは十分に明白であると思われる」とし、第三・第四の期間を本格的な検討の対象とした。ここで問題になるのはパリ条約である。パリ条約では、「国際紛争解決のために戦争に「訴えることを非とし、国家の政策の手段として戦争を放棄することを宣言している。しかし、自衛権を主権国家固有の権利とみなすことが前提なっており、また戦争が自衛戦争であるか否かの判定を当事国自身が行うことになっている。パールは、そのことにより、戦争を国際法違反とする効果を完全に消滅させてしまったと論じる。パールの見解によれば、パリ条約は戦争の行使について刑事上の責任を導入することに失敗しており、その結果国際法違反に問われた戦争は存在しない。
さらに自衛戦争の正当性を認める以上、厳密な法概念として「侵略戦争」を定義することは難しい。そのような現状で、特定の戦争を「侵略」と断定し、その当事者たちを犯罪者として裁くことには問題がある。では、連合国は、何によって被告人たちを裁こうとしたのだろうか? それは社会通念である。連合国は、法ではなく、国際社会上の社会通念に基づいて裁判を挙行したのである。
この点に関し、パールは
”戦争の侵略的性格を、人類の通念とか一般道徳論とかにゆだねることは、法からその断定力を奪うに等しい”
と論じたのである。
(連合国の欺瞞)
さらにパールは、敗戦国だけが侵略行為を行ったとする連合国の欺瞞を明示するため、ソ連とオランダを例に挙げて痛烈な皮肉を投げかけた。そもそも、ソ連とオランダは東京裁判の訴追国であるが、両国とも日本に対して自国の側から宣戦布告し、戦争を開始した。どちらも「侵略国」である。
東京裁判時点では、国際法は侵略を犯罪とするまでには整備されておらず、いかに道義的・社会通念的に問題があろうとも、戦争の当事者を「平和に対する罪」で処刑することはできない。そして同様の論理は、西洋諸国の植民地支配にたいしても適用される。
”いずれにせよ、「不当な」戦争は国際法上の犯罪であるとはされなかったのである。 実際において、西洋諸国が今日東半球の諸領土において所有している権益は、すべて 右の期間中(第一次大戦以前のこと)に主として武力をもってする、暴力行為によっ て獲得されたものであり、これらの諸戦争のうち、「正当な戦争」とみなされるべき 判断の標準に合致するものはおそらく一つもないであろう”
パールにとって、日本のアジア侵略も西洋諸国の植民地支配も、道義的・社会通念的には、間違いなく不当な行為であった。しかし、法学者という立場上彼は、それを国際法上の犯罪と認定することはできなかった。またそのようなことは文明社会のルール上、絶対にしてはならないことであった。
(共同謀議)(満州事変)
パールは、「張作霖爆殺事件から日米開戦にいたる歴史過程には一貫した方針などなく、指導者による共同謀議など存在しなかった」としている。
満州事変の発端となった柳条湖事件は、関東軍の将校が引き起こした陰謀かもしれないが、その一派と戦犯容疑者との関係は明白でなく、共同謀議によって引き起こされたとは考えがたいと、パールは主張した。しかしながら、パールは、関東軍の行為を非難すべきものと断定した。
パールはここから一歩踏み込み、当時の西洋諸国が国際社会で展開していた政治的・軍事的行為を批判的に取り上げる。そして関東軍と西洋諸国は同じ穴の狢であり、連合国が自らの過去の行為を棚にあげて、一方的に日本を批判し、国際法上の罪に問うのはおかしい、との論を展開した。このような観点からパールは、西洋列強の行動を批判した。
(帝国主義の時代)
そもそもパールの歴史観では、悪しき日本帝国主義を生み出した最大の要因は、西洋列強の植民地主義である。ペリー来航から不平等条約の締結に至る過程こそが、日本を帝国主義への道へ歩ませたそもそもの原因ではないか、とパールは問いかける。
(注)この点については、(その3 余滴)で、さらに言及する。
これ以上詳細に立ち入ることは、紙面の都合上さけるが、南京虐殺に関しては、パールは明瞭に、証拠が圧倒的であるとしている。
(勧告)
以上のような議論を経て、パールは検察が提示した起訴内容のすべてについて「無罪」という結論をだした。しかし、これはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」であるどいうことを主張しただけで、日本の道義的責任までも無罪としたわけではない。
パールがこの意見書で何度も繰り返したように、日本の為政者は様々な「過ち」を犯し、悪事をおこなった。またアジア各地で残虐行為を繰り返し、多大なる被害を与えた。その行為は、「鬼畜のような性格」をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。
しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の犯罪に問うことができない。「通常の戦争犯罪についても証拠不十分であり、A級戦犯容疑者に刑事的責任を負わせることはできない。
パールは、政治が、「法」の上位概念になることをきびしく批判し、その観点から
東京裁判の問題点を指摘したのである。
~~~~~~~~~~~~~~
以上がパール判決書のあらましであるが、中島の著作は、その後のパールの動きについても語っている。ここでは省略するが、パールは、日本の再軍備やアメリカ迎合の態度を批判し、戦後日本の動きには失望感をしめした。
またパールの判決書は、多分に誤解・悪用され、本願寺境内に建立され碑(一般戦没者を慰霊するもの)にあるパールの碑文をもって、「大東亜戦争はアジア解放の聖戦である」とする身勝手な主張まで現れた。アジアにおける責任ある地位を占めたいと思うなら、われわれひとりひとりが、パール判決書に書かれたこともふめ、正しく事態を理解しておかねばならない。、
パールは、その後国連において、国際法の法典化などで活躍した。1967年1月、カルカッタで没。
この著に関連して、私たちの戦争責任は一体どうなるのかなど、いろんな事が頭に浮かんでくる。それらのことについては、(その3 余滴)ですこしふれておきたい。
小難しい長文をお読み頂き、感謝申し上げます。
自分で書いてみたあとで、なかなか読んでもらえないだろうなあ、と思いました。
でも、たまには靖国問題や戦争の戦後責任論について正面から向き合わないといけないという思いがあり、ついつい長々と書いてしまいました。ご容赦ください。
ご指摘の通り、パールは、ガンジーの影響を受けています。後ほど「余滴」にて。
お読みいただき、そのうえコメントまで書いていただき、あつく御礼申し上げます。8月19日の貴ブログの後書きで、「東京裁判」の一文拝見いたしました。同感、共感です。ご指摘のとおり、当時の軍部・政治家などの指導者層の愚かな判断により、無意味な戦争に至ってしまいました。そしてその戦争責任は、今も私たちの世代に受け継がれています。重く受け止めて、一人一人が真剣に考えなければならないと思います。
拙稿 宣撫工作 戦後版 ランドン・ウオナー誌の記事 ご披見ください。
http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/diary/200605260000/
日本と言う国は、全ての事柄が、情緒的価値観とでも名付けるに相応しい手段や解決法で動いているような部分が益々大きくなってきた感じが致します。
お立ち寄りいただき、恐縮です。ランドン・ウオーナーの記事、興味深く拝読させていただきました。これを読んでいて、日本人の多くはー私も日本人ではありますがー情況を見たいようにしか見ない、という傾向にあるように思います。大戦中の軍の上層部、とくにエリートを集めた参謀本部に、そ甚だしき傾向を見ました。コメントをお寄せいただき、ありがとうございました。