楽健法研究会 東光寺の楽健法セラピスト養成講座

楽健法セラピスト養成講座の記録・現在第12期(2012年)4月開講から来年3月まで毎月の記録です

第9回12月8日(1日目)その2

2013年01月10日 | 第12期楽健法セラピスト講座
12/8 18:55 タオの護身法について



 タオの護身法というのを楽健法を始める前にするように教えていますが、護身法は真言密教のお坊さんは勤行の前後、護摩を焚くときにも必ず修法します。指で印を結び、真言をお唱えしながら観想を抱きます。身口意といいますが、身口意はその印と真言と観想にあたるわけです。
この行為をすることによって、僧侶が仏の世界と結ばれて一体化していくという意味があって行われます。タオの護身法は真言宗の護身法よりは簡単で覚えやすいものですが、指さきで指の節目を指しながら干支を唱えることが、身口意の身口にあたります。これをしながら自分の心願を念ずることで身口意となり、自分のしようとしている心願が叶えられるようになるのです。
護身法をすることで見えない力がはたらくようになってきます。
身口意がひとつになって、思いが込められたときに、大きな力が反応してくれるんですね。
タオの護身法をやったときに、サーッと瞬間的に体が浄化されるように感じる人もいるし、護身法をしないと落ち着かないという病人の方もいらっしゃって、もう私は護身法が無かったら生きられません、なんてこの間言ってた人もいられます。

 護身法のような作法、儀式はカトリックでも真言宗と非常に似通ったような儀式、儀礼とか言うてね、英語ではritualリチュアルって言う風に言うんですけど、儀礼、リチュアルなことがいろいろ共通してあるんですね。

 数珠について
 私たちは修法で数珠を使う訳ですけれども、この数珠も最初の初心者のときはね、高価な数珠を使ってはならないとされているんですよね。スタートの時は質素にやらないといけないので、それで梅の木で作った数珠を使う。

高野山での四度加行のときには、儀礼の方法は非常に細かいことが決めてあって、それを体で覚えてしまうようにするのが高野山の四度加行なんですね。で、ペテロさんも高野山で行をされたんですけれども、常住坐臥、もうあらゆる行動するのに、ま、たとえば自分の居室から本堂まで歩いていく間もね、その間もちゃんと観想があって、今、歩々として蓮華の上を歩むというような観想を持つんですね。つまり、蓮の花が開いている上を、ずーっと本堂に向かって歩いていくというそういう観想を持ってやっていくんです。それで自分が清浄なんだ、それでこういろいろ印を結んでその時に五か所加持みたいなこと。それはキリスト教の胸の前で十字を切る、あれも同じような四所加持だけれども、本当は真ん中でクロスするから五所加持ですね。それで、こんなことしているわけですね。

 数珠も手で持つのに右・左が決まっておって、決して無造作に持ってるわけじゃなく、数珠には親玉と子玉があって、こちらが親玉で、こちらが子玉なんですね。親子。で、親子の印はこの数珠のここについてるこの小さな玉ですね。これがついてる方が親玉で、反対側の方にはこれはついてないわけです。だから、暗闇でパッと数珠もってもここパッと触るとこっちを右側に持つということが分かるわけです。それで、一ひねりしてま、こんなことして始めるわけですね。これは非常によく考えられた計算機で、これで数が何万と言う数、正確に読むことが出来るんです。これだけの簡単な装置で。これが、親玉から子玉の間が片面で54個玉が並んでて、その間にちいちゃな玉が入ってて、これは数えないんですね。54、54で108。で、大みそかにつく鐘の音も、煩悩の数108つくっていうね、そういう風に作られてます。それで、7つ目の所にちいちゃな印があってだいたい三回あるいは七回という風に真言を唱えたり、同じことを繰り返すのにやるもんですから、それでこれで僕らがガーンってやって、無造作にこうやってるときも、こっちの手の中で数を数えてるわけです。それで、7回目になったらゴーンと鳴らして次の真言に移るという風にやってるんです。

だけど、数珠を見ないでやるときは机の前に並べてるお経の本だとか、なんか置いてますから、それを端から一回目、二回目、三回目、四回…それでこう戻ったら七回と言うようなことを、数を頭の中でそんなことを計算しながら、まあ数珠を持ってないような時はね、だから本堂のどっかの知らない本堂の前に行ったときも、中に生けてある花とかを目印にして、1,2,3,4,5,6,7とか言って真言をみんなで唱える数を間違えないようにするとかね、ま、そんなことやってます。

これが、まそういうことを正確に数える計算機で、これをいってもどったら108回読んだことになる。100回…100回読むとここの小さな玉を一つあげるんですね。こっちの玉でもいいんですけどね。まあ、100回、200回…500回行くんですね。で、両方やったら千回になるんだけれども、それも上げて下げたら千回になりますから、それだけで千回できる。で、千回済むと一千回やったよとこっちの玉を一つ上げる、と言う風に目印していくんですね。

で、これで5000回できるし、それで10000回いけるし、ね。で、またこれを下げていくことによって数えていって、と言うようなことをしていくとね、まあ百万遍の真言を唱えるという弘法大師が室戸岬でやった虚空蔵求聞耳法という修行は百万遍の真言を唱えるんですね。それを数珠で全部数える。それで、まあ私はそんなにたくさん数えませんけど、それでも行の時は一日に数千回近くはマントラを唱えますね。五座あったとして、必ず一座ごとに千回真言唱えますからね、ま、5000回は最低必ず数えるわけです。そうすると、こんな柔らかい数珠なんですけども、こうやってアビラウンケン、アビラウンケン、アビラウンケン、アビラウンケン、アビラウンケンって言うのを5000回もやるのが十日も続くと、指のここが数珠でこすられて血が出てくる。数珠を使うのもけっこう厳しいものがあります。

 それから、こうやって五体投地して、正座の行が最初にあるんです。で、正座した時に、この正座する禮盤っていう木枠にベニヤ板を張った台があるんですが、それがもう長年の間、たくさんの人が何年も行に使ってますから、ライバンの下は木の枠で、真ん中に一本木があってそこにベニヤ板貼ってあるだけなんです。そこに薄っぺらい畳…ゴザを置いてあるだけなんですね。そうすると80キロもあるような人がどずんと座ったりなんかするもんだから、二か所がへこんどるわけ。そうするとちょうどこの真ん中のところにここの足が当たってですね、僕の足首のここに穴があいて、ここにも穴が開いて、二か所から、両足ともジュクジュクと体液が流れてくるんです。

かといって、治療のやりようがないので、諦めてそのまま座るしかないんですけどね、ま、そんなことで行と言うのもなかなか並大抵ではないということもあるんです。

ま、そういう行のなかの念誦です。繰り返し繰り返し真言を唱えるわけですね。東光寺の護摩の途中でも、数珠をつかって念誦を数えていくんです。両手を前に出して、こんな要するにパフォーマンスでやるわけですね。真言宗の。だから、ノウマクサンマーダバーサラダンセンダーマカロシャーダソワタヤウンタラタカンマン、ノウマクサンマーダー…ってこうやって数えていって、それで、21回数えるとやっと胸の前に持ってきて、それで1000回やるというようなことをやるんです。

ま、そんなふうにこの数珠を使う訳ですね。だけど、なかなか行と言うのは真言をできるだけ正確に、ていねいに、きちんと唱えた方が功徳が大きいという風に言われていますが、それで、まあ若いお寺の高等学校やら大学出たばっかりの若い子はね、そんなに我慢強くないのでめんどくさいんですね。それで、まあまじめにやってるひとの時間が過ぎたかな、と思う頃、適当にやっといて、それでみんなが終わったころ自分もやったような顔をしてまあ、帰って行ったりもするわけですね。それは若い男の子たちは加行が終わって家に帰ったら、新車を買うてもらえるとか言う約束があるというような話をとくとくとしながら、加行したりもしてるんですね。
まあ、罪のない話ですけれども、ま、そんな雰囲気のなかで加行するわけです。

だから、明日も護摩を焚くとき見といてもらったら分かると思いますが、座るとまず最初にこう道場の前からちゃんとできてるかどうかという確認のようなことをして、それから着物の裾をね、2つに折ってまたそれを2つに折って、四つに畳んでこっちへ置くと、その次にこう袈裟をこうきちっと位置を決めてというようなことがね、そういうのが順番も決まっててですね。そんなことをいつもやるわけですね。まあ、そういうことを一つの行を21日間1日3回もやるもんですから、まあ、六十何回も同じことをやって、それが終わるとまた次の六十何回、ちょっとレベルがアップしたような、四段階にわたってやっていくもんですから、もう少々怠けておったって、勝手にこう体が動くようになってくる、自然とね。で、だから、高野山のお坊さんの作法って言うのは、お茶の作法と非常に共通したようなところがあって、無駄があってはいけないんです。こちらにおいてあるもの、右手でこんなに取るというような無作法なことは絶対にしてはいけない。カッコよくさっととって、で数珠をしまうときにも、さっと3つにまいて、こっちのしっぽの方をパッと上にあげて、それで親玉をご本尊の方に向けてパッと置くとかね、ま、そういうようなこと、一つ一つ細かく決められてて、それで、行によったらね、伝授受けた人によっては例えば護摩をやってて、ある真言の途中でパッと後ろを向くというような作法があったりするんですね。なぜそんなことをするのかと言うたら、たまたま伝授をした師匠が何かの音がしてびっくりして見たのがそのまま伝わって、それが作法になってるなんて言うのもあるんですよね。だから、あの密教のお坊さんと言うのは例え師匠が間違ったことをしても教えられたとおり。弟子はちゃんとやっていくってい言うのが建前になっているので、そういう面白いことも伝わって行ったりするんですね。

だから、私が高野山を出て犬鳴山、七宝龍寺っていうお寺にいったんですけど、そこで、本当は行きたくなくて早く家に帰ってね、家内と一緒にパンを焼きたいと思っとったんですけれども(笑)その高野山で行をしようと思ったら、山内(さんない)、高野山の中の住職に保証人になってもらわないと高野山で行ができない。それで、巴陵院って言うお寺の住職に保証人になってもらって、つまり保証人になってもらうということはその人の弟子になたっと言うことを意味するんですね。それで、その師匠にあたる巴陵院の住職が、縁故のある犬鳴山七宝龍寺で護摩を焚く人がいなくて困ってるので、それで山内さん行ってくれんか、とこう言われたときに、それはできませんとは言えない立場にあるわけです。それで、まあ犬鳴山に行って護摩を焚くことにしたんですね。

 それでいまだにそこでやったことが護摩を焚くのが好きになる一つの理由でもあったんですよね。それ以来、まあ護摩を焚いています。犬鳴山の管長だったひとが、二回ほど護摩を焚くのを後ろで拝見しましたけれども、高野山で私たちが学んだのとは違うようなオーバーなジェスチャーがいくつもあってね、たとえばこんな、こういう印を結んでね、手首を交差して左に三回、右に三回って回す所作が護摩の進行途中にあるんですけど、そのときにね、その管長は大きく腕を交差してやるんです。あれ、不思議なことするなあと思って、なぜあんなことするんだ?と思ったらたくさんの信者さんが後ろで見てるでしょう?後ろの人に見えるようにするんですね、こうやって。それが信者に見せるためのパフォーマンスなんですね。

それで僕は犬鳴山に入った時に、もう護摩を焚いている先輩が一人おってそれがじきにやめるから、毎日そばについてみて覚えないとね、護摩なんて急に焚けるもんじゃないから、ついとれって管長は言うんだけれども、僕は当時、ある雑誌に連載を書いとったもんですから、僕はちょっと忙しくてそんな本堂に引っ付いてる暇がないから大丈夫ですちゃんと護摩はできますから、といって、ワープロで原稿を書いたりしとったんですね、そしたら向こうはそれが気に入らなくて、そんな生意気なこと言うて急に護摩ができるわけがないって言う訳です。

まあ僕がいざ護摩を焚くというときは、だから、お寺の人がみんな見に来てね。で、僕にすれば、私はまあ高野山で行をしたときにもね、だいたい初めての次第(行の進行次第を書いた教本)をもらって初めて行をするときは、ふつう慣れた人が1時間半で済むのが2時間半くらい余計かかるんです。つまり、読んで理解して、こうやって、こうやって、次にこれをしてってね、考えながらやっていくと時間がかかります。僕は次第を見たらパッと見て、パッとできる。手順良く、だから、僕は最初の行も、最後の行も時間が変わらないわけです。1時間半くらいの慣れた行者の人がやるのと同じくらい時間で出来るわけです。それは僕は要するに、台本を見ながら芝居しているようなものですから、何でもないことなんです。それはね、護摩を焚く所作なんか。さらさらさらさら行くわけです。だから、ぼくは初めから終いまで時間が一定してるんです。ところが、若い子なんかは最初2時間半、それが2時間10分になり、そのうちに1時間半になって、その内僕を追い越していくようになってね、だんだん慣れてくるとね。僕はだけど、終始時間が一定してるという、そういうやり方で行をしてきましたので、それで、犬鳴山でも護摩焚くの心配要りませんから、まあちゃんとやりますからって言ったら、そんなんできるはずがないって、管長から奥さんからみんなが見に来てね。その前ではじめて護摩を焚いたんです。僕は台本見ながら芝居しているようなもんだから、さらさらさらっとやって、それで、ここで力を入れなきゃいかん!というところはパフォーマンスですからね。力入れてバーッとやる。それから、お客さんを満足させないといけないので、祈祷の時にも大きく名前を読み上げて、オンバイセイ~~~~~ソワカ~~~!!!って護摩を焚くわけですよ。そしたら、名前を呼ばれた人は、はっ!拝んでくれた!と思うわけです。そうやって満足させたらいいわけです。

で、僕は最初にそれを完璧にやってみせたもんだから、「山内君は天才的に護摩が上手い」とか言われてね、高野山で21回くらい護摩を焚いたくらいでね、あんなに焚けるやつはおらんって言われたりしたんですけどね。まあ、何でもないことなんだけども、なかなかね、慣れるまで上手く、なかなかスムースにできない人の方が多いんですね。ま、それは楽健法も一緒で。はじめてでも天才的に上手に踏む人がひょっとしたらおるかもしれないけれども、普通は慣れてくるとだんだんスムースにできるようになっていくわけで、まあお坊さんの行もそうなんですね。
だから、私はそういう芝居をしたり、本を書いたり、いろんなことをしたりして、頭が割と回のが速い方ですから、あんまりそういうことはもたつかないでできるので、まあ、皆さんに大変喜ばれてね、犬鳴山におる間はそういうことを経験したりしたわけですね。あそこで半年近く護摩をたいたおかげで笛を吹けるようにもなったわけです。

で、笛を吹けるようになったのは、犬鳴山から週に一回休みをもらって山の中から車で降りてくるときに、三本ほど生えた竹があってその竹を見るたびに、あれは笛になりそうだとこう思ったのがきっかけなんですね。で、ある日、車を止めてのこぎりもって切ってきて、それで、その竹をどうしようかと思ってインドから1本買ってきた笛があったもんですから、よう吹かんのですよね。だけど、その笛を物差しで穴の位置を測ってみたら、ある法則性を見つけたんですよ。

それで、その法則性、ああ笛と言うのはこういう法則性で穴があけられているんだということに気が付いたもんだからそれに感動して、任意の長さにその切ってきた竹を切って、その法則に従って吹き口、それから切り口との間、吹き口のちょうどど真ん中に一つ穴開けて、その前の方のど真ん中にもう一つ穴をあけて、その間の2つを三等分して、その同じ幅で前と上に一つずつ持っていって、6つ穴開けたらね、いいんだということが分かったもんだから、そういう風に作ってみたんです。そうしたら、それがドレミファソラシドって鳴ったわけですね。

面白い!と思って、それから笛を作るようになったんですね。だから、何かそういう面白い発見をするとね、ぱっと思いついて出来るようになる。だから、まあ割と何かをするときに、応用が利くって言うのがね、子供の時からそういう、さしものの仕事をしてきたりしましたから、何か問題がどっかで、何かの問題が起きたときにそれをパッとこう見て、手近にあるものでパッとこう補修するとかね、言うようなことが割と思いつく方なんですね。だから、まあそんなことで、色んなことを経験して、まあ雑学の塊みたいなところもあるんですけど、ま、ああのそういうことをやってる人間だからこそ、まあこうやって楽健法もやれた、天然酵母パンもやれたり、って言う風なことが出来て来たんだともうんですね。まあ、残りの人生がどれくらいあるのかわかりませんけれども、まあ、今年は残り少ないですが、人生の残りはまだちょっとあるだろうと思いますので、ますます皆さんと一緒に頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

あの、忘年会はここの、ワインを開けて忘年会っていう訳にはいかないんですけど、東京の忘年会は少しくらいワインが西澤さんがおごってくれるので(笑)あの二人は飲まないので、話にならんのですけど、もうちょっとワイン飲める人もね、あ、恭子ちゃんが飲めるんだ。まああのワイン…30人おりますから、ワイン2本くらいは空にできるかもしれないね。それで、西澤さんのピアノが、グランドピアノがありますので、聞かせていただけるだろうと思います。よろしくお願いします。

東京の忘年会は面白そうだから行きたいと思っても、もう締め切ったそうですので、悪しからずご了承くださいませ。じゃ今から護身法やりましょう、はい。





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