日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【クラブツーリズム】埼玉古墳群ツアー無事催行/直近のツアー予定

2018-01-16 13:11:54 | 歴史探訪
 先週の土曜日(1月13日)は、クラブツーリズムにて埼玉古墳群ほかの古代史ツアーをナビゲートしてきました。



 気温は結構低かったのですが、素晴らしい快晴でとても気持ちよく歩け、17名の皆様と楽しい一日を過ごさせていただきました。



 参加者の方々、そしてクラツーのスタッフの方々、どうもありがとうございました!

 ところで、「歴史への旅」の最新号ができました。

 私のツアーは20ページに載っています。



 このページの下の2つの古墳ツアーが私のツアーです。

 左側は昨年雨の中催行した群馬県高崎市の保渡田古墳群ほかをご案内するツアーの再催行です。

 そのとき都合が悪くて参加できなかった方々から再催行のリクエストをいただいたため、もう一度企画させていただきました。

 右側の栃木県の古墳ツアーは初企画です。

 ツアーをやりたいと思っていた時期がちょうどツツジが咲く頃だったので、墳丘がツツジで覆われている珍しい古墳をご案内するとともに、那須の前方後方墳で、日本一美しい古墳ともいわれている下侍塚古墳や「日本三大古碑」の一つである「那須国造碑」も参拝しますよ(碑はご神体になっているので見学ではなく参拝です)。

 関東の古墳や古代史ツアーでは、お客さんから千葉県や茨城県方面のリクエストも多数いただいていますので、これからもどんどん企画していきたいと思います。

 さて、「歴史への旅」の最新号に掲載された私のツアーはこれだけではありません。

 21ページをご覧ください。



 このページはすべて私がご案内します。

 一番上は、東北の古代史ツアーです。

 昨年から毎月、西新宿のクラツー本社にて東北地方の歴史の講座をやらせていただいていることもあり、どうしても皆さんを東北へお連れしたくて企画しました。

 東北で一番大きな名取市の雷神山古墳は、運が良ければ桜の花とのコラボレーションが見れます。

 多賀城は時間を多めに取っているのでなるべくじっくり歩きたいですし、これまた「三大古碑」の一つである多賀城碑が見れますよ。

 その他、有名なところが多くてそれほどマニアックではないですが、岩手県の古代遺跡(本州最北の前方後円墳・角塚古墳など)やエミシのリーダー・アテルイの故地を訪ねます。

 つづいて、真ん中の段が北九州の欲張りツアーで、世界遺産宗像大社関連と魏志倭人伝関連の両方が楽しめて非常にお得です。

 実はこれと同じ内容のツアーが2月に2本あるのですが、売り出してすぐに満席になってしまったので、急きょ3月も催行することにしました。

 ただし、3月のほうが少し代金が高いです。

 飛行機代や宿代は時期によって値段が変わるため、どうしてもそれが販売価格に転化されてしまいますのでどうかご了承ください。

 そして一番下は、先月催行した奈良の邪馬台国ツアーと同じ内容のものです。

 古墳のルーツについても最新研究を基にして熱く語ろうと思います。

 邪馬台国は北九州にあったのか、奈良にあったのか、実際にその場所を訪れ、ご自身の「肌感覚」や「霊感」で古代史のロマンを感じてみてはいかがでしょうか。

 部屋の中で本を読んでいるだけでなく、実際に現地へ足を運んでみましょう。
 
 さらにもう一つ、さきほどチラッとお話しした、毎月やっている座学についてお知らせします。



 ちょうど今週の土曜日に催行です。

 こちらも興味がありましたらぜひいらしてください。

 なお、私のツアーや講座に関しては、ここをクリックしていただくとクラブツーリズムの稲用関連の検索結果ページが出ます(一部関係ないものも表示されますのでご注意)

 それではよろしくお願いいたします。

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【元祖山手七福神めぐり その5】目黒区下目黒・霊雲山称明院蟠龍寺【弁財天】

2018-01-05 19:54:22 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 ツアー当日のランチは目黒雅叙園のランチ・ビッフェなので(ただしお客さんのみ)、お昼の場所を確認すべく雅叙園にチョロッと寄ってみます。

 行人坂を見上げる。



 おや、何か井戸がありますよ。





 近世城郭みたいですね。







 館内で神輿を発見!











 面白いホテルですね。



 ランチを食べるカナデテラスの場所を確認したので、七福神歩きの続きです。

 目黒川を越えますよ。







 山手通りの歩道橋から次なる目的地である蟠龍寺を望見。



 歩道橋に登ると必ず道路の写真を撮ってしまうのです。





 はい、蟠龍寺。





 お地蔵さん。



 さきほど、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するという話をしましたが、それまでの間、この地球の平和を守るのがお地蔵さんなのです。

 お地蔵さんは見た目は可愛らしいですが、実は凄い力を持っているんですよ。





 本堂。





 こちらが山手七福神の石仏の弁財天です。



 上にも弁財天のお堂があります。





 弁財天はメンバー唯一の女性ですが、一人だけ女性が加わっているというのは戦隊モノみたいですね。

 日本人はこういうメンバー構成が昔から好きなのでしょうか。

 弁財天は元々はインドの川の神・サラスバティーですが、毘沙門天と同様、中国経由で日本に入ってきました。

 日本では弁舌や音楽の神様として有名ですね。

 (つづく)


日本人と福の神―七福神と幸福論
三橋 健
丸善
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【元祖山手七福神めぐり その4】目黒区下目黒・松林山大圓寺【大黒天】

2018-01-05 18:43:14 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 妙円寺では福禄寿と寿老人の2柱をお参りできたので、残るメンバーは3柱です。

 ここから先の目黒川へ向かって地形が低くなって行くのが楽しみです。



 目黒駅の場所はまだ白金台地の上で、この辺りの山手線は台地を堀割って敷設されていますね。



 ですから、入口や改札は普通に1階にあってもホームは言ってみれば地下にあるのです。

 目黒駅の上にある交差点の向こう側を望むと、いよいよ目黒川の低地に向かって地形が低くなっているのが見えてきました。



 「落ちてる落ちてる」とはしゃぐと、妻に「わー、ニヤニヤしてるー、気持ち悪い」と言われました。

 確かに台地から沖積地へ落ちる地形を見てニヤニヤしている人は気持ち悪いですね。

 私は軽度の変態なので妻にこれくらい言われたくらいでは何とも思いません。

 というか、むしろ嬉しいです。

 ここからは路地に入って行きますよ。

 「おー、いい下がり具合だなあ・・・。あ、富士山が見える!」



 坂の向こうにちょうど富士山が見えています。



 こういう坂を富士見坂と呼んだり、こういう場所を富士見台という住所にしたりするのは関東地方ではよくあることなのですが、ここには茶屋があったようですね。



 どなたかいらっしゃる。





 勢至菩薩ですね。





 そしてこの坂は富士見坂ではなく、行人坂でした。



 大黒天のいらっしゃる大圓寺に到着です。



 山号は松林山。





 松林山大圓寺は天台宗のお寺です。



 この説明板にも書かれていますが、明和9年に大圓寺が火元の大火事が発生し、それは「明和の大火」あるいは「行人坂の大火」とも呼ばれ、「江戸の三大大火」と呼ばれています。

 実は今日の朝歩いてきたルートは、その時の大火の延焼区域なのです。







 大黒天はこちらにいらっしゃいます。



 大圓寺の境内もあまり広くないですが、ここは石仏などで賑やかですぞ。























 そろそろ11時になります。

 歩きながら軽く朝ご飯でも食べられそうなお店があったら入ろうと話しつつ、ここまでまったく現れませんでした。

 そうこうしているうちにもうお昼ですね。

 もう少し頑張りましょう。

 ⇒この続きはこちら


七福神 板付 小 S214
クラフトマンハウス
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【元祖山手七福神めぐり その3】港区白金台・妙円寺【福禄寿・寿老人】

2018-01-05 17:34:12 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら


 布袋尊の瑞聖寺を出て引き続き目黒通りを歩きます。

 右手には白金自然教育園の敷地が見えてきました。

 「行こう行こう」と思って行けていない史跡の一つです。

 実はあの中には中世城郭の遺構が残っているんですよ。

 実物を見ていないから、ツアーの時に話すのはあまり気が乗らないなあ。

 自然教育園が見えてすぐ、左手に妙円寺への入口がありました。



 ここもこの先の地形が落ちているのが分かりますね。

 地形図で確認しましょう。



 目黒川へ注ぐ支流の谷頭のような位置にありますね。



 山号を誠瀧山と号する日蓮宗のお寺です。



 御朱印はこちらでいただけるようです。



 妙見様だ。



 関東の武士では千葉氏が妙見信仰で有名で、千葉氏が祖と仰ぐ平将門と密接な関係があります。

 でもまだ皆さんにお話しできるほど、私は将門と妙見信仰との関連についての知識は頭の中で整理できていないので、もっと勉強します。

 妙円寺の妙見大菩薩は瀧本采女が室町幕府第13代将軍足利義輝より拝領したといわれています。

 妙円寺は七福神のうち、福禄寿と寿老人を祀っていますが、この2柱の正体が今一掴めないです。

 中国の南極星の信仰から発達したといわれていますが、なんか明快にお話しできずにスミマセン。

 ⇒この続きはこちら


図説 七福神―福をさずける神々の物語 (シリーズ日本の信仰)
戎光祥出版
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【元祖山手七福神めぐり その2】港区白金台・紫雲山瑞聖寺【布袋尊】

2018-01-05 16:50:47 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら


 毘沙門天の覚林寺を出て、次は布袋さんのいる瑞聖寺へ向かいます。

 目黒通りは武蔵野台地の一角である白金台を登っていきます。

 お、坂の標柱がありますよ。





 さらに歩いていると・・・

 おっ!字は違うけどS源寺さん!



 この目黒通りは対岸に気軽に行けないんですよね。

 なので今日は割愛します。

 日吉坂上の交差点を過ぎてすぐ、左手に瑞聖寺の参道がありました。



 ちょうど朝日・・・



 眩しい・・・

 お地蔵さんだ。



 境内は大がかりに工事中のようです。

 立派な本堂。



 瑞聖寺は珍しい黄檗宗のお寺で、本殿は大雄宝殿と呼ぶんですね。

 この中に大きなお腹の布袋さんがいらっしゃいました。





 御朱印は大雄宝殿の裏手でいただけるようになっています。

 さて、現在の七福神のレギュラーメンバーの中で、布袋尊のみ実在の人物で、916年に亡くなった中国の僧侶です。

 本名はで契此(かいし)と言いますが、いつも布の袋を担いでいたためその名が付きました。

 袋の中身は恵んでもらった食べ物で一杯です。

 たくさんの食べ物が入った袋を背負った布袋さんは像でも見られる通り、ぽっちゃり体系でいつもニコニコしていたため、それを見た周りの人々も幸せな気分になったといいます。

 釈迦の入滅後、56億7000万年経つと、弥勒菩薩がこの世に現れて衆生を救うことになっていますが、布袋さんはいつしか、その弥勒菩薩の化身とも言われるようになりました。

 しかしこれまた、布袋さんが七福神のメンバーに選ばれた理由についてはよく分かりません。



 今日は目黒通りから入ってきましたが、本来の正門は東側で、このように少しの石段を登ってこないとなりません。



 本番はせっかくだから旧正門から入ろうかなあ。

 高麗門は重要文化財に指定されているし。

 では、次に行きますよ。

 ⇒この続きはこちら


どんぶらどんぶら七福神
みき つきみ
こぐま社
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【元祖山手七福神めぐり その1】港区白金台・最正山覚林寺【毘沙門天】

2018-01-05 11:34:38 | 歴史探訪
 お正月はとくに「開運」を強調したものをたくさん目にしますね。

 テレヴィ番組もそうですし、様々な商品もです。

 でも私は「運は自分の力で切り拓く」派の人間ですので、そういうこと(もの)には興味がありません。

 運というものは自分の普段の心がけで良くなるものです。

 しかしそうはいっても、どうも「ついてない」と思うときも出てきますが、そういうときはひたすら我慢です。

 待機していれば風向きが変わるのです。

 そして追い風が吹いたら突き進みますが、そのとき普段の心がけがきちんとできている人は大変な馬力が出ます。

 神仏にお願いごとをする人も多いと思いますが、「お金をください」とか「健康にしてください」とか「良い人が見つかりますように」などとお願いしたところで、神様がそれをかなえてあげる義理はありません。

 神様の立場に立ってみれば分かりますが、家族でも友達でもない人が「金くれ!」とか「いい人紹介しろ!」とか言ってきたらどう思いますか?

 ところがです。

 一方的なお願い事は論外ですが、神様は頑張る人や努力する人を応援してくれるのです。

 ですので、神仏の前では「私は大学に受かるために猛勉強します。どうかご照覧あれ!」とか、「私はいい人を見つけるためにもっと人間を磨きます。どうかご照覧あれ!」というふうに自分の決意を宣言するのです。

 キーワードは「ご照覧あれ!」ですよ。

 しかるのち、有言実行すれば神様は絶対応援してくれます。

 というのが私の「開運」や「神仏」に対する考え方なのですが、こんな私が明日、七福神めぐりをナビゲートしてきます。

 コースは港区から目黒区にかけての「元祖山手七福神」です。

 当該コースはあまり土地勘がないことから、昨日、妻と一緒に下見をしてきました。

 今日はその様子を簡単にご報告します。

*     *     *


 ツアーは9時半に白金高輪駅を出発するため、なるべくそれに近い時間に私たちも出発することにしました。

 今回歩くコースの地形図はこちらです。



 これを見ると分かるのですが、白金高輪駅は高輪の北端に位置しますが、決して白金ではないですね。

 なんで駅名に「白金」を付けたんですかね。

 白金はとてもイメージが良いので、それだけの理由ですかね。

 頼みますから、駅名を付けるときは中途半端な「心情」を挟まずに、本気を見せてください。

 白金高輪駅を出て、通りを南南西へ向かいます。

 すぐに「清正公前」の交差点に着きました。



 交差点の向こうに本日の1番目の七福神のいらっしゃる覚林寺の山門が見えます。



 「清正公大神儀」碑。



 山門。



 今回歩くルートを確認します。



 今日は覚林寺からスタートして回りますが、こちらのルートだと「無病息災・長寿」のご利益があり、目黒不動からスタートすると「商売繁盛」のご利益があるそうですよ。

 覚林寺には毘沙門天が祀られています。

 境内に入って左手に毘沙門堂がありました。



 毘沙門天は戦国時代には上杉謙信が旗印に使ったこともあり、戦いの神様というイメージがあると思います。

 ところが、大元のインドではヴァイシュラヴァナという財宝の神様で、ヴァイシュラヴァナというのは「あまねく聞く」という意味ですので、中国で仏典が訳されたときに音的には「毘沙門天」となり、意味的には「多聞天」と訳されました。

 飛鳥時代に日本に仏教が入ってきたときには、四天王の一柱として、北を守護することになります。

 毘沙門天の面白いところは、平安時代以降の神仏習合の時代になっても、神様と結びつかなかったところです。

 そのため、七福神めぐりが開発される前は非常にマイナーな仏さまでした。

 七福神のレギュラーに毘沙門天が抜擢された理由は知りません。
 
 こちらは清正公堂。







 神様ですので本殿があります。





 妻が御朱印をいただいてくる間、境内を散策です。

 参拝客の皆さんはあまり興味ないようですが、こちらが本堂です。









 このお地蔵さんは自分の悪い部位に水をかけて磨くと治る、という民間信仰でしょうか。



 最初の地形図を見ていただきたいのですが、高輪台と白金台の間に谷がありますね。

 そこには現在、桜田通りが走っており、覚林寺の前から南西方面には少し登り坂になっています。



 先日、東国を歩く会で中原街道を歩きましたが、中原街道は古代の東海道がルーツの道で、五反田近辺でこの桜田通りと接続しています。

 ですから、この道も古代からあった道ではないかと思います。

 古代の東海道歩きをするのでしたら、ここからこの坂を上っていきますが、次の七福神のいらっしゃる瑞聖寺は桜田通り沿いではなく目黒通り沿いなので今日はこの道路は歩きませんよ。

 ⇒この続きはこちら


東京周辺 七福神めぐり ご利益さんぽコース
七福神散歩会
メイツ出版
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【「新春・焼け石に水」企画 第3弾】東京を代表するどころか日本を代表すると言っても良い旧石器時代の遺物を展示する鈴木遺跡資料館【小平市】

2018-01-03 17:22:55 | 歴史探訪
 私は永年、原始時代といったら「はじめ人間ギャートルズ」のイメージが払しょくできずにいました。

 そのくびきから脱して、自分なりの原始時代像を描けるようになったのは、多分10年も前のことではないと思います。

 一般的には、日本では考古学で言うところの旧石器時代・縄文時代・弥生時代のことをまとめて原始時代と呼びますが、弥生時代の後半は中国の後漢や三国志の時代ですので、「原始」って感じはしませんよね。

 なので、旧石器時代と縄文時代(ヨーロッパでは新石器時代と呼ぶ)の両時代、つまり「石器時代」を原始時代と呼んで、弥生時代は「古代」で良いんじゃないでしょうか。

 まあ、細かいことはどうでもいいんですが、石器時代を代表するものは、その名の通り「石器」です。

 私が初めて石器に興味を持ち、自分から石器を見に行こう!と、目的的にお布団から飛び出して出掛けたのは2011年6月21日のことでした。

 ようやく体調不良期間から脱することができそうな感じがしていた時期です。

 ちょうどこのブログを始めた時期とも重なります。

 向かった先は、多摩センター駅近くにある東京都埋蔵文化財調査センターでした。

 そこで私はセンターの方にお話しを伺い、収蔵庫にも入れさせていただき、黒曜石の欠片もいただきました。

 石器はやはり、実物を見ないと良さが分からないし、勉強にもならないので、センターの方に石器を見るためのお勧めの博物館を聴いてみたのです。

 そうしたところ、近場では明治大学博物館と鈴木遺跡資料館が良いと教えてくれました。

 その探訪の直後、江戸東京博物館で毎年夏に開かれる「発掘された日本列島」が始まったので、7月6日にそれを見学し、その帰りに初めて明大博物館にも立ち寄りました。

 素晴らしかった・・・

 そしてもう一箇所のお薦め処である鈴木遺跡資料館ですが、その後もなかなか訪れることができず、ようやく見学に行けたのは、昨年(2017年)の4月19日だったのです。

 鈴木遺跡資料館のある小平市にはお掃除の仕事でたまに行くのですが、資料館の開館日が水・土・日だけなので、なかなか訪れることができず、その日はちょうど水曜日で、かつ昼休みの1時間を利用して訪れることが可能なスケジュールになっていたのです。

 というわけで、鈴木遺跡資料館の探訪レポートをお届けします。

*     *     *


 鈴木遺跡資料館の佇まいはシンプルです。



 鈴木遺跡と新小金井街道を挟んだ向こうには鈴木小学校があるのですが、小学校建設時に遺跡が見つかって、調べて見たらとんでもなく貴重な遺跡だったのです。

 そのため、この場所に資料館を作ってしまったというわけですね。



 中に入ると、女性の係の方がいらっしゃいました。

 他にお客さんはいないためマンツーマンで教えてくださいます。

 地層の展示。



 武蔵野の旧石器時代の地層は、縄文時代の地層である第Ⅰ層から始まって、深い方へ向かい一番深い層は第Ⅹ層になります。



 ただし、鈴木遺跡では第Ⅷ層がありません。





 では、旧石器時代の「華」である石器について古い順に見ていきましょう。

 ●第Ⅹ層(3万7000年前~3万5000年前)

 ※年代は測定方法により変わりますので、あまり厳密に考えないでください



 現在、地球上にいる人類は私もあなたもすべてホモ・サピエンスで、それ以外の人類はすべて絶滅しました。

 もしあなたがホモ・サピエンスでない自信がありましたら、すみやかにお近くの研究機関や大学などに申し出てください。

 そのホモ・サピエンスが日本列島にやってきた一番初期のころに使っていた石器はこのようなものだったのです。

 打製石斧(だせいせきふ)。



 局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)。



 素晴らしい・・・

 え、自然の石ではないですよ。

 でも実は、古い石器は自然のものか人工の手が加わったものかの判断が難しいものが多く、プロの考古学者でも判断に迷うことがあるそうです。

 名前に「斧」と付いていることから、木の柄にくくりつけて使うことをイメージするかもしれませんが、実際の用途に関しては慎重に考えないといけません。

 考古学者は感覚的なものや、ある種のシャレで名称を決めることがあるのでそれに惑わされないように注意しましょう。

 ●第Ⅸ層(3万5000年前~3万2500年前)



 打製石斧。



 第Ⅹ層との違いが分かりませんか?

 そうですね、私も分かりません。

 ●第Ⅶ層(3万2500年前~3万年前)



 うーん、まだ違いが分からない・・・

 ●第Ⅵ層(3万年前~2万9500年前)



 ここにきて黒曜石が多くなりましたね。



 黒曜石でできた石器は本当に綺麗なので、ぜひ博物館などでご自身の目で鑑賞してみてください。

 伝統工芸品レヴェルのものもありますよ。

 ●第Ⅴ層(2万9500年前~2万7500年前)



 このころ鹿児島県で姶良噴火というのが起き、日本列島はそのときの火山灰(姶良Tn火山灰)で覆われてしまいました。

 この噴火の前後で旧石器時代を前期と後期に分けます。

 ●第Ⅳ層下位(2万7500年前~2万4000年前)



 ナイフ形石器の造りがより精緻になってきているように見えますが、素人目なので自信が無いです。

 ●第Ⅳ層上位(2万4000年前~2万2500年前)



 ●第Ⅲ層(2万2500年前~1万8000年前)



 この写真の上の段の真中に小さな石器が沢山並んでいますね。

 実はこれが凄いのです。

 旧石器時代の技術革新といっても良いようなもので、この小さな石器は細石刃(さいせきじん)と呼ばれ、動物の骨などで造った槍状の柄の先端に切り込みを入れてこれを並べて取り付け刃とします。

 そして、もし取れてしまったり刃こぼれしてしまった場合は新品と交換するという、交換式のカミソリのようなアイデアなんですね。

 この細石刃を見ると、私も「いよいよ新しい時代の到来だなあ」と感じます。

 これらの石器も綺麗ですねえ。



 以上、旧石器時代の遺物をザーッとご紹介しました。

 なお、旧石器時代はまだ定住が始まっていないので、遺跡といったら住居ではなくこのようなものがでてきます。





 説明の通り、肉を焼いた跡が見つかるわけですが、吉祥寺のある焼鳥屋さんが建て替えをするときに遺跡が見つかってしまい、調べて見たら旧石器時代人がそこでお肉を焼いていた跡が見つかったのです。

 そこはまさに、焼肉の聖地だったわけですね。
 
 しかしこの頃はまだ調味料とかありませんから、肉の素材そのものの味を楽しんでいたのでしょう。

 でも、贅沢な食事慣れてしまった私たちは、塩と胡椒は欲しいですね。

 私たちが石器を見るとショボイ道具に映るかもしれませんが、私たち「ホモ属」のご先祖様である「ホモ・ハビリス」が250万年くらい前に石器を発明して以来、殺した動物から肉や腱をはぎ取るのがとても効率的にできるようになったんですよ。

 美味しい脳みそを食べるためには頭蓋骨をかち割る必要がありますが、石器はそれにも重宝したはずです。

 石器は凄い発明なんですよ。

 さて、鈴木遺跡からは他の時代の遺物も出ています。

 縄文土器。



 近代のものも。



 戦時中のご飯茶わんには、戦意を高揚させるような絵が描かれていました。



 子供用茶碗には戦闘機が描かれていたりしました。

 私はかねてより、小さな資料館は面白いところが多いと考えていますが、前々回の記事でご紹介した稲城市郷土資料室もそうですし、ここ鈴木遺跡資料館も非常に素晴らしい資料館です。

 今日は時間の都合で長居できませんが、時間さえあれば1時間でも2時間でもじっくり見学できるでしょう。

 公共交通機関を使って来る場合、交通の便があまり良くなく、また開館日も限られていますが、機会がありましたらぜひ来てみてくださいね。

 なお、鈴木小学校の新小金井街道側には鈴木遺跡の説明板があります。




ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック (シリーズ「遺跡を学ぶ」別冊)
堤 隆
新泉社
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【「新春・焼け石に水」企画 第2弾】五日市鉄道大神駅跡および立川市歴史民俗資料館

2018-01-03 15:59:31 | 歴史探訪
 今日の日中は、義父が入院している病院へ向かう妻と一緒にジジを連れて外出し、少しだけ散歩しました。







 駅で妻を見送った後はジジを連れて家に戻ってきましたが、私はまだ犬との散歩に慣れておらず、ジジが走り出すと一緒に走ったりして、散歩というよりかはジョギングになってしまいます。

 息が切れる・・・

 そんなわけで、「新春・焼け石に水企画」の第2弾をお届けします。

*     *     *


 歴史好きの人は鉄道好きの人も多く、そうなると自動的に廃線好きの人が多いということになります。

 我が多摩地域にも沢山の廃線跡があるのですが、昨年の2月、福生方面から立川方面へ向かう途中、五日市鉄道(通称「五鉄(ごてつ)」)の大神駅跡を見てきました。



 お、いい佇まいですね。







 説明通り、五鉄は大正14年(1925)に拝島から武蔵五日市の間で開業し、昭和5年(1930)には拝島駅から立川駅まで伸長されました。

 その後、大東亜戦争のさなかである昭和15年(1940)に南部鉄道と合併し、4年後には国に買収され、戦時中に進められた路線整理の一環で昭和19年10月11日に休止路線とされ、そのまま復活することなく廃止となりました。



 五鉄と直交するように昭和通りがあります。



 南を見ます。



 北を見ます。



 かつて線路が伸びていた方向。



 つづいて、青梅街道を走って立川市歴史民俗資料館へ向かいます。





 いったい何があったのでしょうか・・・



 立川市は今は多摩地域で最も発展した町だと思いますが、町の華やかさに比べると歴史系の博物館(資料館)はちょっと大人しいですね。



 立川市内にも古墳があったんですね。



 現在の立川市は昭和38年(1963)に立川市と砂川町が合併して誕生しました。

 もともとの立川市は、普済寺を中心にした柴崎村というたった一つの村だったのです。

 柴崎村には上の説明の通り古墳があったようなので、原始時代から古墳時代にいたるまで、この資料館が建つ場所のようなハケ下の湧水が豊かな場所に人びとが住み、古墳時代には多摩川の段丘縁に古墳を築造していたのでしょう。

 そして中世になると武蔵七党の西党の流れをくむ立川氏が入部してきて、普済寺を中心に開発を進めたものと考えられます。

 その中世武士が活躍した証拠として板碑が展示してありますね。



 ただ、柴崎という地名が史料上で確認できるのはそれほど古くないようです。



 八幡神社というのは、2017年6月11日の東国を歩く会の「第11回 歩く日」で訪れた八幡神社のことかなあ・・・

 永正元年(1504)の「立河原合戦」を偲ぶ品。



 立河原合戦は、多摩川の左岸(立川側)で、当時対立していた関東管領山内上杉氏とその一族である扇谷上杉氏が雌雄を決した戦いです。

 国宝の「六面石幢(ろくめんせきどう)」。



 こちらもレプリカで、本物は立川氏の居館があった普済寺で見ることができ、「第11回 歩く日」で訪れました。

 ⇒「第11回 歩く日」のレポートはこちらです

 さて、旧柴崎村とともに現在の立川市を構成した砂川村ですが、江戸時代の初めころから村の中央を五日市街道が通っていました。



 明治時代の地図を見ると、現在の立川市域内では、国鉄の立川駅近辺よりも五日市街道沿いのほうが栄えていた様子が分かります。



 五日市街道沿いはこのように短冊形に土地が分けられていました。





 私は掃除の仕事で五日市街道沿いのお宅によくお伺いするのですが、大きな農家も多く、江戸時代の雰囲気が結構残っていますよ。

 街道沿いに大きな樹木がたくさん生えているのも特徴かもしれません。

 ところで、立川市歴史民俗資料館のなかで私がとくに興味を抱いたのは、立川飛行場についての展示です。









 飛行機は一機ずつ写真を撮ってしまいましたが、ガラケーで撮ったので今一だなあ。

 おーっ!甲式三型!



 88式偵察機もかなりマニアック。











 現在、立川基地跡の広大な土地が未使用のままで、そこに最近はIKEAとかららぽーとなどの郊外型大型店舗や官衙などの公的機関が移転してきているのですが、まだまだ土地は余っているので、立川駅北口はこれからも発展を続けることでしょう。

 それではお庭に出て見ます。

 既述した通り資料館はハケの下にあります。

 





 道標なども置かれていますよ。









 縄文時代の敷石住居跡も。





 これは何か分からない・・・



 「天王橋」と刻されたプレートが置いてあります。

 天王橋は五日市街道と多摩大橋通りがクロスする玉川上水の橋で、東国を歩く会の「第5回 歩く日」で通過しました。


多摩 幻の鉄道―廃線跡を行く
山田 俊明
のんぶる舎

 
 

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【雑多でスミマセン】大丸城跡・稲城市郷土資料室・田端環状積石遺構・浄土古墳群・椙山神社・西谷戸横穴墓群【2017年に探訪】

2018-01-03 10:54:40 | 歴史探訪
 このブログでも何度もお伝えしている通り、私の歴史めぐりの始まりは、1996年12月30日に訪れた会津鶴ヶ城からでした。

 小学6年生から歴史が好きになりましたが、外に出て史跡を歩くことの楽しさに目覚めたのは24歳の時だったのです。

 その後、著しく体調が悪かった2006年8月から2009年10月までの活動休止期間を経て徐々にペースが上がって行き、今のところ、城跡・古墳・社寺などなど、1670箇所ばかりをめぐっています。

 昨年はクラツーでのお仕事が本格化してきたこともあり、そのうちの650箇所くらいを昨年一年間にめぐってしまいました。

 フルタイムで働いているのにもかかわらず、うまく時間を使えばこれくらいは見て回ることができるんですね。

 ところが、あまりにも歩きまわっているため、ブログやホームページへのアップが追いつかないのです。

 そのため、本日は焼け石に水だということは分かっていますが、昨年めぐった史跡をいくつかご紹介します。

*     *     *


 1.大丸城跡(稲城市)

 1月に東京都稲城市の大丸城跡近辺を見てきましたが、その後、説明板が設置されていることを知ったので、その場所へ行ってみることにします。

 温泉施設の近くだということなので注意深く車を走らせていると、それらしき説明板を見つけました。



 ここだ!







 多摩川右岸やその支流浅川右岸の多摩丘陵上には大丸城のような規模の山城が点々と築かれています。

 思いつくだけでも、西から初沢城、平山城、高幡城、関戸城、大丸城、長沼城、小沢城という具合です。

 これらのうち、初沢城は長井氏の拠点城郭なのでちょっと毛色は違いますが、平山城以東は多摩川北岸勢力に向かって築かれた臨時的な山城の色合いが強いので、おそらく小田原北条氏が北上してくる前の、関東管領山内上杉氏とその一族である扇谷上杉氏が争っていた、戦国時代前半に築かれた城だと思われます。

 大丸城の現状は、団地造成のために山が丸ごと削られてしまったため跡かたもありません。

 ちなみに、多摩センターにある東京都埋蔵文化財調査センターには大丸城のジオラマがありますよ。







 大丸城跡は上の説明板でも分かる通り、もう少し時代を遡ると墓域だったことがわかり、さらに奈良時代まで遡ると、国分寺の瓦を焼いた窯があったのです。

 古代史マニアにとってはこちらの方が興味が湧くかもしれませんね。

 しかしそれにしても、山を丸ごと削るって凄いですね。

 多摩丘陵には上述した通り、山城がたくさんあるのですが、多分もっとあったのではないかと、私たち地元の城仲間は囁き合っています。

 知らないうちに破壊されてしまった遺跡も多いと思いますよ。


 2.稲城市郷土資料室(稲城市)

 稲城市には独立した歴史博物館はないのですが、「ふれんど平尾」のなかに郷土資料室があります。





 小さな展示室ですが、展示内容はとてもいいです。



 稲城の地形。









 私の経験では、大きな県立の施設も良いと思いますが、地域に根差した小さな資料館にグッと来ることが多いです。



 稲城市郷土資料室もそのような中の一つです。

 そして展示内容もさることながら、出版物がたくさんありますし、無料でいただける資料が非常に充実しているのです。

 資料室の職員の方々の心意気を感じることができます。

 ちょっと不便な場所に有りますが、多摩地域の歴史を調べている方はぜひ訪れてみてくださいね。


 3.田端環状積石遺構(町田市)

 つづいて、町田市の「ストーンサークル」に行ってみましょう。

 ストーンサークルというと、秋田県の大湯のものが有名だと思いますが、意外と関東各地にもあって、町田市にもあるんです。



 田端環状積石遺構。

 この看板だけ見ると、まるで都心の田端にあると勘違いされるかもしれませんが、周りの風景は全然都心ぽくないので大丈夫でしょう。







 こういった遺跡は縄文時代の終わりの方に出てくる傾向があるようで、縄文時代も軽く1万年を越えて続いたわけですから、その間の人びとの心の持ちようも変わってくるわけです。

 現在展示してあるのはレプリカです。







 今日は富士山は見えませんねえ。



 でも丘陵の上であるこの場所は、なんかとても気持のよい場所ですよ。

 ベンチも置いてあるので、お弁当を食べるのも良いかもしれません。


 4.浄土古墳群(昭島市)

 さて、この翌日には東京都昭島市にある浄土古墳群を訪ねました。



 古墳と言ってもこの通り、現在は墳丘は有りません。







 この説明板にも書かれている通り、浄土古墳群としては5基の古墳が見つかっています。

 ここにあるのは、そのうちの1号墳です。



 多摩川左岸の古墳については、先日簡単にまとめてみました。

 ⇒その記事はこちら

 そこでも書きましたが、浄土古墳群は多摩川左岸においては最上流の古墳群です。

 『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』によると、昭島市内では他に3基の古墳が見つかっていますが、浄土1号墳以外はすべて消滅しています。

 1号墳もご覧の通り墳丘も石室も残っていませんから、消滅といっても良いと思いますが、確かにこの場所に有ったことが分かるようにきちんと整備されていますので、これだけでも有り難いです。

 浄土古墳群の南側(多摩川側)は地形が落ちているのが分かりますね。



 多摩川左岸の古墳の立地上の特徴は、段丘の縁にあるものが多いことです。

 ところで、この日は昭島市役所に寄り、市役所近くに「田中の庚申塔と馬頭尊」を見つけました。









 馬頭観音は六観音の一つですが、馬頭観音のみ憤怒の表情をしている見た目の怖い観音様です。

 それが民間信仰では使役された馬を供養するために引っ張り出されてきて、江戸時代には街道沿いに多くの馬頭観音が建立されました。

 上のように文字だけのものもあれば、ちゃんと観音様が刻されているものもあります。


 5.椙山神社(町田市)

 つづいてこの2日後にはまたまた町田方面に出張りました。

 まずは町田市三輪の椙山(すぎやま)神社です。

 椙山神社は山の斜面にあります。

 たまたま車を止めた場所の近くには境内社である西谷戸稲荷社がありました。



 なので、参道を通らず、稲荷社の裏から山を登ろうと思います。



 まあまあ、急です。

 振り返ります。



 拝殿後背部。



 お参りもせずに、神様の背後に回るのは失礼かもしれませんね。

 グルッと回って拝殿に行き非礼を詫びます。



 なんかいる!



 参道を通って帰りましょう。







 多摩地域で良く見る鳥さん。



 ところで、この椙山神社ですが、他の「すぎやま」神社は、杉山神社と表記するのに、こちらのみ椙山神社と表記します。

 その理由は分かっていませんが、そもそも杉山神社自体、東京都南部と神奈川県北部の人たち以外にはあまり知られていない神様でしょう。

 その地域に集中して祀られた神様で、境内の由緒書きによると全部で72社あるそうです。

 三輪の椙山神社の祭神は、日本武尊・大物主命・意富斗能地神(おおとのじのかみ)です。

 オオトノヂは聴きなれない神様かもしれませんが、日本神話の「神代七代」の5代目に当たる神様で、私もあまり神社に祀られているのを見たことがありません。

 椙山神社は元慶元年(877)創建と伝わっていますが、それが事実かどうかは分からないとしても、古社であることは間違いないでしょう。

 椙山神社境内から見下します。



 実はこの見えている範囲には、椙山神社北遺跡があるのです。





 この説明板の通り、縄文・弥生・古墳時代の複合遺跡で、とくに火災に会っていた弥生時代後期の住居跡というのが気になります。

 関東地方には北九州のように「クニ」と呼ばれるような大きな政治的な固まりは作られませんでしたが、それでも東京湾岸地域には非常に多くの環濠集落が作られました。

 とくに、鶴見川流域はそれが濃密で、横浜市港北区の大塚・歳勝土遺跡は有名です。

 最近では環濠集落と戦争を無理に結びつけない考え方も提起されていますが、私はやはり、環濠集落があるということは、その地域が戦争状態になったことの表れじゃないかと思っているのです。

 しかし、関東平野全体が戦争状態になったのではなく、この近辺では鶴見川流域という狭い範囲でそういう状態に陥り、その狭い範囲内でムラとムラが戦う状況が惹起されたのではないかと考えています。

 例えば、鶴見川流域の勢力が埼玉県や山梨県まで遠征するという状況ではなかったということです。

 なぜ弥生時代後期に戦争状態が濃厚になった地域と希薄な地域が生じたのかは今のところまだよく分かりません。


 6.西谷戸横穴墓群(町田市)

 では、最後に同じ町田市内にある西谷戸(にしやと)横穴墓群を見に行きましょう。

 おーっ!

 壮観だ!



 横穴はすべて埋められていますね。





 フェンス越しに説明板を読みます。



 こちらはもっと詳しい。



 横穴墓(よこあなぼ/おうけつぼ)は、古墳の一種です。

 古墳時代の終末期(7世紀)には、群集墳といって、小さな古墳がたくさん造られるようになり、高塚古墳を築かずにこのように崖に横穴を掘るケースも多くなりました。

 古墳時代の初めのころから半ばまでは、古墳に葬られるのはその地域で隔絶した力を持っている「王」的存在やその近親者のみだったわけですが、群集墳の時代となるとどうも様相が違ってきます。

 ですので、一般人の中でもそこそこ力を持っている者は古墳を築けるようになったとか、家族が皆で入る「家族墓」とか、そういった説明を見ることが多いです。

 でも今のところ、私の中ではまだそういった説明に対して釈然としません。

 こういった横穴墓や群集する高塚古墳に関しては、今後ももっと勉強していこうと思います。

 そういえば、先ほど訪れた椙山神社の境内にあった稲荷神社も「西谷戸稲荷社」でしたね。

 同じ名前だ・・・

 石仏。



 周りの風景。



 以上、雑多な内容でしたが、2017年にめぐった史跡を少しだけご紹介しました。


日本の横穴墓 (考古学選書)
池上 悟
雄山閣出版

 
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【東京都調布市】多摩川流域の古代史【下布田遺跡・下布田古墳群・古天神遺跡】

2018-01-02 18:03:14 | 歴史探訪
 今日も昨日に引き続き、武州は正月らしい穏やかな日和でした。

 みなさん、明けましておめでとうございます。

 東京オリンピック・パラリンピックはいよいよ再来年となりましたが、それはそれとして、2020年は『日本書紀』リリース1300周年ですので、歴史マニアはむしろこちらの方でフィーバーしましょう。

 というわけで、昨年末から今日まで、飲み食いをずっと連続的に行っており、短期間にまたまた腹部が肥大化しました。

 角界も人材不足ですので、あわよくばという想念も浮かびます。

 さて、本日は『日本書紀』や相撲と接続させるには困難な話ですが、東京都調布市の歴史についてチョロッとお話ししたいと思います。

 気がつけばかなり時間が経っていましたが、2014年11月に調布市郷土博物館を訪れました。

 まずは調布市郷土博物館の探訪レポートを簡単にします。

*     *     *
 

 住宅街の狭い道を走り、やっとこさ辿りつきました。



 私はたくさんの博物館や資料館を訪れていますが、調布市郷土博物館の「秘境度」はかなり高いです。

 ここでいう「秘境」というのは、人跡未踏とかそういう意味ではなく、ただ単に辿りつくのが困難という意味です。

 まずは縄文時代の展示。

 こういった「顔」がある土器には非常に惹かれるんですよね。



 野川の左岸にある原山遺跡から出ました。



 縄文土器は見ていて飽きないです。



 このデザインも素晴らしい。



 いったい何を表現しているんでしょうね?

 調布市内の縄文遺跡で最も有名なのは、下布田遺跡でしょう。



 他の時代で珍しいものとしては、上石原(かみいしわら)遺跡から出土した平安時代の奈良二彩多口瓶(ならにさいたこうへい)は、東国の集落跡から出土した唯一の例です。



 右のが出土したもので左のが復元品です。

 奈良三彩ではなく奈良二彩と呼ばれていますが、二色でも四色でも「奈良三彩」と呼ぶそうです。

 平成19年3月15日に東京都指定文化財に指定されました。

 たまにお掃除でお伺いする染地地内からは戦国時代の陶器が出ています。



 染地には戦国期に土豪の屋敷でもあったのでしょうか。

 江戸時代にはキリスト教は「邪教」扱いです。



 民俗関係(?)では足踏みオルガンも展示してあります。





 そして調布と言えば、新選組局長の近藤勇の出身地ですね。

 ということで、バーン!と、局長の生家のジオラマが展示してあります。







 主屋の間取りはこんな感じ。



 ちなみに現地はこんな感じになっています。





 昨年2月12日に、東国を歩く会の「第8回 歩く日」で探訪しました。

 館内には局長の坐像もありますよ。





 西光寺の坐像はこちらです。



 西光寺はクラツーの甲州道中歩きでご案内したことがあります。

 調布市内の遺跡地図。



 多摩川左岸の段丘縁はすべて遺跡ですね。



 赤い丸が古墳の位置です。

 私は歴史めぐりで初めて訪れる場所の場合は、まずはその地の歴史系の博物館や資料館へ行くことをお勧めしていますが、つぎに実際の遺跡をいくつかご紹介します。

 昨年(2017年)3月には調布市内の遺跡を少し見てきました。

 まず最初に訪れたのは、国指定史跡になっている下布田遺跡です。



 下布田遺跡は下の説明板に書かれている通り、縄文時代の終わりのころの遺跡で、現在は目で見ることのできる「何か」はありません。



 説明板近辺は単なる野っぱらになっているので、直接的な刺激を受けることはありませんね。





 下布田遺跡の遺構で個人的に惹かれるのは、縄文時代晩期の墓である「方形配石遺構」です。

 私は墓の歴史を追いかけているのですが、縄文時代晩期に方形に石を並べて、その中心には土壙が掘られ、石刀が副葬品として納められていたことはとても興味深いです。

 石刀は形状が刀に似ているだけで実際に刀として使用されたかどうかは分からず、一般的には祭祀の道具と考えられているようです。

 縄文時代はまだ身分格差は生じていなかったといわれていますが、晩期になるとこのように特別な配慮の元で葬られた人物が現れており、ムラのリーダー的立場の人物の力が一般の人たちよりも大きくなっていることが分かります。

 また、石で作られた飛行機鏃と呼ばれるヤジリの出土量が異常で、狩に使うだけとは考えられないほどに大量なことから、もしかしたらこの頃にはすでにムラとムラが戦闘を行う事態が生じていたのかもしれません。

 つぎにやってきたのは、下布田古墳群のなかの狐塚と呼ばれている6号墳です。



 古墳といっても、墳丘らしきものはもうありません。









 狐塚古墳は、説明板に書かれている通り、周溝の内径が44mもあり、この規模の古墳は全国を見渡しても7世紀前半では最大級のものです。

 単純に大きさだけを見れば、同じ頃に多摩川中流域を支配していた有力者の墓である北大谷古墳(39mの方墳もしくは円墳)や武蔵府中熊野神社古墳(一辺が32mの上円下方墳)と同等です。

 この時代には、他に多摩市の稲荷塚古墳や三鷹市の天文台構内古墳も盟主墳として申し分ないので、大化改新前夜、多摩川流域には同じくらいの実力を持った有力者が最低5名も並び立っていたことになります。

 前回の記事でも触れましたが、私は武蔵国府が現在の東京都府中市に誘致された理由を探究していますが、もしかすると北武蔵の有力者に対抗する形で、多摩川流域の上述の各有力者たちが「多摩川同盟」のようなものを結成し、集団でヤマトに対して国府誘致を働きかけたのではないかと思い付いたりしました。

 そう、思い付いちゃっただけなので、まだまだ考察不足です。

 府中市内に国府が来れば、河川交通で繋がっている多摩川沿いの各有力者たちにも旨味があるのではないでしょうか。



 では最後に、古天神遺跡です。



 古天神遺跡は現在、古天神公園となっています。



 説明板に書かれている通り、ここには布田(多)天神が現在地に移る前にあったといわれており、原始時代から墓域として利用されていました。

 調布駅近くの甲州道中沿いにある布多天神は、「第8回 歩く日」やクラツーの甲州道中歩きで訪れています。



 古天神遺跡で特に注目すべきは5世紀の円形周溝墓です。

 古墳とは書いてありませんが、周溝の幅が4~5mというのはかなり大きい、というか特殊なのではないでしょうか(私が知らないだけで珍しいものではなかったらゴメンナサイ)。

 この周辺に広がっている下布田古墳群との関係を含め、非常に興味深い遺構です。

 この公園の南側の地形は多摩川に向かって落ちています。



 しかし子供たちがたくさん遊んでいて写真が撮りづらい・・・

 不審者だと思われる可能性があるので、早々に退散します。

 以上、本日は調布市内の史跡をいくつかご紹介しました。

 多摩川流域の古代史についても興味が尽きないです。


世界一よくわかる新選組
山村竜也
祥伝社
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【多摩川沿いの古墳】地味に多くの古墳があります【青梅市から大田区まで概観】

2017-12-31 12:42:39 | 歴史探訪
 古墳というと、大きな前方後円墳を想像する方も多いと思います。



 ※群馬県高崎市の保渡田八幡塚古墳

 日本国内には3世紀から7世紀までの間に、15万基とも20万基ともいわれる数の古墳が造られ、そのうち、前方後円墳は5000基ほどで(諸説あり)、直径10mとか20mとかの小さな円墳が沢山造られました。

 私の住む多摩地域でもたくさんの小さな古墳が造られており、また全国を見渡してもちょっと特殊な地域でもありますので、今日は多摩川沿いの古墳についてザーッと紹介したいと思います。


 1.多摩川流域の古墳概観

 それでは、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』(多摩地区所在古墳確認調査団/編)を参考にしながら、多摩川左岸(上流から見て左側)の古墳を上流から見ていきましょう。

 まず、青梅市内には少数の小型古墳(古墳時代後期か終末期か?)があったようですが今はもう存在せず、羽村市と福生市では古墳は確認されていないようです。

 つぎの昭島市に入ると、浄土古墳群があります。







 浄土古墳群では5基の古墳が見つかっており、浄土古墳群以外にも昭島市内には最低3基の古墳があったようです。

 つづいて、立川市内では古墳の濃密な分布はなく、最低3基の古墳があったことが確認されています。

 そして国立市以降は、古墳の分布が濃密になって行き、青柳古墳群や下谷保古墳群があり、そのほかチョコチョコと古墳が見つかっているようです。

 四軒在家(しけんざけ)古墳は、今年の6月11日に東国を歩く会の「第11回 歩く日」で訪れていますし、クラツーの甲州道中歩きでもご案内しています。











 そういえば、あきる野市内にも「四軒在家」の地名があることを偶然発見しています。



 府中市内に入ると、古墳の密度はさらに高まり、府中市内の古墳は大きく高倉古墳群と白糸台古墳群に分けることができます。

 高倉古墳群で現在見ることのできる古墳は、以下の通りです。

 ●高倉塚古墳





 ●天王塚古墳



 ●高倉20号墳



 ●首塚



 さらに、御嶽塚古墳。





 そしてもっとも有名なのは、古墳群とは離れた位置にポツンとある、武蔵府中熊野神社古墳です。



 こちらも東国を歩く会のみんなやクラツーのお客さんと訪れています。





 武蔵府中熊野神社古墳は別格ですが、本記事では説明は割愛させていただきます。

 つぎに調布市に入ると、飛田給古墳群がありますが、これは府中市の白糸台古墳群と一続きと考えられます。

 ただし、行政区画が分かれていますので、別の名前の古墳群が付いているのです。

 調布市内には、下石原古墳群と上布田古墳群、そして下布田古墳群があります。

 下布田6号墳(狐塚古墳)。









 狛江市では、昔から「狛江百塚」と呼ばれている通り、たくさんの古墳がありました。

 その中でも有名なのは、兜塚古墳。





 ここに書かれている通り、径43mの大型円墳ですが、帆立貝式古墳の可能性もあり、そうだとすると狛江という地域の古墳時代における政治的な位置づけがさらに重要視されてきます。



 亀塚古墳。





 こちらは全長40mの帆立貝式古墳で、現在のところ帆立貝式古墳としては多摩川沿いで最上流に位置します。

 さらに多摩川沿いを下って行くと、先日「第14回 歩く日」で訪れた世田谷区から大田区にまたがる荏原台古墳群ということになります。

 ⇒そのときの記事はこちら

 以上、あまり知られていませんが、多摩川の左岸にはこのようにたくさんの古墳がある(あった)のですね。

 ちょっと地理的にも形状的にも異質なものとして、三鷹市内の天文台構内古墳があります。

 天文台構内古墳は、2月12日の「第8回 歩く日」で訪れています。





 天文台構内古墳は上円下方墳の可能性が高いです。

 多摩川の支流である浅川や川口川、そして平井川沿いにも古墳があり、八王子市・日野市・あきる野市に点在します。

 あきる野市の瀬戸岡古墳群。





 ちなみに、多摩川の右岸(南岸)は多摩丘陵が展開していますが、高塚古墳は左岸と比べると極端に少なく、横穴墓が散見できます。

 右岸日野市の七ツ塚古墳。





 七ツ塚古墳のある場所は、古代末から中世にかけて活躍した日奉氏の本拠地で、日奉氏とこの古墳の被葬者との関係が非常に興味深く、かつ八王子市内の北大谷古墳との関連も気になります。


 2.多摩地域には特殊な形状の古墳が集まっている

 以上が多摩川流域の主な古墳ですが、実はこの地域は国内を見渡しても特殊な地域であることが分かるのです。

 その一つとして、国内に10基もないであろう、上円下方墳が2つもあることです(武蔵国内を見渡すと、埼玉県川越市には山王塚古墳もあります)。

 二つ目は、これまた珍しい八角墳の存在です。

 当時、八角墳は天皇が築造する古墳の形状ですから、それが多摩地域にあるというのはとても興味深いです。

 多摩市にある稲荷塚古墳がそれです。







 位置的には古墳が希薄な多摩川右岸ですが、多摩市内には塚原古墳群もあり密度が高いです。

 古墳時代における多摩川流域の特殊性については今後も探求していこうと思います。




 3.武蔵国府はなぜ現在の府中市内に置かれたのか?

 ところで、以前から私は武蔵国府が埼玉県行田市の埼玉古墳群の被葬者勢力内ではなく、それまで何もなかったように見える東京都府中市に置かれた理由を考えてきました。

 本日、『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』を読み返していたところ、塚原二郎氏が非常に興味深いことを書いていました。

 府中市内の古墳は、既述した通り大きく高倉古墳群と白糸台古墳群に分けることができます。

 そして、両古墳群の間に、のちに武蔵国府が造られるわけです。

 ところが、その国府周辺地域では、本町遺跡で古墳時代前期の方形周溝墓が3基見つかっている以外、古墳時代後期後半まで竪穴住居などの人の生活の痕跡がなく、上で説明してきた多摩川左岸のなかで、もっとも大きな古墳空白地帯(および無住地帯)が拡がっているのです。

 塚原氏はこの事実について、当該地域には古墳時代前期の段階で「地元勢力を制する力」が働き、この一帯を隔離したと述べています。

 この「地元勢力を制する力」とは、ヤマト政権でしょう。

 これは武蔵国府が府中市内に造られた理由に関連してくるように思えます。

 こういうのを考えるのが古代史のロマンですね。

*     *     *


 もしかしたら本記事が今年最後の投稿になるかもしれません。

 今年も1年間、お読みいただきありがとうございました。

 来年も今まで通り、至ってマイペースで更新していきますので、どうぞよろしくお願い致します。

 来年は戌年!




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【クラブツーリズム】奈良古代史ツアー2日間無事終了【2017年仕事納め】

2017-12-17 19:46:03 | 歴史探訪
 2日間の奈良古代史ツアーのガイド(2017年12月16~17日)を終えて、いま帰りの新幹線のなかでこの記事を書いています。

 皆さんに楽しんでいただけたか心もとないですが、私としては精いっぱいガイドさせていただいたつもりです。

 21名の皆さん、ご参加ありがとうございました!

 以前の私のツアーや講座に参加してくださった方々も何名か参加してくださり、とても嬉しかったです。

 今回のツアーで今年のクラツーのお仕事はお終いですが、DeathK!Nの仕事は29日まで続くのでまだまだ気を抜けませんよ。

 では、昨日と今日のツアーの様子を簡単にご報告しますが、私自身がガイドしているため、史跡の写真は少ないです。

*     *     *


 今日は初めて新横浜から東海道新幹線に乗り換えです。

 東京まで行って乗るよりも時間的には少し余裕があり、かつ新横浜駅は横浜線ホームから新幹線のホームが近くて楽ですね。

 8時39分に搭乗して、名古屋には10時過ぎに着きました。

 新幹線に乗れば名古屋なんか時間的には東京から高尾に帰るのと変わらないですが、リニアモーターカーができたらもっと短縮できて江戸期の旅人からしたら気味が悪いでしょうね。

 名古屋駅からは近鉄特急に乗り換えです。

 近鉄特急に乗るのは生まれて初めて。

 私は今でも鉄道が好きですが(マニアほどではない)、千葉県で生まれ育ったため、子供のころから関西の私鉄に憧れていました。

 近鉄・阪急・南海・京阪・阪神などです。

 でも今まで関西にはほとんど行ったことがないので、これらの電車に乗る機会はありませんでした。

 ですから、実は近鉄特急に乗れるのは今回のツアーでの楽しみの一つなのです。

 ホーム。



 お、電車がいますよ。



 でもこれには乗りません。

 反対側には青い電車が来ましたが、うまく撮れなかった・・・

 また来た。



 これでもありません。

 おーっ、昔のカラーだ!



 嬉しいことに乗るのはこれでした。





 新しいのとくっついていますね。



 運転台を覗きます。





 さすが古い車両だけあってシートは年季が入っていますね。

 椅子には「TABLE」が。





 ノートPCを置くのにちょうどいい。

 車内では名古屋駅から積載されてきたお弁当を食べます。



 美味しいなあ。

 もちろんビールは飲まないですよ。

 12時10分、大和八木駅に到着。





 迎えに来ていたバスに乗り込み、歴史探訪開始です!

 ここからはナビゲーターをするので写真はほとんど撮れませんよ。

 最初は唐子・鍵遺跡。

 現在工事中です。

 つづいて西山古墳。

 前方後方墳としては日本最大の190mの古墳で、皆さん墳丘に登りたいということなので、足場はとても悪いのですが、皆さんで墳丘に登りました。
 


 マニアックな古墳ですが、皆さんとても喜んでくださっています。

 つぎは黒塚古墳展示館を見学して、黒塚古墳へ。

 こちらはきちんと整備されているので歩きやすいです。

 そして本日の最後は橿原考古学研究所附属博物館。

 ここの展示は素晴らしいですよ!

 博物館の安田さんに案内していただき、ジョークを交えたとても分かりやすい解説で、皆さんとても楽しそうでした。




 
 ミュージアムショップでは、妻への土産を購入。



 本日訪れた西山古墳のマグネット。

 昨年の10月、妻と結婚する前のことですが、奈良へ一人で行ったときに、ウワナベ古墳のマグネットをお土産に買って帰り微妙な雰囲気になりました。

 そのため、今回もマグネットをチョイスしたわけです。

 きっと喜んでくれるでしょう!

 というわけで、全行程を終えてホテルへチェックインし、18時からは夕飯です。

 なんと今日はコース料理!

 久しぶりにフォークとナイフが横穴式石室の中に置かれた副葬品の鉄刀のように並べられた光景を見ました。

 そしてデザートは前方後円墳のケーキ!



 隣の方が「段がないね」とおっしゃったので、「3段築成にして、周溝で囲んだら本格的ですね。さらに円筒埴輪を並べて」などと言いながら食べました。

 食事をして部屋に戻ると、今度は独り飲みです。



 そしていつものように22時には睡魔に襲われ就寝、翌日は4時半に起床しました。

 昨晩は大浴場に行かなかったので、5時のオープン直後に行ったところ、こんな朝早いのにもう何名かの方が入っています。

 いやー、温泉は気持ちいいですねえ。

 朝食は6時半から。

 美味しそうなものが沢山並んでいますよ。

 いつもはご飯を3杯食べますが、2杯にとどめておいて、そのかわりグラタンを食べ、味噌汁も美味しかったのでおかわりし、デザートのみつまめも2杯食べました。





 美味かったー。

 コーヒーは自室に持ち帰れるように考慮されており、こういう心遣いはとても嬉しいですね。

 さて、2日目の探訪の始まりです。

 8時半に出発。

 最初に向かったのは大神神社です。

 まだ9時前なのに境内は結構な人出でした。

 晴れていて空気が澄んでいるので展望台からの眺望もバッチリ。





 大勢で囲んでも動じない猫ちん。



 つづいて、桜井市埋蔵文化財センターへ行き、学芸員の武田さんから纏向遺跡について詳しく教えていただきました。

 巻向駅近くの大型建物跡の復元模型。



 パカッ!



 これは武田さんが開けてくれたものなので、入館者は絶対に勝手に開けないでくださいね!

 昼飯は三輪そうめん山本。

 柿の葉寿司。



 そしてにゅうめん。



 なんか今回のツアーは昨日の夜のコース料理やこのにゅうめんなど、豪華なものを食べさせていただきとてもありがたいです。

 食後の第一弾は箸墓古墳。



 国津神社、ホケノ山古墳を見て、箸墓古墳に戻ってきました。

 墳丘を見上げると、段築がはっきり分かります。



 皆さんと「墳丘に登りたいですねえ」と冗談を交わしていると、「先生、あそこから入れますよ!」と言われ、見てみると確かに扉の横に隙間があります。



 もちろん愚かしい真似はしませんのでご安心ください。

 一度バスへ戻りました。

 いやー、寒かった・・・

 しばらくバスの中で休憩。

 つづいて、纏向古墳群を散策です。

 でも、気持ちよく散策という感じにはならず、寒さを耐えながら歩きます。

 石塚古墳、勝山古墳を見て、矢塚古墳へ。

 矢塚古墳は季節柄、墳丘の形が少しわかります。



 さて、当初の予定ではこれで終了だったのですが、お客さんから、さきほど「パカッ」と屋根が取れた大型建物跡が見つかった場所を見てみたいとのリクエストがあり、時間的に余裕があるので巻向駅の近くまで歩いてみることにしました。

 お、遠くに説明板が見える!

 ありましたよ!



 説明板の前での解説が終わると、ちょうど電車が来ました。



 やったぜ!



 カッコいいー。



 以上で本日の探訪は終了!

 最後に猫チンがお見送り。



 大和八木駅まで戻ってくると、身体がすっかり冷えているため、ラーメンか何か、温かいものが食べたい・・・

 うどんか・・・



 昼はにゅうめんだったけど、なんかカレーうどんが食べたくなった。



 おっ、このカレーうどん美味い!

 うどんも腰があるし、スープも絶妙だ。

 旅の最後に、追い打ちを受けたように美味しいものが食べられました。

 駅前のオブジェ?



 電車が来る間、皆さんは椅子でお休みになっています。

 一方私は電車を撮りまくり!











 私は決して撮り鉄ではありません!

 しかしながら、この記事を読まれたら歴史ツアーに行ったのではなく、鉄道を撮りに遊びに行ったように誤解されるかもしれませんね。

 ちゃんと2日間仕事してきましたよ!


邪馬台国をとらえなおす (講談社現代新書)
大塚初重
講談社



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【クラブツーリズム】まだまだ勉強が足りません・・・【太田天神山古墳・岩宿遺跡ほか群馬古代史ツアー無事催行】

2017-12-11 18:49:11 | 歴史探訪
 一昨日の土曜日(12月9日)は、クラブツーリズムにて群馬の古代史ツアーをご案内してきました。

 このカタログの左下のツアーです。



 このツアーは以前4月にやったのですが、その時に参加できなかった方々からもう一度やって欲しいという大変嬉しいリクエストをいただいたため、再度催行しました。

 一昨日はその前の週に催行した埼玉古墳群のときと同様、大変天候に恵まれ、参加者の方々も気持ち良い程度の寒さの中、初冬の歴史探訪を楽しんでいただけたものと思います。

 最初に訪れたのは東国最古の古墳の一つである元島名将軍塚古墳(前方後方墳)で、つづいて高崎市歴史民俗資料館を見学。

 つぎに太田市へ移動してホテルで昼食を食べた後、太田天神山古墳へ。



 太田天神山古墳は東日本で最も大きい墳丘長210mの前方後円墳です。

 私たちのバスと東武線。



 順番的には、まずは隣の女体山古墳(帆立貝形古墳では日本で二番目に大きい)を見学してからです。



 そして最後は、岩宿遺跡と岩宿博物館を見学。



 上野には予定通り19時に帰ってくることができました。

 19名の皆さま、ご参加ありがとうございました。

 ちょっと早いですが、来年も宜しくお願い致します。

 お腹ペコペコの私はそのまま「ねぎし」へ行って独りで打上げです。





 ねぎしは多摩地域にはほとんどないため、牛タンが大好物の私は都心に出張った時にお店を見つけると欲望を抑えきれないのです。

 ご飯がお替り自由なのでこれもまた嬉しいですね。

 さて、今年のクラツーのお仕事は今度の土日の奈良古代史ツアーが最後になります。

 今年はクラツーにてたくさんのお仕事をやらせていただき、歴史好きにとってはこんなにありがたいことは無いです。

 会社やスタッフの方々、そしてもちろん参加してくださるお客さんたちにもとても感謝しております。

 私は多くのお客さんと比べるとまだまだ人生経験を積んでいない若造ですし、歴史の知識も足りていないため、多分お客さんからすると不満だったり、大目に見ていただいていたりしていると思います。

 沢山のお客さんをご案内する過程で、自分の足りない点も数多く見えてきました。

 それはサーヴィス業に従事する人間としての至らない点も含まれますが、知識の場合をとっても、お客さんから質問されてそれに答えられないと、それがきっかけとなって今まで未知の領域についても勉強をし始めます。

 実は人に教えるということは自分が一番勉強になるのです。
 
 ですので、どこかにお勤めになっている方は社内研修の講師などを買って出るといいですよ。

 私は歴史以外にも植物や動物にも詳しくなりたいですし、古墳の石室をご案内しているのにもかかわらず「石」についての知識がないことが恥ずかしいと気付いたため、石についても学び始めました。

 大好きな地形についもなぜ山や海や川などができるのかもっと理解を進めたいですし、ヤマト王権が「鉄」で勢力を伸ばしたという推論を展開しているのにもかかわらず、鉄製品はどうしてできるのか何も知らないため、たたら製鉄などの鉄を作る方法についても今後学んでいきます。

 そして古墳が大好きなのにもかかわらず、古墳を作る具体的な方法についてもまだまだ知らないことが多いため、土木の観点から古墳築造について勉強を始めました。

 あとはとくに最近興味があるのは「色」や「ウルシ」です。

 やらしい方の「色」の歴史も実は興味があるのですが、それはそれとして、建築物やモノに塗る「色」や着る物を染めるための「色」に詳しくなりたい。

 古代人はとくに赤色を神聖視していたようです。

 安価なベンガラにたいして高価な水銀朱。

 これらの使い分けやそれを使用しての彩色。

 ウルシだって日本人は1万年も前から実用化していました。

 漆の木から樹液を採取し、それを精製し、器に塗るときは下地を塗ってから本塗りするということがすでに行われていました。

 漆を塗ると丈夫になるし、しかも殺菌作用もあります。

 こんな感じで興味は拡がる一方ですが、学んだことを講座やツアーで皆さんにお話しして、歴史をもっと楽しんでいただけるように努力します。

 勉強したことが自分の頭だけに有ったり、論文を書いて一部の研究者の中でしか共有できていないというのはとても寂しいことですね。

 自分の知識や経験が多くの方々の役に立ってこそ、自分が生きている意味があるのではないかと思っています。

 実は今日は体調が悪く、頭がボーっとしているためか話がとりとめなくなってきたようです。

 なのでこの辺で終わりにしますね。
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【クラブツーリズム】いやらしい写真ばかりでゴメンナサイ【近況報告】

2017-12-05 18:07:37 | 歴史探訪
 だいたい一ヶ月のうち29日くらいはお掃除か歴史の仕事をしています。

 お仕事をいただけるということは大変ありがたいことですね。

 感謝されるために働くのではなく、働かせていただけることに感謝するようにしています。

 先日の土日もクラツーのお仕事をやらせていただきました。

 土曜日は月に1度やっていた東北の古代・中世史講座の最終回です。



 今回も19名様という多くの方々にご参加いただきました。



 みなさん、どうもありがとうございました。

 来年も西新宿のクラツー本社にて月に2本、座学をやらせていただきますので、興味のある方は「旅の文化カレッジ」をご覧ください。



 そして恒例の「たかまる鮮魚店」での昼飯。



 1,080円の刺身定食・・・



 美味すぎる・・・

 私は経済的理由で月に1度くらいしか妻を外食に連れて行ってあげられないのですが、夜は妻のリクエストで八王子駅北口にある「関根精肉店」へ行きました。



 安くて美味いホルモンの有名店ですが、ホルモン以外にも美味しいお料理がたくさんあります。







 当然、もつ鍋は絶品。





 と、締めに入る前にラムチョップが食べたくなりました。





 ラム肉が好きな方はぜひここで食べてみてください。

 1人前700円くらいですが、その辺のそれなりの価格の牛ステーキよりも全然良いと個人的には思っています。

 そして、さきほどの鍋のスープにコラーゲンを足していただきチャンポンで締めです。



 というふうに、いい気になって飲み食いしたわけですが、翌日曜日はクラツーの埼玉古墳群ツアーをご案内してきました。

 探訪した個所は、川越市の山王塚古墳、東松山市の野本将軍塚古墳。



 そして、「関東の石舞台」と言われる、行田市の八幡山古墳。



 この横穴式石室の素晴らしさには皆さん感嘆しており、これだけ喜んでいただけると本当にこのツアーを企画してかつご案内した甲斐があったと、私自身も大変嬉しかったです。

 つづいて、メインの埼玉古墳群。

 さきたま史跡の博物館では犬の埴輪がありましたね。



 これ以上ないくらいの古墳散策日和で、8基の前方後円墳や日本最大級の円墳である丸墓山古墳などを2時間ほどかけてご案内して、ここも皆さんとても楽しそうに歩いていらっしゃいました。

 最後は真名板高山古墳を見てちょうど日没です。

 というわけで、23名様のご参加、ありがとうございました。

 今後もまだまだ関東の古墳ツアーをやりますので楽しみにしていてくださいね。

 なお、以前やって好評を得て、かつ再催行の希望もいただいていた保渡田古墳群・観音塚古墳・お富士山古墳のツアーを3月31日に予定しましたので、正式な発表をお待ちください。

 道路も混んでおらず、新宿には18時には帰着できました。

 北方領土展をやっていたのでちょっと見学。



 そして神楽坂に出張っていた妻とたまたま時間が合致したので中野の激安中華屋さんに行きました。



 生ビールが190円で、一品料理が400円くらい、ラーメンが290円などなど、異様に安いのでちょっと不安でしたが、お料理もなかなかの味でしたよ。









 辛いつけ麺(610円)もオリジナリティがあって美味しかった。



 私はまあまあ食べるほうなのですが、ビールを適量飲んでも妻と二人で二千数百円でした。

 このお店です。



 なんと、八王子にもあるようなのです!

 というわけで、今日は食べ物写真ばかりですみませんが、直近のクラツーのお仕事についてお知らせします。

 「歴史への旅」の最新号、ありがたいことに1ページすべて占有させていただいています。



 最上段の北九州の2泊3日の旅は、2回設定させていただいていますが、ありがたいことに80名様ものお申し込みがあり定員オーヴァーとなってしまったため、3月にもう2回設定していただく予定です。

 ですので、2月に参加できなかった方はどうぞ3月でよろしくお願いいたします。

 その下の宗像ツアー、こちらは大島へ渡るツアーですが、こちらも催行が決定しております。

 つづいて、最下段左の群馬の古代史ツアーは今度の土曜日に行ってきます。

 多分、もう3名くらいは余裕があるはずなので、気になった方はお申し込みください。

 そしてその右が上述した日曜日に催行したツアーです。

 同じ内容で1月13日にもやります。

 こちらもまだ定員に達していないので、興味がありましたらよろしくお願いいたします。

 あと、東国を歩く会の「歩く日」についてはこのブログのひとつ前の記事に載せています。

 趣味の会でよければ、どうぞご参加ください。

 それではまた。

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【畿内古代史めぐり その2】古墳ポコポコ【大和編】

2017-11-23 22:20:03 | 歴史探訪
 昨日に引き続き、今日も楽しい古代史探訪をして、今は新幹線に乗って東京へ向かっていることろです。

 今日はもう車の運転もないので、京都駅で晩酌セットを購入し、一人で打ち上げをしながらこの記事を書いています。



 この純米大吟醸は伏見にある山本本家というところのお酒で、とてもバランスの良い美味しいお酒です。

 また、「てばさきいか」も甘辛い味がよく染みていて美味いですよ。

 そんなわけで、昨日の続きとして、今日の探訪について簡単にご報告します。

 なお、本日も写真はガラケー写真ですのでご了承ください。

*     *     *


 7時までぐっすりと眠り、睡眠不足が少し解消できた気がします。

 起床後はホテルの朝ご飯。

 今回宿泊した奈良県大和郡山市の「ホテル大御門(おおみかど)」は、朝ご飯が付いていないことになっているのですが、「簡単なもので恐縮ですが」というテイストで朝ご飯が付いていたのです。



 嬉しいですよねー。

 お米も美味しいので生卵と昆布の佃煮、それにふりかけで充分です。

 納豆がない!とか、そういう我儘を言うのをやめましょう。

 西日本の人は納豆を食べない人が多いと聞いたことがあるのですが、本当でしょうか?

 部屋に戻ると本日の行程の最終決定をします。

 昨日は最後に訪れた京都府木津川市で消化できなかったスポットがあるので、再度木津川へ向かってもいいかなとも思いましたが、木津川の未訪問スポットに関してはまた後日にします。

 今日はクラツーのツアーでご案内予定のスポットのうち、自分が未見のものを抑えることが優先です。

 そのため、まずは桜井市へ向かいます。

 大和郡山市から桜井市は車ならすぐですよ。

 初めに来たのは唐子・鍵遺跡です。

 唐子・鍵考古ミュージアムは以前訪れたことがあるのですが、そのときに遺跡自体には行っていませんでした。

 そのため、ガイドする前に見ておかなければなりません。

 現地に着くと、駐車場は見つかりませんでした。

 なので、邪魔にならない場所に車をそっと停めて探訪開始です。



 おや、何か大がかりな工事をしていますよ。

 おーっ、史跡整備!

 素晴らしいですね。

 来年の6月にはオープンするのかなあ?

 ここもそうですが、この辺りは溜池がたくさんあります。

 ちょうど、自転車に乗ったおじちゃんがやってきて、溜池のこちら岸と向こう岸に渡してあるロープをいじっていたので、「何をされているんですか?」と声をかけると、この溜池ではヘラブナを養殖していて、ロープにまとわりつく鵜を追い払っていると教えてくれました。

 他の池では金魚(観賞用の高級金魚?)も養殖しているとのことでしたよ。

 遺跡には地表面で観察できる遺構は残っていないのですが、櫓が立っています。



 これはもちろん想像上のものですが、考証はきちんとしているはずですよ。

 ところで、唐子・鍵考古ミュージアムは来年5月31日まで休館だそうですね。

 つづいて、大神神社へ行きます。



 大神神社へは以前参拝したことがあるのですが、そのときは日没の直前で、ほとんど境内の散策はできませんでした。

 今度お客さんを連れて境内を散策する際の順序や、解説することを考えるために、ちょっとプラプラしてみます。



 前回来なかった展望台。



 ここは素晴らしい・・・

 ここから盆地を見下ろして、歴史の解説ができますね。

 絶対ここに連れてこよう。

 つぎに向かったのはホケノ山古墳です。

 すぐ隣には箸墓古墳が。

 チョロッと寄ってみます。





 墳丘の周りの散策コースを歩こうと思いますが、今日は朝まで雨が降っていたこともあり、かなりぬかるんでいます。

 やめよう。

 ではホケノ山古墳へ。

 おや、この神社は何でしょう?

 国津神社。



 国府の「津」ではなく、国つ神の「国つ」でしょうか。

 歴史がありそうな雰囲気です。

 ところで、前回こちらにきたときは、箸墓古墳は見たのですがホケノ山古墳は見ませんでした。

 箸墓古墳の近くには駐車場がないのですが、ホケノ山古墳には駐車場がありますね。

 こっちに停めて散策すればいいんですね。 

 ホケノ山古墳の墳頂では、ボランティアガイドの方らしき人が数名の若い女性と子供たちに解説しています。

 時間があれば私も解説を聞いてみたいですが、今日は諦めよう。

 あ、ホケノ山古墳はガラケーで写真を撮るのを忘れた。

 まあいいか。

 さらに未見のスポットがあるので、桜井市を出て天理市へ向かいます。

 といっても、車ならすぐ。

 ツアーの関係上、天理市の黒塚古墳を見ておなかければなりません。

 まずは、古墳に隣接して立つ黒塚古墳展示館へ。



 ここの目玉は、黒塚古墳の竪穴式石室の復元が見られることです。

 これは素晴らしい。

 竪穴式石室の復元が見られる場所はあまり多くなく、私が見たことがあるのは、群馬県高崎市にある保渡田古墳群の八幡塚古墳のみです。

 こちらは床面と石積みの下段のほうが赤くなっていますが、木棺などの重要部分には高級な水銀朱が使われ、それ以外の部分には廉価なベンガラが使われていたそうです。

 黒塚古墳は盗掘に会いそうになったのですが、石室がほとんど土で埋もれていたため盗掘されず、そのため、なんと34面もの銅鏡が発見されたのです。

 1枚を除いてすべて三角縁神獣鏡で、そのレプリカを2階で見ることができますよ。

 係りの方にいろいろと教えていただいた後は、古墳を実見です。

 おー、いい前方後円墳ですねー。



 楽しー。



 今日は天気が良くて、絶好の古墳散歩日和なので、予定を変更してこの辺の古墳巡りをしますよ!

 前回この辺に来たときは、車を運転していて古墳を指し示す標識をたくさん見たのにもかかわらず、ほとんどを無視せざるを得ませんでした。

 何しろこの辺には古墳はうじゃうじゃあるので、一つずつ寄っていたら大変だからです。

 でも今日はせっかくなので、この近辺の柳本古墳群の代表的古墳を見てみますよ。

 まずは、第10代崇神天皇の墓とされている行燈(あんどん)山古墳(山邊道勾岡上陵<やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ>)です。



 墳丘長は242mもあるので、普通に山ですね。

 ちょうど紅葉の時期ということもあり、この時期の巨大古墳はなかなか素敵ですね。



 崇神天皇陵の西側(前方部側)には、アンド山古墳と南アンド山古墳があり、少し離れたところには県道によって削られてしまった大和天神山古墳が望見できます。

 この光景はまさに「古墳ポコポコ」。

 何が「まさに」なんでしょうか。

 崇神天皇陵の後円部(東側)には超珍しい墳丘デザインである双方中円墳(そうほうちゅうえんぷん)の櫛山古墳があるので行きますよ。

 前方後円墳の前方部とは反対側にも四角い造り出しがつけられたキャンディーみたいな形の古墳で、私は生まれて初めて見ます。

 このあたりには「山の辺の道」が通っており、たくさんの観光客が歩いています。

 先行したおっさん3人組が「この形は珍しいよね」と言って墳丘に登って行ったのですが、すぐに戻ってきました。

 真ん中の丸い部分にも登らずに帰ってきたようです。

 もったいない。

 というか、不甲斐ない。

 登り口から見ると普通の前方後円墳ですが、丸い部分に登って向こう側を望むと、もう一つの方形部分が眼下に広がっていました。

 うわー、やばい・・・

 小さな声で奇声を発しながら小躍りして喜びます。

 この古墳も155mあるので結構大きいですよ。

 いい古墳を見たなあ、という満足感に浸りながら、第12代景行天皇の墓と言われている渋谷向山古墳を目指します。

 だいたいほとんどの男性陣は景行さんより景子さんの方がいいと思いますが、私もそれは否定しないものの、今の気分は景子さんより景行さんです。

 で、景子さんって誰だ?

 あー、でも景行天皇陵は先ほどの崇神天皇陵よりもさらに大きい300mもあって、しかも引いて撮れる場所がないので全身が収まらないです。



 あなたたち、ホントに大きすぎるわよ。

 これ以上、山の辺の道を歩いていくと戻るのが大変なので、この辺で黒塚古墳展示館へ戻ります。

 同じ道を戻るのはつまらないので普通に県道を歩いていると、右手に上の山(うえのやま)古墳がありました。



 墳丘長144m。

 つづいて、「織田有楽斎墓所」と書かれたお寺の看板を見つけてしまいました。

 え、有楽斎!

 これは参拝しないと。

 本能寺の変で奇跡的に生き残った信長の弟ですよ!

 この人物は後世の人からいろいろと悪口を言われていますが、私はそういう評価は気にしません。

 途中、立派な神社がありました。

 伊邪那岐神社。

 そして肝心のお寺に着きましたが、有楽斎のお墓がどれか分かりません・・・

 標識も何もないのです。

 住職さんらしき方は、お堂にこもって読経しているので声も掛けられません。

 分からないままは気持ち悪いけど撤収しよう。

 住宅街をテクテク歩いて、黒塚古墳展示館の駐車場まで戻ってきました。

 もう13時か・・・

 お腹が空きましたが、昼飯を食べにどこかに寄るのは時間がもったいない。

 天理市内には天理大学付属の天理参考館という博物館があって、展示内容が素晴らしいと聞いたことがあるのですが、今日は割愛します。

 天理市内には他にも面白スポットが無数にあるのですが、今日は西山古墳を見て次に行こうと思います。

 西山古墳は最も大きな前方後方墳です。

 前方後方墳マニアとしては、憧れの古墳なのです。

 現地に来てみると、うわー、ホントにでかい。



 190mくらいあるので、太田天神山古墳の墳丘の木々を取っ払ったらこんな大きさでしょうか。

 足場がぬかるんでいますが、これは墳丘に登らないと気が済みません。

 足場が悪い中、墳頂へ達しました。

 結構高い。

 周囲の景色もいいですねえ。



 西山古墳が変わっているのは、3段築成のうち、最下段は前方後方形なんですが、その上には前方後円形が乗っかっているところです。

 これはかなり風変りですね。

 いやー、でも最大の前方後方墳の墳頂に立ててとても幸せです。

 つづいて奈良市へ向かいます。

 先日、あゆみねえさんから「カーラヂオのニュースで埼玉古墳群の丸墓山よりも大きな円墳が見つかったって聞いた」と、突如メールがありました。

 古墳マニアの私が情報戦で後れを取った!

 というわけで、その富雄丸山古墳を見てみようじゃないかということで現場に急行しました。

 ところが・・・

 この山が古墳であることは確かなのですが、周囲をグルッと一周しても標識一つありません。



 ちょっと残念・・・

 日本で1番とか2番とかそういうこともネタとしては大事ですが、東国にあの巨大な丸墓山が造られたという事実は相変わらず重いのです。

 まだ詳しくは知りませんが、この古墳の存在自体はもともと知られていました。

 ところが、実は大きさが違っていたということらしいです。

 こっちの古墳もこれから整備されるといいなあ。

 なんだかんだでもう15時を過ぎてしまいました。

 予定ではこの後、長岡京跡を見るべく、京都府向日市(むこうし)へ向かうはずでしたが、今日はもう時間的に無理でしょう。

 なので、近場にある平城京へ行ってみます。

 ただし、平城京跡もかなり広いので、今日は見れる分だけ見ようと思います。

 朱雀門に近接すると、ここも整備のため工事中でした。

 朱雀大路を再現するようですよ。

 これは楽しみだ。

 とりあえず、朱雀門の近くに車を止めてあたりを散策します。

 もうかなり陽が傾いていますよ。



 史跡の敷地を見渡すと相当広いです。

 何か基壇と柱跡が地表面表示されているの行ってみると、なんと式部省跡!

 えー、八省の跡もちゃんと見れるようになってるの!?

 すごいね。

 その隣には壬生門跡。

 こちらも基壇と礎石で大きさが実感できます。

 つづいて朱雀門を間近で見てみましょう。

 遠くから見ても近くから見てもでかいなあ。



 恐るべし律令国家。

 東戎の私はひたすら恐懼するだけです。

 近くには今度は兵部省がありました。

 いえーい、兵部省!

 すぐ近くには近鉄の線路があり、ひっきりなしに電車が走ります。

 そのため近鉄が気になってしかたがなく、電車が通るたびにそちらへカメラを向けて、大量の電車写真を撮ってしまいました。

 私は小さいころから鉄道が好きで、とくに小学生の頃が最盛期でNゲージも集めていたのですが、当時の私にとって近畿地方の私鉄は憧れでした。

 近鉄・阪急・阪神・京阪・南海・・・

 今回の旅もできれば一部分だけでも電車を使うことはできないか考えたのですが、やはりそれはできませんでした。

 でも落胆することはありません。

 なんと、本番のツアーでは名古屋から奈良まで近鉄特急に乗るのです!

 実は近鉄に乗るのが一番の楽しみだとか言うと、お客さんやクラツーの方に怒られそうなので黙っておきます。

 内緒にしていてくださいね。

 それにしても、ガラケーで走行中の電車を撮影するのは至難の業です。





 時刻はもう16時半を過ぎました。

 日没も近いことから、今日はこれで終わりにします。

 平城京にはまた来ればいいです。

 若いころの私でしたら、その日のうちにコンプリートしないと気が済まなかったのですが、今の私は時間をかけてゆっくり楽しむことを知っています。

 たまに、「人はいつ死ぬかわからないから楽しみはすぐに味わった方が良い」と言う人もいますが、それもごもっともながら、私はそもそも死ぬとか生きるとかそういう肉体的なことに拘泥しません。

 あ、また余計なことを言ってしまいました。

 レンタカーを返すべく京都へ戻りましょう。

 奈良から京都までは高速道路を走ればすぐです。

 無事、レンタカーを返却し、家族へのお土産を贖うと、もうお腹ペコペコ。

 京都駅のガード下に位置するモール内には食べ物屋さんがたくさんありますが、どれもあまり食べたくない。

 正直言って、こういう場所は値段が高い割には内容的にはとくに珍しいものではないものが多く、特別美味しいわけではないですよね。

 しかも凄く混んでるし。

 あ、貧民の負け惜しみはこの辺にして、京都に来てまで吉野家!





 昨晩のココイチに引き続き、安定の味。

 というわけで、異様に楽しい古代史探訪を終えて、京都発19時35分の新幹線に乗って武州へ帰るのでした。



古墳deコーフン!
まりこふん
ウルカ・ミュージックレコード


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