数日前ラジオで、災害発生時にボランティアを受け入れる訓練を行なった、というニュースを聞き感心しました。
「でもね、今や、どこの自治体でもやってるよ~」
その関係に関わっている友人のコメントです。そうなんだ‥‥。
阪神淡路大震災では地震発生10時間前まで神戸に滞在し、知人も亡くしたにもかかわらず、様々な理由から現地に行くことができず悔しい思いをしました。
発生直後にボランティアに行った知人は
「現地は大混乱。ボランティアも何をしたらよいか分からず、かえって迷惑になったかも」と寂しげでした。
2004年10月の中越地震、すぐさま友人5人を誘って、旧小国町に入りました。
依頼されたのは、全国から届いた山のような救援物資を仕分けする作業。
1個の段ボール箱の中に入っているのは、例えばこんな感じでした。
紙おむつ5枚、パックごはん3箱、ティッシュペーパー2箱、マスク10枚、
カロリーメイト2箱、生理用品5枚、くだびれたTシャツ2枚、色の悪い雑巾5枚‥‥
これを大きな倉庫の中に指定された区画に置いていきます。
紙おむつはこっち、ティッシュはあっち、食べ物はむこう側‥‥という具合。
箱の底からは「新潟のみなさん、頑張ってください」という手紙が出てきて、送り主の暖かい思いは分かるのですが、なんせ仕分けが大変でした。
2007年3月、能登半島沖地震。
ボランティア受け入れ初日にかけつけた私が目にしたのは、ボランティア受テント。
「どんな仕事ができますか?何か資格や特技はありますか?」
面接をうけ、各人の特性にあわせて仕事が振り分けられました。
私は被災家屋の片付けの仕事が割り振られました。
まずは「道具貸し出しセンター」で必要と考えられる物品をうけとり、被災家屋に向かいます。
行き先までガイドする「道案内ボランティア」や「車送迎ボランティア」もちゃんといらして、非常にスムーズな受け入れ態勢にビックリ。
中越地震のとき悪夢だった「救援物資」、この地震では個人からの物資は受け入れず企業からのもの限定。
新品の物品が揃っていて、分配も大変スムーズでした。
2007年7月、中越沖地震の際には、最寄JR駅から現地へ入るバス輸送が行なわれており、感動。
私は赴いた避難所で支援物資リストの作成と被災者の方々へ食べ物を配分する仕事を任されました。
神戸で大混乱だったボランティア。その混迷から学んだことが中越に能登に中越沖にと、確実に生かされ、迅速かつ的確な対応へとステップアップし育ってきています。
さすが日本人!これは誇りを持っていいはず。
(かつて滞在していたラテンアメリカ。過去に学ぶという考え方は全く無かったもの)
さてバッシングと大混乱の中のTOYOTA。
社長自ら公聴会に飛び込み頑張る姿を拝見しました。
今回の経験から多くを学び、的確な「カイゼン」を果たし、さらに懐の大きな企業へとステップアップし成長されると期待しています。
とまぁ、「地震災害ボランティアとトヨタのリコール問題は、ステップアップし成長してゆくという点で同じ」、ちょっと強引な結論だったかな‥‥。
TOYOTA頑張れ~
「でもね、今や、どこの自治体でもやってるよ~」
その関係に関わっている友人のコメントです。そうなんだ‥‥。
阪神淡路大震災では地震発生10時間前まで神戸に滞在し、知人も亡くしたにもかかわらず、様々な理由から現地に行くことができず悔しい思いをしました。
発生直後にボランティアに行った知人は
「現地は大混乱。ボランティアも何をしたらよいか分からず、かえって迷惑になったかも」と寂しげでした。
2004年10月の中越地震、すぐさま友人5人を誘って、旧小国町に入りました。
依頼されたのは、全国から届いた山のような救援物資を仕分けする作業。
1個の段ボール箱の中に入っているのは、例えばこんな感じでした。
紙おむつ5枚、パックごはん3箱、ティッシュペーパー2箱、マスク10枚、
カロリーメイト2箱、生理用品5枚、くだびれたTシャツ2枚、色の悪い雑巾5枚‥‥
これを大きな倉庫の中に指定された区画に置いていきます。
紙おむつはこっち、ティッシュはあっち、食べ物はむこう側‥‥という具合。
箱の底からは「新潟のみなさん、頑張ってください」という手紙が出てきて、送り主の暖かい思いは分かるのですが、なんせ仕分けが大変でした。
2007年3月、能登半島沖地震。
ボランティア受け入れ初日にかけつけた私が目にしたのは、ボランティア受テント。
「どんな仕事ができますか?何か資格や特技はありますか?」
面接をうけ、各人の特性にあわせて仕事が振り分けられました。
私は被災家屋の片付けの仕事が割り振られました。
まずは「道具貸し出しセンター」で必要と考えられる物品をうけとり、被災家屋に向かいます。
行き先までガイドする「道案内ボランティア」や「車送迎ボランティア」もちゃんといらして、非常にスムーズな受け入れ態勢にビックリ。
中越地震のとき悪夢だった「救援物資」、この地震では個人からの物資は受け入れず企業からのもの限定。
新品の物品が揃っていて、分配も大変スムーズでした。
2007年7月、中越沖地震の際には、最寄JR駅から現地へ入るバス輸送が行なわれており、感動。
私は赴いた避難所で支援物資リストの作成と被災者の方々へ食べ物を配分する仕事を任されました。
神戸で大混乱だったボランティア。その混迷から学んだことが中越に能登に中越沖にと、確実に生かされ、迅速かつ的確な対応へとステップアップし育ってきています。
さすが日本人!これは誇りを持っていいはず。
(かつて滞在していたラテンアメリカ。過去に学ぶという考え方は全く無かったもの)
さてバッシングと大混乱の中のTOYOTA。
社長自ら公聴会に飛び込み頑張る姿を拝見しました。
今回の経験から多くを学び、的確な「カイゼン」を果たし、さらに懐の大きな企業へとステップアップし成長されると期待しています。
とまぁ、「地震災害ボランティアとトヨタのリコール問題は、ステップアップし成長してゆくという点で同じ」、ちょっと強引な結論だったかな‥‥。
TOYOTA頑張れ~
能登、新潟、と被災家屋診断で各三日間朝から晩まで何百の家屋を診断した時のこと。
ボランティアはまずお断りということで現場が落ち着いた後に要請された専門ボランティアをまず受け入れていたように思います。
行政間での支援体制が整備され専門職の仕事を優先しなければならない。
生活支援もその一環です。
自衛隊の入り込みが早く想定外の働きをしているのに驚きましたね。
トヨタにも外部から応援する者が居ればいいけど今の日本じゃ無理かな。
それよりグローバル企業としてのトヨタは日本ブランドを捨て去っている感があります。
元々好きじゃないのでどうでもいいですけど。
さて能登のとき各住宅に赤、黄、青の紙が貼ってありましたが、Takiさんたちのお仕事だったんですね。それぞれ赤(危険)、黄(要注意)、青(安全)でしたか?
赤の家の前でおばあさんが泣いていて、どうしたのか訪ねると、仏壇の中におじいさんの位牌があるので取りに行って欲しいとのこと。ボランティア仲間で困惑しました。赤は確か中に入れないのでしたよね。
半日して同じ家を通りかかったら、余震で完全に潰れてしまっていました。もし中に入っていたら‥、と考えゾ~。
しかし位牌はどうなったのかなぁ。
しかし、あの時は赤(危険)と黄(要注意)だけで精一杯で青(調査済み)は貼らないこととして作業しましたね。
結果、残った家屋は青と認識し輪島市の職員さんでも貼られたのでしょう。
赤は入っちゃいかんですね。
ちなみに青は安全じゃなく判定基準に基づいて調査を行ったよ、という意味です。
安全かどうかは建てられた年月と構造基準の話で、判定基準上は青でも建築物として一概に安全とは言えないということ。
上越のときは一階の高さが半分ほどに潰れている家屋へ入り込む人を沢山見ました。余震がきたらイチコロですよ。
で、TOYOTAの話は?(笑)
「黄」の家へ片付けへ伺ったところ、「ブルーシート貼ってください」との要請で「ハイ」と答えたのはいいのですが、屋根でした。
貼ってる最中に余震がきて、怖かった~
また別の家で「押入れのモノは全て捨ててきて欲しい」と頼まれてゴミ集積場に運びましたが、立派な輪島塗のお膳やお椀など一式と古風なカメラ。燃やされたのかな、う~む‥
で、TOYOTAですが、実は私も乗ったことはありません‥。
でも頑張ってくれないと日本丸がア・ブ・ナ・イ!