合気拳法 猿田会

新しく誕生した合気道の拳法
静岡県伊東市にて活動中

武道の恩師 高岡彌平義孝先生

2013-12-22 17:20:24 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第三節 武道の恩師 37ページ

高岡彌平義孝先生

高岡彌平先生は、嘉永五年十一月二十四日富山市四方町に出生、十四歳の時富山藩士黒田彌平正好先生に師事し、改心流剣術、民彌流居合術、四心多久間見日流和術、小栗流死活の諸流を学び、刻苦精励され、その非凡の才気と卓絶した手腕は師の信望厚く、師の奥秘は余すところなく皆伝された。

 正好先生が病を得て、将に冥されんとするとき、当時数千人の門人の中から只一人高岡先生を枕頭に招じて後事を託し、斯術を永く後世に伝えて湮滅させることないよう遺言された。

 正好先生没後、師命を守り、嗣子正郡先生を補佐し、よく献策して道場の維持発展に努め、さらに上新川、中新川、婦負の各郡に分教場を設置、出稽古に当る等斯道の普及発展に尽力された。

 明治十年富山藩主前田利同公来臨の際、先生は御前演武をされたところ、当時斯術の妙技が立派に維持されているのをいたく推賞され、黒田道場のために扁額を染筆され、「振武館」の号を賜る。

 大正十年、先生は同門の士と相計り、呉羽山上長慶寺の畔に、恩師黒田正好・正郡両先師の石碑を建設してその武技を顕彰された。

 正郡先生歿後、嫡子正義氏、故あって家業を棄てて北海道に転住された後、先生は大正十五年同門の士を糾合して振武会を組織し、推されてその会長となって斯術の維持振興を図り、先師の遺命を遂行された。

 さらに、昭和三年、富山藩伝来の武術の維持保存を策され、門人万象先生と共に、明治維新前後、富山藩下に道場を開かれた各流儀の諸先生あるいは門人等を、調査し、歴訪して相図り御大典を記念して、富山古流武術同志会を創立、同年十一月十八日、大日本武徳会富山支部において発会式を兼ねて、御大典奉祝古流武術演武大会を開催して富山藩伝来の古流武術として千古不磨の礎を固められた。

 また、昭和五年十一月、文部省に於て梨本宮殿下の御台臨を仰ぎ、明治神宮十周年記念武道形演武大会を挙行されるに当り、県から推薦されて、門人清水万象、清水為信氏と同行、東京日比谷市政公会堂において四心多久間見日流和術並びに改心流剣術の神技を演武された。この時先生七十九歳、出場された剣術、柔術家中最高年齢者にもかかわらず、その妙技は満堂を唖然たらしめ、富山藩伝来の武術の名声を天下に知らしめられ、明治神宮宮司一戸大将から感謝状を授与された。

 先生の多久間流和術は精妙を極め、青年時には高塀を飛び超え、菅笠を被ったまま宙返りをなしまた、人差指の一撃でよく大漢を倒す玄妙の術を使うと謳われていた。多久間流の受身は背部の主に腰のあたりで受身をするのであるが、先生は、天井の棧に掴まって床に身体を落下させて受身を鍛練され、鍛え抜かれた先生の腰の廻りには丸く筋肉がついて、受身をされるとゴムマリのように弾んだ謂われている。

 高岡先生は、晩年その技のすべてを万象先生に免許皆伝し、昭和八年十七日八十二歳にてその天寿を全うされた。

 なお、古流武術同志会は、昭和二年十月十六日高岡先生の喜寿を記念して、寿蔵碑を呉羽山上長慶寺の畔、黒田先生顕彰碑に並んで建立し、その遺徳と功績を顕彰されている。

武道の恩師 氷岳清水治之先生

2013-02-05 18:38:04 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第三節 武道の恩師 35ページ

氷岳清水治之先生

氷岳清水治之先生は、明治五年富山県士族清水傳治氏長男として富山市総曲輪四十九番地に出生。幼児から吉田傳彌茂尚先生に吉田流弓術を師事し、明治二十九年一月吉日免許皆傳を印可される。また若くして篆刻の芸術に憧がれて上京、篆刻の基礎として書・漢詩・水墨画等広く研究し独特の作風を会得し、篆刻を初め各芸とも一流をなした。さらに、茶道・盆石についても芸域を広め、いずれも師を超えたといわれる。

富山城大手通り柳並木に面した自宅を「柳下堂」と称し、篆刻を家業としていたが、所謂名人気質で気が向けば徹夜で仕上げることがあるかと思えば、何ヵ月かかっても満足いくまで彫り直し満足いく作品でなければ客に渡さなかったという。この名人芸を愛した夏目漱石は落款印を依頼し生涯愛用していたという。

水墨画では蘭・竹・蟹を得意とし指で蟹を画き、自ら作成した竹筆で竹を画く等独特の境地を拓き、その芸風を慕って集る人には心よく教授していた。

一方、平尾良実先生のあとを受け、大日本武徳会富山支部弓術主任教授に委嘱され、昭和十九年七十三歳で逝去されるまで富山県の弓術普及に人力された。氷岳先生は武徳会主催の弓術大会には、吉田家代々家宝として伝わる吉田大蔵銘の青貝飾りの弓と初角木(ハツツノキ)の矢二本をもって吉田流「矢渡の式」を行うのを常としていたが、世に「清水の青貝の吉田大蔵の弓」と称され評判であったという。

万象先生は幼時から父氷岳先生に吉田流弓術の手ほどきを受け生涯修行を続けられたが、自ら独自の境地を開拓し、弓術の奥義について氷岳先生と激論を交わしながらその境地を進められ、遂に氷岳先生ももう教えるところなしとして免許一切を渡し印可された。

氷岳先生は、性淡白、名利を求めず時勢におもねらず、飄々としてひとり雅境をいく生涯であったが、その精神が幼年時の万象先生に受け継がれ、古流武術の神髄探求に生涯を貫かれるバックボーンとなった。

万象先生の足跡 その9

2012-10-30 22:33:14 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 25ページ

(九) 大往生

空道館道場は、先に昭和三十二年富山市内水橋町に水橋支部の結成を認可、さらに昭和四十四年には金沢市に石川県支部の結成を認可されて万象先生が直接指導される大山道場の空道館本部を中心に益々益になっていった。

そしてこの頃から指導される内容も空手道を中心に、特に修行を積んだ幹部には古流の柔術・剣術・小太刀術・実手術・薙刀術、さらに万象流各種総合武術を加えて激しい修行が続けられた。万象先生御自身もさらに新しい境地を求めて、一日も休むことなく修行を続けられたことは言うまでもない。

晩年の先生は、高節を持し、安心立命の境地で道を修め、武に精進する、正に武聖とも言うべき風情であった。

先生は、自らの修行には、精神的にも肉体的にも極めて厳しく鍛え抜かれたが、職を持つ(或は学生である)門人に対しては、「先ず自分の職業(学業)と生活を大切にしなさいよ。」と、口癖のように言って、仕事(学業)のため稽古を休む門人に対しては寛容であった。そして、只管慕い寄ってくる門人には永い目で情熱を傾けられていた。

先生は、時々修行が終ったあと、幹部を自室に招じ入れ一献傾けられることがあったが、厳しい修行の時とはうって変って温顔に笑みを湛えながら酒をくみ交わし、昔の武芸者の真剣勝負について、あるいは武道の奥義について、さらには武道の真髄について語られ、われわれはその話に魅せられ時の経つのを忘れるのも屡(原文は旧字)であった。

また、先生唯一の余興は「皿廻し」である。その道具は平常使用されている全く種も仕掛けもない大皿であり、小皿であり、茶碗であり、さらには小さな盃であり、廻す棒は割り箸(又は細竹)を三本乃至四本継ぎ足した手製のものである。この道具で廻される「皿廻し」は、手先きの微妙な動きと割箸(細竹)の棒の撓(ツナ)りとの妙なる連係であり、正に熟練の鮮やかな技そのものであった。このような余興にも修練を積み重ねられる先生の態度には全く感動したものである。

昭和五十四年五月初め頃、それまで病気一つされなかった先生は脚の急性血栓症ということで市内の病院に入院された。院長も診断の結果、二・三週間もすれば直りますとのことであり、先生御自身も極めて元気な御様子で、見舞う門弟に対して「直ったらまた稽古しましょう。」と、とても楽しみにされていた。われわれ門弟一同も一日も早く全快退院されることを願っていたのであるが、五月二十日午前二時、突如脳出血のため、同病院において大往生された。

先生の恩師、高岡先生、船越先生の御長命であったことを思うにつけ、急性の血栓症さえなければ、未だ十年や二十年は長生きされたと思うと悔まれならない。

万象先生の生涯は、己の信ずるところに従って、時世に流されず、名利にとらわれず、ただ一筋に古流武術という日の当らぬ一隅を照らし続け、その真髄を求めて八十年の生涯を修行に終始し、多数の門弟を育成し、真の武道と武道探究のあり方をもって後世に示されたものと言えましょう。

万象先生は武道以外の分野においても永年文官として勤務され成果を挙げられたが、その功績に対して昭和十九年五月正七位勲六等瑞宝章が贈られ顕彰されている。

今、この追悼の記を編纂し、新しい空道館の歩みを御報告して、

 観空院釋厳淨居士の御霊よ安かれ

とお祈り申し上げ、万象清水敏之先生の略傳を終る。

万象先生の足跡 その8

2012-04-30 21:12:47 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 22ページ

(八) 武道三昧

昭和三十年九月、万象先生は後進に道を譲るため富山県警察技官を勇退され、それから宿願の道場再建にかかられた。翌三十一年六月富山市大町に戦後初めて空道館道場とその傍らに居宅を再建され、かねての念願通り武道三昧の毎日が始まるのである。

昭和三十一年九月協会月報で、日本空手協会が船越義珍先生を高齢の故をもって書類手続上一応協会から削除する旨を知った万象先生は、恩師が協会から削除された以上門人として道義上同会に席を置くことは許されないことであるとして、万象先生を初めとして空道館員全員脱会する旨の通知を発しきっぱり日本空手協会との縁を切られた。古来、武道においては「道義」を最も重んずる。御存命中にも拘らず空手道中興の祖であり、沖縄において一大勇気をもって秘密主義のヴェールを剥がすきっかけを作り、また、内地普及にその生涯をかけられている空手道最大の功労者をいかに御高齢とはいえ削除することは許すべかざる暴挙であるとして、万象先生は自ら名利を顧みず、師弟の道義を貫き進退を明らかにして門人達に身をもって教えられたのである。

万象先生は昭和十七年に夫人を亡くし、太平洋戦争を経て、戦後ともに警察逮捕術指導に協力してきた矩之氏を昭和二十九年海上自衛官として上京させたあとは孤独な生活すべて武道の研鑽と門弟達の育成に没頭されていたのであるが、空道館道場の再建に伴い、自らの修練にさらに磨きがかかった。特に若い頃から独自に開拓されていた手裏剣術も場所を得て、その飛翔距離も三間、四間、五間、五間半と次第に伸び、その精度の向上にも加速度が加わったようである。その練習量の大きさは道場の床板の夫々の距離の足の部分が真白く残っていることで証明されている。先生の手裏剣術は師につくことなく、幼児の遊びから発展して独自で開拓し一派をなされたものであるが、左右の手で、しかも上下から投擲する直打ち手裏剣術であって、正確に的を打ち、先に打った剣の後頭部に、後で打った剣が当り火花と鋭い音を発してはね返り附近の床板を傷つけることも暫々であった。

昭和三十二年四月二十六日恩師船越義珍先生が逝去された旨の報に接し、直ちに門弟二名を随行上京し、青山斉場で行なわれた葬儀に参列された。この頃から、万象先生が多年に亘り研究の結果、積み上げられ編み出されてきた新しい技を次々に発表され、門弟に指導され初めた。その内容は徒手・短刀・釵(サイ)・小太刀・大太刀・居合術・杖術・手裏剣術等武藝百般に及んでいる。昭和三十三年四月先生は学習院大学大講堂において行なわれた船越義珍先生一周忌追悼演武大会に出場され、自ら編み出された万象流抜刀術・同小太刀術を追悼演武されて恩師の御靈前にその精華を供げられた。

万象先生は生涯恩師船越義珍先生を深く敬愛されていたが、船越先生もまた万象先生を信愛することは一通りではなかった。昭和三十一年の空道館の落成式には老齢のため義珍先生に代って長男義英先生が代理出席されたのであるが、懇親会の席上、義珍先生と万象先生のことに及び、「父は今まで三度富山に招聘されたが、富山に行くときはいつも幼児のように楽しそうでした。」、「今回も、どうしても富山へ行くんだと主張して困りました。老齢のため身体の方がとても旅行に堪えられそうにもないので家族会議を開いて、医師の協力もあって漸く私が代理で来ることに決ったのです。父は清水先生を本当に信頼し切って、会いたくて会いたくてたまらないようです。」と述壊されていた。また、船越義珍先生が御危篤の状態のとき、門人の人達がお見舞いに見えて、義英先生が義珍先生の枕もとで「○○さんがお見舞い見えました。」とお伝えすると、「おお、清水さんが見えたか。」と答えるので、「いや違います。○○さんですよ。」というと、「富山の清水さんだろう。」と答え、何
んでも清水さんでしたと一周忌で上京された万象先生に話された由である。

船越義珍先生が内地に伝来された武術としての空手道は、戦後、形修行から自由組手重視、さらに試合中心のスポーツに変身していった。少年時代、古流柔術からスポーツに転身して発達した柔道に対し武術としてのもの足りなさを身をもって体験されている万象先生にとって、空手道転身の危機に直面された訳であるが、戦後の平和期に空手人口の過半数を占める大学空手道として発展させる一つの途であり、やむを得ない現象と判断され、自らは船越義珍先生が伝来された形修行にこそ本当の武術としての価値を認め、これを正しく継続され、門下生にも厳しく武術としての空手道に徹するよう戒められていたのである。その気持ちが、遺稿「空手術について」、「空手術の概略」並びに「空手は武道である」に表れている。この文章については船越義珍先生も認められているところであり、武術としての空手道の真価を知る人として生涯万象先生を信愛された所以でもあろうと推察されるのである。

昭和四十四年九月福井県体育館において全国古流武術大会が開催され、富山県教育委員会の推薦により万象先生に門弟三名が随行、富山藩伝来の多久間流柔術・改心流剣術・同小太刀術・同実手術を演武した。顧みれば昭和五年明治神宮鎮座十周年記念全国古流武術形大会において恩師高岡彌平先生とともに同趣旨の古流武術大会に演武された万象先生の心境はいかばかりであったろうと思われる。

また、昭和四十九年八月には、警察百年記念行事として富山県警察柔剣道大会が富山市体育館において開催されたが、県警察本部の要請により万象先生ほか六名の門弟が随行し、多久間流柔術ほか富山藩伝来の古流武術を模範演武したところ、戦後初めて見る古流武術の演武に観衆は拍手喝采し、しばし鳴りやまなかった。

万象先生の足跡 その7 続き2

2012-04-27 06:52:17 | 一隅を照らす
一隅を照らす 第二節 万象先生の足跡 20ページ

講習会も終わりに近づいある日、国警本部教養課長は受講者に対し、「警棒術・警杖術・逮捕術と研究の末作られてきましたが、最後にどうしても解決の出来なかった問題があります。それはこれらの格闘方法は一人対一人の場合のもので、現下の情勢下において警察官一人が暴動化群集にとり残された場合はその中から脱出する一人対多人数の格闘法の極め手といったものがどうしても出来ないのです。折角ここに全国から武術師範の方々がお集りになっているので御教示を賜りたい。」と質問が出された。万象先生にとっては平素の修行で身についていることなので、自分ならこれだという成案があった。しかし、全国警察界の錚々たる武道師範が居並んでいるところであり、どんな良策がでるであろうかと廻りを見渡したが、五十名近くの武道師範は粛として声なく、水を打ったように沈黙が続いた。教養課長は、「教養課としても困り果てています。平素御修行の秘伝をお教え下さい。」と重ねて要望された。一瞬声なしとみた万象先生は立ち上って、「私がそのような立場になりましたら
、このように警杖を使いたいと思います。」と、常々修練を積んでいた五輪書からヒントを得た「喝咄」(カツトツ)と山口流剣術の秘伝からヒントを得た「発相」(ハッソウ)の二種類の技を披露された。鍛練に鍛練を重ねられているその演武は、四尺五寸の杖が両腕の延長となって道場狭しとばかりに空中に舞い、うなりを発し、万象先生の悽絶な掛声とともにその気魄はまわりの、心胆を寒からしめ正に鬼神を思わせるばかりであった。演武中、しーんとして声もなかった道場は、演武の終わった途端、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。拍手の収まったところで万象先生は息の乱れもなくヒントになった出典の説明をされたが、教養課長は説明の終るのを待ち兼ねたように走り寄られ、「こんな技が欲しかったのです、有難うございます。有難うございます。是非これを文章にして下さい。」と懇願され、先生は直ちに手書きで書きのこされたのである。後に、この「喝咄」と「発相」の技は、万象先生の教えどおりに、手書きの書面もそのままテキストとして印刷さ
れ、警察大学校・管区警察学校・府県警察学校を通じて全国の警察官に普及されたことは言うまでもない。

同年大阪管区本部から要請があり、矩之氏とともに近畿三府県柔道大会において空手道演武が行なわれた。これが評判となり、引き続き大阪府警察本部、愛知県並びに富山県警察本部からも要請があり、父子で逮捕術の当身技の関連も含め空手道公開演武を実施して喝采を博している。

翌二十七年、恩師船越義珍先生を三たび富山県に招聘、富山県議会議場において、次いで石川県警察学校道場において、それぞれ富山県及び石川県の警察関係者に対し富山県支部空道館主催となって空手道公開並びに義珍先生の記念講演を開催された。白髪赫顔小兵の八十歳の船越義珍先生の瞿鑠たる「観空」の演武がとても大きくみえた。また、清水父子の形と組手の演武が満場を魅了し、若い門弟達の元気一杯の演武は船越老先生を喜ばした。

同年十二月矩之氏は富山県に出向、県警本部教養課術科係長として万象先生と共に父子コンビを組んで富山県警察官教養に当ることになる。逮捕術の清水父子は富山県の武道大会には多久間流柔術の要領で全国で初めて逮捕術の迫真の模範演武を行う等逮捕術の画期的指導を続け逮捕術の富山県の名を高らしめた。

昭和二十八年、船越義珍先生の空手道内地伝来三十周年記念演武大会が、日本空手協会主催で東京神田共立講堂において開催され、空道館からは万象先生と矩之氏の父子で出場された。