人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラ 作曲は、やむにやまれぬもの Jose Cura / As a Composer 

2016-06-07 | 指揮者・作曲家として


何度か、このブログの投稿で紹介しましたが、ホセ・クーラは、もともと作曲家、指揮者が志望でした。10代の頃から作曲を始めましたが、それは、全く自発的なもので、自分自身で音楽を楽しむためだったそうです。その後、教師について学び、大学でも指揮と作曲を専攻しています。

いろいろな事情や偶然のアクシデントから、声が認められ、テノールとして成功しましたが、その経過については、詳しくはこれまでのいくつかの投稿をお読みいただけるとうれしいです。

 「略歴 ~ 指揮・作曲、歌、さらに多面的な展開へ」   「ホセ・クーラ 音楽への道」

ピアノに向かい、ギターを抱えながら作曲中 青年時代のクーラ


長らく作曲からは遠ざかっていたようですが、ここ数年、急展開で、クーラの作曲作品が発表される機会が増えています。
とりわけ2015/16シーズンから、プラハ交響楽団と3年のレジデンシャル・アーティストの契約を結びましたが、そこには、毎年1つ、クーラ自身の作曲作品を初演する、という内容を含んでいます。本人も予想しなかった形で、作曲家としての仕事に光があたりつつあります。

インタビューから、クーラがなぜ作曲をするのか、その思いを語った部分を抜粋するとともに、近年、作曲作品の上演のきっかけとなったコンサートの様子などを紹介したいと思います。

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――2015年1月インタビューより
●カルロス・カストロに作曲を学ぶ
カルロス・カストロは私の最初の作曲の教師だった。私は15歳だった。カルロスは、「君は才能があり、すでに音楽の自然な方法を持っている。だから私の仕事は、君を音楽家にすることでなく、君の翼を燃焼させずに、その巨大な才能に対処する方法を教えることだ」と言った。

●自分の作曲スタイル
単に音を創り出すためだけでなく、演劇的に価値ある意味において、ドラマティックであること。成熟が私の芸術にもたらしたもののひとつは、自己耽溺を嫌うということだ。

●常にやむにやまれぬものとして
創造的な仕事ほど、人の内面と深く結びついたものはない。絵画、音楽、詩、小説、数学の定理‥どれも比類のない人間の知的成果の典型だ。
真のクリエーターは、商業的なものを除いて、常にやむにやまれぬ、強迫的なものとして、それを書く。商業的成功は、また別のステップだ。

現時点で新しい作曲の時間はない。しかしスターバト・マーテルの初演(2014年チェコで実現)は、私のなかの"眠っている獣"を目覚めさせた。私は今、以前の作曲作品を演奏するために、ゆっくりと準備をすすめている。



●主な作品
・平和のためのレクイエム(1984年)――フォークランド戦争の犠牲者を追悼したもの
・ピノキオ(1986年)
・Via Crucis según San Marcos (1986年)
・Magnificat=「我が心、主を崇め」 (1988年)――2015年4月イタリアのマッシモ・ベリーニ劇場で世界初演
・Ecce Homo=「この人を見よ」(1989年)――オラトリオ その一部であるスターバト・マーテルがチェコで2014年10月世界初演、全体はプラハ響で初演予定
・In Memoriam=追悼(1990年)
・マッチ売りの少女(1991年)――子ども向けオペラ
・ネルーダ「愛のソネット」92番(1995、2006)――プラハ響で2015年10月、オーケストラヴァージョン世界初演

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〈2014年10月 スターバト・マーテル世界初演〉

2014年10月30日、ホセ・クーラが26歳の時に作曲した、スターバト・マーテル(13世紀のカトリック教会の聖歌の1つ)が世界初演されました。
作曲家としてのクーラに光があたった、きっかけとなった出来事です。場所はチェコのチェスケー・ブジェヨヴィツェの教会、聖ニコライ大聖堂でした。
かつてクーラは、「作曲家ホセ・クーラを世界が必要としているわけではないことを知っている」と述べていましたが、友人で同郷の指揮者マリオ・ローズの提案で、作品の世界初演が実現したのだそうです。

このスターバト・マーテルは、オラトリオ「この人を見よ」を構成する1曲とのこと。作曲した当時、クーラはまだ母国アルゼンチン在住で、すでにシルヴィアさんと結婚して前年に長男のベンが誕生していました。クーラは、指揮や作曲を勉強しながら、生活のために、合唱団で歌ったり、スポーツクラブのインストラクターなど、複数の仕事をかけもちして働いていたようです。

この写真は、ちょうどその頃のようです。ゆりかごの中のベンをあやしながら、ピアノに向かって作曲しているようです。


クーラのフェイスブックに掲載されたコンサートの告知


――2014年10月インタビューより
●スターバト・マーテル作曲の思い
テキストは、十字架の下、愛する息子が死んだ母親についての物語。今でも、世界中で、紛争や、エボラ等の感染症、犯罪など、死んでしまった我が子を胸に抱く多くの母親たちがいる。私たちは、そういうすべての人々のために、この歌を歌う。

●歌、作曲、指揮など多面的な活動することについて
個性を開発しようとせず、非常に狭い範囲で物事を考えるのではなくて、他のものを試し、歌い、写真を撮ってみてほしい。
私は、愛すること、生きることは、他の人を助けるためにあると思う。人生は短すぎる。

初演時のニュース映像、インタビューと演奏の様子も少しある
JOSE CURA Stabat mater


Jihočeské divadlo - José Cura na premiéře své skladby v Českých Budějovicích



ポスター


――作曲についてのクーラ語録

●初めて15歳で指揮者デビュー、もともと作曲と指揮が専門だったが、27歳の時に歌手としてのキャリアを始めた。その時は、1999年まで、指揮台に復帰する計画はなかった。当時のアルゼンチンは、ちょうど軍事独裁政権の恐怖から回復し始めていて、若い民主主義の時代だった。その頃の困難な経済状況では、指揮者や作曲家としての仕事を見つけることはほぼ絶望的だった。作曲と指揮をわきに置いて、私は仕事をしなければならなかった。

●作曲と指揮は私のバックグラウンド。歌のキャリアはそれへのアプローチを豊かにした。数十年前夢見たフルタイムの指揮者としてキャリアを終わること以上に私にとって自然な事はない。

●作曲する者にとって、作品が初演される時というのは、常に偉大な瞬間だ。

●誰か他の作曲家の音楽を指揮する時には、大きな責任を持つ。作曲家自身が何を言いたかったのか、懸命に理解しようと試みなければならない。自分が作曲した音楽を指揮する場合には、この問題(解釈すること)は生じない。しかし別の問題がある。ここで小さな変更をしないようにすべきかどうか?ーーそれは無限のプロセスだ。そうするとマーラーのように働く必要がある。マーラーは彼の交響曲を指揮する時、多くの変更を行った。最終的に10バージョンになった。

●モーツァルト、プッチーニ、ベートーベンやシューベルトなどの作曲家も、生きていた時は、今日のポップスターのように扱われたことを忘れてはならない。今日では、彼らは不可侵であると考えられている。彼らは技術的な理由からオペラハウス用の音楽を書いた。当時はマイク、スクリーンなどは知らなかったからだ。彼らも今、生きていたら、野外コンサートに適した音楽を書くだろう。

        

会場となった美しい教会、ニコライ大聖堂





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