徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

子どもといるって面白い!ーある一日のことー

2017-06-15 23:08:18 | 子どもの情景
(その1)
「もうすぐ遠足あるんだよ。
バスに乗っていくんだよ」(ウルトラマン1号・小学2年生)
「へえー、いいわねえ。どこに行くの?」(私)

「たぬき公園だよ」(1号)
「たぬき公園??」(私)
「うん、先生ね、黒板に、たぬき公園って書いたよ」(1号)

「たぬき公園ねえ。
あまり聞いたことないわねえ。
どこにあるのかしらねえ。
パソコンで調べてみようか?
たぬきがいる公園なのかなあ???」(私)

「た・ぬ・き・だったと思う・・・」(1号)
私があんまり怪訝そうにするので、
1号はちょっぴり自信を失ったようだ。

「た・ぬ・き??、た・ぬ・き公園ねえ・・。
あっ、もしかして砧公園?」(私)
「あ、そう!きぬた公園だ!」(1号)

「きぬた」を後ろから読めば「たぬき」。

「きぬた(砧)」という地名を知らなければ、
その書かれた3文字は、小2の彼の頭の中では
「たぬき」として処理されて当然。

そして、たぬき・きぬた・たぬき・きぬたと言いながら、
二人で大笑いしたのでありました。


(その2)
大笑いしたこの日。
実は私の父の94回目の誕生日だった。

しかし父は、昨年93歳を目前に亡くなった。
最近、その1周忌を済ませたばかり。

ところで階下のウルトラマン1号と2号(保育園年長)は
私たちの寝室にある仏壇にお線香をあげて、
チーンとカネを叩くのが大好き。

この日が、ひいおじいちゃんの誕生日だと
聞くや否や寝室に飛んで行った。
「ひいおじいちゃんにお線香をあげよう!」(1号・2号)

この仏壇は私の嫁ぎ先の仏壇。
だから、私の父の位牌は当然そこにはない。
なんせ、家が違うのだもの。

でも、ウルトラの母は
そんなこと関係ないんじゃないというし、
ウルトラマンたちは
お線香をあげたくて仕方がないし・・・。

で、まあ、いいか・・・。

今日は舅や姑に
お線香をあげるわけではないので、
私は父の写真をそばに持ってきた。

すると1号は、舅と姑の位牌を横によけ、
さっそくその写真を仏壇の真ん中に置いた。
「これでひいおじいちゃんに
お誕生日おめでとうって言えるね!」(1号)

そしてお線香をあげて、チーーン、
ナムナムと相成った。

私は、その儀式が終わったので、
父の写真を仏壇から外し、
いつも置いている私の机の上に戻そうとした。

「待って、ひいおじいちゃんの写真は
ここに置いといて。また、ナムナムするんだから」(1号)

「家」が違うということを
小2や保育園児にどう説明したらいいんだろう。
私にはちょっと無理・・・説明できない。

そこで、明日までということで
写真はそのままにしておくことに。

この日、夫は飲み会に出かけていて留守だった。
このところ、毎朝仏壇のお水を変えている夫は、
あした、仏壇を開けたら、腰を抜かすかもしれない。

なんせ、頭の上がらなかった舅の写真が
「家」の仏壇に鎮座ましましているのだもの。

次の朝。
「お、お舅さんの写真が仏壇にあったけど、
これって、ウルトラマンたちのなせる業か?」(夫)
「もちろんそうよ!」(私)

さすがに、孫たちのやった事には腹が立たないらしい。
「でも、悪いけど、写真もどしておくよ」(夫)
「いいわよ、もちろん」(私)

そして、父の写真は私の机の上に帰っていった。

が、それも束の間。
その日の夕方、ウルトラマンたちが帰ってきて、
すぐに飛んで行ったのは仏壇の前。

「ひいおじいちゃんの写真がない!!」(1号・2号)
というなり、私の机にある写真を走って取りに行った。

「これでいい!」(1号)
父はまた娘の嫁ぎ先の仏壇に
再び鎮座ましました。

夫は頭をかきかき苦笑いの巻でありました。








父のこと母のこと ー齢96歳の家が亡き両親の個展会場になるまで①ー

2017-06-11 22:52:35 | 父とのこと
父と長生き競争をしていた実家。
父が朽ちるか、家が朽ちるか・・・。

結果は、家が残ったことになった。
この家、御年96歳。

瓦屋根のこの家は、
父が生まれた年の関東大震災で倒壊した。
瓦が重かったのだ。

しかし、曽祖父と祖父は、
倒壊した家の木材を使用して
同じ町内の別の場所に建て替えた。

こんな経緯を経て、
この家は96年を生き延びた。

父は私が生後8か月の時だった
27歳の時からは
一度もこの家から離れることなく、
92歳で倒れるまでを過ごした。

その約1年後、
父は妹夫婦の住む町にある
老健に隣接する病院で亡くなった。

96歳の家は主を失った。
しかし、私も妹も他に家を持ち、
この家に帰ってくるあてはなかった。

ついに曽祖父、祖父、父が住んだ家は
主を失うことになった。

妹夫婦を中心として家の片付けが始まった。
そこには信じられない量の「もの」があった。

そしてそれらのものだけでなく、
父と母の趣味と言われる範疇のものが・・・。

父の趣味は「海釣り」。
歩いて数分の砂浜でよく釣りをした。
私たちが小さいころは、キス釣り。
キスのかわりによくフグが釣れた。

父の釣りについていった私は、
釣り上げられたフグが
プーっと膨らむのに見とれた。

小学校の1、2年生のころ、
私は釣りの餌を買いに行かされた。
スナメやゴカイといったものだ。
私にしてみれば、ただのミミズ。
父はそれを餌にしてキス釣りをしていたのだ。
当時の釣り竿は竹で出来ていた。

やがて中断の時を経て、
父は40代半ばからまた「釣り」を再開した。
私が高校生の頃である。
それからは、出世魚のブリの子どもであるワカシやイナダ、
またカンパチやソーダガツオ、
ヒラメやスズキといった、
キスと比べればずいぶん大きい魚を
釣るようになった。

舟を出すのではなく、
あくまでも浜からの投げ釣り。
一番飛ばした時は浜から
160メートル以上にもなったという。

釣り道具の手入れも念入りだった。
父は短気であるのにもかかわらず、
こんがらがった釣り糸をほどくときは
黙々と手を動かし、すべてがはずれるまで
文句ひとつ言わず、
その手を休めることはなかった。

リールの手入れも、これまた念入りだった。
今でも父が手入れをしているリールの音は
時々私の頭の中で鳴り響く。

擬餌針というのもよく作っていた。
父は私と同じぶきっちょ。
そのぶきっちょの父が擬餌針を作るという
細かい作業に没頭していた。

海水につけたらどうみえるか、
なんていうことも考えてか、
よく擬餌針を水につけては
あっちから見たり、こっちから見たりしていた。

朝3時半から4時には起きだし、
釣り道具をもって浜に行く。
6時過ぎには戻り、
7時過ぎに出勤するという生活。
それは定年後も続いた。

父が浜に行かなくなったのは、
母が亡くなってしばらくしてから。
80代の半ば前のことだ。
「波に足をすくわれたよ。
もう難しいな・・・」(父)

父の釣り竿は何本になっただろう。
給料日の後、自分の小遣いを手にした父は、
釣り道具の量販店に向かう。
そして新しいリールだの釣り竿だのを
買ってきては眺めながら手入れをしていた。

妹夫婦は丁寧にこれら、
父の釣り道具をまとめてくれた。

父の釣り歴は長いから、
それらの釣り道具がいっぱいあることは
想像していた。
が、その量はそれを越えた。

さらに魚拓が見つかった。



そういえば、父は一時期、
魚拓づくりにも精を出していた。
大きなスズキが釣れた時、
父が魚拓を作っているのを覚えている。
それは見つからなかったけれど、
何枚かが見つかった。
妹夫婦はそれを母が使い残していた
スケッチブックに丁寧に貼ってくれた。

こうしてこれらが、
父の一周忌に母の描いた絵と共に
齢96歳の家に飾られた。

この家は急ごしらえの両親の個展会場となったのだ。(続く)









育ジイの道は奥が深く、果てしないものなりけり・・かな?

2017-06-04 22:16:52 | 二世帯同居
階下に住むウルトラマンたち(小2と保育園年長)の
病気台風も何とか去った。
それを支えていたのは育ジイを自認する夫。

「これで俺もちょっとはできるようになったかな」(夫)
「いやー、すご過ぎ。脱帽です」(私)

この病気台風を乗り切ったことで、
夫は押しも押されぬ育ジイとして自立した。

このところの朝の私たちの会話は
こんなことから始まる。

「ところで今日、何か買っておくものあるか?
バナナは買っておくけれど」(夫)
「あるわー。ピーマンと、もやしと、青汁!」(私)
「あるもんだなあ。わかった。
メモしとくよ。これやらないと忘れちゃうからなあ」(夫)

この日、午前中の授業の後は
毒薬(別名抗がん剤)投与予定の私。
だから、帰りが遅くなる。

こんな日は、いつもだと夫が保育園のお迎えと、
ウルトラの母が用意した子どもたちの夕食を食卓に整える。

しかし、夫は今日は楽しいゴルフの日。
夕方のいつもの育ジイのノルマは免除の日。

ジジババが二人ともダメな日は
ウルトラの母の出番。
夕方5時半過ぎにウルトラマン2号を保育園にお迎え、
その足で、6時に放課後クラブに
ウルトラマン1号を迎えに行く手はず。
それから家に帰り夕食を食べさす手順。

ウルトラの母の朝は早い。
朝のうちの夕食準備をするのが日課。
けれどもジジババを頼れないこんな日に限って、
鯵と豚肉にパン粉をまぶし、揚げる寸前までで、時間切れ。
揚げるまでには至らなかったという。

「家に帰って、揚げている間は、子どもたちに、
ウルトラマンガイアを見ていてもらいます」(ウルトラの母)

そんなことを朝のメールで知った。
母子でお腹すいちゃうだろうなと思ったけれど、
週のうち、1日か2日はそんな日があってもいいか、
じゃないとウルトラのジジババもちょっぴり苦しいもの。

夕方4時、点滴中のウルトラのババに
ウルトラのジジからメールが。

「ゴルフが予定より早く終わりました。
家に帰って何かしておくことはありますか?」(夫)

「あります。ウルトラ家の冷蔵庫にパン粉までつけ終わった
鯵と豚肉が入っているので、それを揚げておくと、
ウルトラの母が助かると思います」(私)

「フライは、どんな色になったら
油から出せばいいのですか?」(夫)
「キツネ色です」(私)
「キツネ色って?」(夫)
「キツネ色はキツネ色です。
分からなかったら、
無理をしてフライ揚げることないと思います!」(私)
「わかりました。やってみます」(夫)

と、そんなメールのやり取りがあった。

どうなったかなあって思ったけれど、
それをメールで聞くことはせずに
点滴終了後、速足で家路についた。

「いやー、黒くなっちゃったんだよね。
キツネ色って言われたから、
そこまででいいかと思ったけれど、
なんだか、中に火が通っているかどうか
心配で、もうちょっとと思ったら、
あっという間に黒くなっちゃったんだ。
今日はこれで許してもらうしかないなあ・・」(夫)

「上出来じゃない。味も大丈夫だし。
でもおかしいわねえ、火を180度にセットしておけば、
こういうこと起こらないと思うのよ」(私)

「え、そんな温度、どこでセットできるんだ?」(夫)

「いやだわー、前に言ったじゃないの、
そういうことができるって」(私)

「そうだったかなあ。
それで黒くなったんだな」(夫)

「でも、ほんと助かった。
帰ったら、フライが出来上がっていて、
子どもたちすぐに食べられたのだもの。
ありがとう!」(ウルトラの母)

「でも、ウルトラマンたちは、いってたよなあ。
随分黒いけど、たべられるの?って
子どもは正直だよなあ(苦笑)」(夫)

アハハハハとなんだかみんなで大笑い。

総論としては育ジイとして自立した夫。
日常の細々とした生活の奥は深く、
まだまだ修行の旅は続くのでした。

それにしてもゴルフが終わった瞬間から、
ウルトラマンたちのことが気になるなんて、
育ジイとしてはかなりのレベルに達しているなって、
またまた思ったのでありました。

ここまで、夫を育ジイにする原動力は何なのでしょう。
一度聞いてみることにしようかなって、
育児から足を洗ってしまった私は思うのでした。