私は、どうして、あなたにすがり付くことが出来なかったのだろう。目の前のあなたは、あまりにも疲れ果てた様子だ。ごめんなさい。私の望んだ結果ではないの。私でさえ、この現実を受け入れる事が出来ずにいる。
「ごめんなさい。」あなたの頬は、温かい。あの日、夜の五稜郭で、あなたは、このお店に私を誘ってくれたのね。何て、素敵なグランドピアノでしょう。残念。弾いてみたかったな。もちろん、あなたを目の前にね。アンドレギャニオンをあなたの為にだけ弾いてみたかった。あなたが、私の事を気にかけてくれていたのに気付いたのは、夕方のホクレンショップの生鮮コーナでの出会いかな。あなたは、偶然を装っていたけど、あなたの、落ち着かない表情は、今でも鮮明に覚えている。探したんでしょう。私の中でも、何かが揺れ動いた瞬間だったわ。
「ペスカトーレ」って、メニューまで当てられちゃって。私、ポッと心が熱くなったんだ。最後に、せめて最後に、あなたのペスカトーレが食べられたのは嬉しかった。私が、壊れる寸前に、あなたの温度を感じられた事も嬉しかった。この歳になって、本当に時めいていたのよ。こんな気持ちに陥るなんて、あなたに感謝だわ。でも、嫌だ。何も始まってない。これからかもしれないと感じ始めた夜だったのに。切り替えられるかもしれないと思えた、あなたとの時間だったのに。
ねえ。
ねえ。
こんなに近くにいるのに、あなたは、私の事が見えないの。私は、あなたに、こんなにもくっついているのに。
ねえ。私の唇の温度は感じない。
ねえ。どこ見てるのよ。
バタンと、ドアの閉まる音が突然響き渡り、私は、彼のそばを離れた、頬を伝う涙を慌てて拭いた。音の聴こえた方に目をやると、男が店に入っていて辺りをキョロキョロしていた。あまりにもあり得ないファッションだった。レインボーカラーの三つボタンのジャケット。水色のズボンには、大きな白の水玉の柄が。顔は、太陽のような濃いオレンジ色に日焼けしていて、髪は、見事に染まった。元々の地毛の色かもしれない、金髪だった。目には、高級そうなサングラス。とても日本人には見えなかった。その男は、私達に気を使ったのか、ちらっとだけ見て、反対側のフロアーの方にゆっくりと歩いていった。
でも、その後、何分が過ぎても、店のマスターは、その男のところに、オーダーを取りに行く事はなかった。そう、私と同じように、その男も、誰からも、見えていないように感じた。
私は、彼の肩に頭をのせた。彼の手の上に手をのせた。そして、いつの間にか眠ってしまっていた。ほんの数分だったのだと想う。やがて、下手なピアノの音が、私を揺り動かしていた。ひどいピアノだ、誰が弾いているのだろう。私は、目を開けて、はっとした。
「彼がいない」
私は、イスを立ち、辺りを見回した。彼は、どこにもいなかった。視線の先の下手なピアノを弾いているのは、彼ではなかった。やがて、その男は、視線が合うと、照れくさそうに、私に向かって、何度もペコリと頭を下げた。あのレインボー男だった。私は、ため息をついて、イスに座り、窓の外を眺めた。下手なピアノは間もなく止んだ。
「ごめんなさい。」あなたの頬は、温かい。あの日、夜の五稜郭で、あなたは、このお店に私を誘ってくれたのね。何て、素敵なグランドピアノでしょう。残念。弾いてみたかったな。もちろん、あなたを目の前にね。アンドレギャニオンをあなたの為にだけ弾いてみたかった。あなたが、私の事を気にかけてくれていたのに気付いたのは、夕方のホクレンショップの生鮮コーナでの出会いかな。あなたは、偶然を装っていたけど、あなたの、落ち着かない表情は、今でも鮮明に覚えている。探したんでしょう。私の中でも、何かが揺れ動いた瞬間だったわ。
「ペスカトーレ」って、メニューまで当てられちゃって。私、ポッと心が熱くなったんだ。最後に、せめて最後に、あなたのペスカトーレが食べられたのは嬉しかった。私が、壊れる寸前に、あなたの温度を感じられた事も嬉しかった。この歳になって、本当に時めいていたのよ。こんな気持ちに陥るなんて、あなたに感謝だわ。でも、嫌だ。何も始まってない。これからかもしれないと感じ始めた夜だったのに。切り替えられるかもしれないと思えた、あなたとの時間だったのに。
ねえ。
ねえ。
こんなに近くにいるのに、あなたは、私の事が見えないの。私は、あなたに、こんなにもくっついているのに。
ねえ。私の唇の温度は感じない。
ねえ。どこ見てるのよ。
バタンと、ドアの閉まる音が突然響き渡り、私は、彼のそばを離れた、頬を伝う涙を慌てて拭いた。音の聴こえた方に目をやると、男が店に入っていて辺りをキョロキョロしていた。あまりにもあり得ないファッションだった。レインボーカラーの三つボタンのジャケット。水色のズボンには、大きな白の水玉の柄が。顔は、太陽のような濃いオレンジ色に日焼けしていて、髪は、見事に染まった。元々の地毛の色かもしれない、金髪だった。目には、高級そうなサングラス。とても日本人には見えなかった。その男は、私達に気を使ったのか、ちらっとだけ見て、反対側のフロアーの方にゆっくりと歩いていった。
でも、その後、何分が過ぎても、店のマスターは、その男のところに、オーダーを取りに行く事はなかった。そう、私と同じように、その男も、誰からも、見えていないように感じた。
私は、彼の肩に頭をのせた。彼の手の上に手をのせた。そして、いつの間にか眠ってしまっていた。ほんの数分だったのだと想う。やがて、下手なピアノの音が、私を揺り動かしていた。ひどいピアノだ、誰が弾いているのだろう。私は、目を開けて、はっとした。
「彼がいない」
私は、イスを立ち、辺りを見回した。彼は、どこにもいなかった。視線の先の下手なピアノを弾いているのは、彼ではなかった。やがて、その男は、視線が合うと、照れくさそうに、私に向かって、何度もペコリと頭を下げた。あのレインボー男だった。私は、ため息をついて、イスに座り、窓の外を眺めた。下手なピアノは間もなく止んだ。