一応以前も書きましたが、今日をある区切りとするので、
思いっきりのネタでいきます。
夏ごろに書くみたいなことを言っていたんですが、なかなか踏み切れず・・・
でもやっぱり高校生であるうちに書いておきたいと思って今日持ってきました。
話題はイジメについて・・・
ただし、この言葉自体よろしくはないのであえて使いません。
読みにくいかもしれませんが、これで少しでも多くの方が考えてくださると幸いです。
今現在、この問題はテレビをはじめあらゆるメディアで取り上げられています。
でも中身には常に疑問を感じずにはいられません。
いじめられている側にはその理由がない。
本当かな?って。
きついことを言うようですが、火のないところから煙は立ちません。
必ず話として出てくるのは「られる」側の話です。
彼らの現実のみ話を聞いていたりしますが、それは現状を伝えるだけであってその問題自体についての解決としては、他力本願な部分が大きい気がします。
問題解決のための動きとしてはいたって不十分です。
「する」側の話も必要だと思います。
ただ、彼らの話を聞くと、動機として上がってくるのが、
「ムカツクから」「なんとなく」
まあここら辺だと思います。
彼らのこうした動機はもちろん不十分なものとして非難を浴びるのが現状です。
もちろん彼らのするような行為には何の正統性もなく、理不尽そのもののです。
ただ動機として、それを全く「ありえない」物として取り扱うのは論が速すぎるきがするんです。
彼らがそう思って、そういう行為に至るまでのプロセスとして明確なものはないという結論にはなかなか至りません。
ドラマでこの問題が取り上げられる時は、十中八九当事者に相当な動機があります。
それがドラマだから。
ただ現実は違います。そこまで明確なものはいたってレアなケースです。
彼らの動機は上に挙げたような非常に不明瞭な部分。
その考えに至るのはおそらく「人間」だから。
そこを必至に叩いたところで何も生まれません。
偏って話を聞くこと、理解できないことに目を背けることは両者にとってプラスな点は何もありません。
だからといって「られる」側、もちろん彼らに悪い点はありません。
彼らは言葉は古いですがいわゆる「KY」に当たるのではないか、そんな気がします。この言い方がかわいそうだと思った人は、間違いなく「する」側の人間です。
この言葉に「違う!」という人は「空気を読む人」。
この言葉に「そうだ!」という人は「空気を読まない人」。
彼らはおそらく集団の中での〝空気〟が読めません。
だから周囲からの攻撃にあってしまうと思うんです。
日本人はその昔から集団で何かをする、他人と何事も合わせてしまうことで安心感を得るような民族です。
それが良いことか悪いことかはこの際問題ではなく、ただそういうのが多数派であるという現状が存在するだけなんです。
つまりこういう人間が多数を占める社会において「られる」側の人間はいたって少数派。世界的な規模で見れば間違いなく「られる」側の人間が圧倒的に多いはずです。
ところが残念ながらここは日本。
ただそうであるがために彼らは攻撃を受けます。
極端に言えば、ここにこの問題の原因が見られるといっても過言ではないと思います。
おそらく一歩外に出れば立場は逆転するでしょう。
つまり、「生き方の違い」から生じる問題なんです。
集団で生きる人と、空気を読まず一人で生きる人。
この2者の対立構造です。
ただ、テレビ、メディアの取り扱い方によって立場が大きく開かれています。
下手に触れることで、「する」側>「られる」側の構造を深く表してると思うんです。
テレビで聞いたことあるんですが、
「そういう行為をただ見ているやつらも悪い」
これは上の対立構造を前提とするとちょっと違うきがしてきます。
見ている彼らもそれが「彼らの生き方」なんです。
それが冷たいとか非情だとかではなく、それ自体が彼らの生き方なんです。
それを無理やり変えさせる権利は誰にもありません。
言ってしまえば、こういう生き方の強要こそまさしく今の社会問題そのものです。
以上のことをふまえて、この問題の本当にいけない部分、それは
「他者の生き方の否定」
です。どう思うかは人によって違うものの形としてそれを表してしまっていることが一番悪いことなんです。
暴力に走る、誹謗中傷に走る、確かに悪いです。
ただ、それはあくまで表面上の問題です。そこを改善させるのではなく、
大切なのは行為に及んだ人たちに「他者との生き方のちがい」をしらせること。
自分達だけが絶対にに正しいことなんてありえません。
どうやって偏った利己主義から救い出すのか。
ここを話し合うべきなんです。
行為の被害者達の辛さは誰にもはかり知ることはできません。
「かわいそう」なんていう言葉では決して片付けられるものではありません。
でも彼らはこれからの社会で間違いなく必要なんです。
新しい日本人として、社会に出てから上に立っていくのは今「られる」側の立場にいる人たちです。
今は辛いかもしれないですが、いずれ彼らの時代がやってきます。
だから絶対に負けないでほしい。
メビウスのメフィラス同様、相手がそういう行為に及んだ時点で向こうの負けは決定しています。
だから自分の生き方に絶対に引け目なんて感じないで。
その視線が僕らの未来に絶対に必要だから。
思いっきりのネタでいきます。
夏ごろに書くみたいなことを言っていたんですが、なかなか踏み切れず・・・
でもやっぱり高校生であるうちに書いておきたいと思って今日持ってきました。
話題はイジメについて・・・
ただし、この言葉自体よろしくはないのであえて使いません。
読みにくいかもしれませんが、これで少しでも多くの方が考えてくださると幸いです。
今現在、この問題はテレビをはじめあらゆるメディアで取り上げられています。
でも中身には常に疑問を感じずにはいられません。
いじめられている側にはその理由がない。
本当かな?って。
きついことを言うようですが、火のないところから煙は立ちません。
必ず話として出てくるのは「られる」側の話です。
彼らの現実のみ話を聞いていたりしますが、それは現状を伝えるだけであってその問題自体についての解決としては、他力本願な部分が大きい気がします。
問題解決のための動きとしてはいたって不十分です。
「する」側の話も必要だと思います。
ただ、彼らの話を聞くと、動機として上がってくるのが、
「ムカツクから」「なんとなく」
まあここら辺だと思います。
彼らのこうした動機はもちろん不十分なものとして非難を浴びるのが現状です。
もちろん彼らのするような行為には何の正統性もなく、理不尽そのもののです。
ただ動機として、それを全く「ありえない」物として取り扱うのは論が速すぎるきがするんです。
彼らがそう思って、そういう行為に至るまでのプロセスとして明確なものはないという結論にはなかなか至りません。
ドラマでこの問題が取り上げられる時は、十中八九当事者に相当な動機があります。
それがドラマだから。
ただ現実は違います。そこまで明確なものはいたってレアなケースです。
彼らの動機は上に挙げたような非常に不明瞭な部分。
その考えに至るのはおそらく「人間」だから。
そこを必至に叩いたところで何も生まれません。
偏って話を聞くこと、理解できないことに目を背けることは両者にとってプラスな点は何もありません。
だからといって「られる」側、もちろん彼らに悪い点はありません。
彼らは言葉は古いですがいわゆる「KY」に当たるのではないか、そんな気がします。この言い方がかわいそうだと思った人は、間違いなく「する」側の人間です。
この言葉に「違う!」という人は「空気を読む人」。
この言葉に「そうだ!」という人は「空気を読まない人」。
彼らはおそらく集団の中での〝空気〟が読めません。
だから周囲からの攻撃にあってしまうと思うんです。
日本人はその昔から集団で何かをする、他人と何事も合わせてしまうことで安心感を得るような民族です。
それが良いことか悪いことかはこの際問題ではなく、ただそういうのが多数派であるという現状が存在するだけなんです。
つまりこういう人間が多数を占める社会において「られる」側の人間はいたって少数派。世界的な規模で見れば間違いなく「られる」側の人間が圧倒的に多いはずです。
ところが残念ながらここは日本。
ただそうであるがために彼らは攻撃を受けます。
極端に言えば、ここにこの問題の原因が見られるといっても過言ではないと思います。
おそらく一歩外に出れば立場は逆転するでしょう。
つまり、「生き方の違い」から生じる問題なんです。
集団で生きる人と、空気を読まず一人で生きる人。
この2者の対立構造です。
ただ、テレビ、メディアの取り扱い方によって立場が大きく開かれています。
下手に触れることで、「する」側>「られる」側の構造を深く表してると思うんです。
テレビで聞いたことあるんですが、
「そういう行為をただ見ているやつらも悪い」
これは上の対立構造を前提とするとちょっと違うきがしてきます。
見ている彼らもそれが「彼らの生き方」なんです。
それが冷たいとか非情だとかではなく、それ自体が彼らの生き方なんです。
それを無理やり変えさせる権利は誰にもありません。
言ってしまえば、こういう生き方の強要こそまさしく今の社会問題そのものです。
以上のことをふまえて、この問題の本当にいけない部分、それは
「他者の生き方の否定」
です。どう思うかは人によって違うものの形としてそれを表してしまっていることが一番悪いことなんです。
暴力に走る、誹謗中傷に走る、確かに悪いです。
ただ、それはあくまで表面上の問題です。そこを改善させるのではなく、
大切なのは行為に及んだ人たちに「他者との生き方のちがい」をしらせること。
自分達だけが絶対にに正しいことなんてありえません。
どうやって偏った利己主義から救い出すのか。
ここを話し合うべきなんです。
行為の被害者達の辛さは誰にもはかり知ることはできません。
「かわいそう」なんていう言葉では決して片付けられるものではありません。
でも彼らはこれからの社会で間違いなく必要なんです。
新しい日本人として、社会に出てから上に立っていくのは今「られる」側の立場にいる人たちです。
今は辛いかもしれないですが、いずれ彼らの時代がやってきます。
だから絶対に負けないでほしい。
メビウスのメフィラス同様、相手がそういう行為に及んだ時点で向こうの負けは決定しています。
だから自分の生き方に絶対に引け目なんて感じないで。
その視線が僕らの未来に絶対に必要だから。