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最近は心がけて流行りモノを読んでいるので、これも読んでみた。
悪くない。
少なくとも金の無駄、時間の無駄だったとは思わない。
ま、仮に彼が2作目を書いたとして、読みたいとは思わせるほどではないけど。
器用なのは間違いないが、作劇にしても描写にしても突き抜けるオリジナリティに欠ける。
設定がベタだし、描かれる世界観も想像の範囲内に小さく縮こまっている。
1篇目のホームレスの話、2編目のアイドルオタクの話あたりは、ベタさが丸出しでいただけない。
3篇目から好転し、4編目の多重債務者のギャンブラーの話は、テンポで笑わせられるし哀切さも醸し出し、なかなか良い。
5編目は物語としてはともかく、巧妙なワザ(ネタバレになるので詳しくは書かないが)が駆使されていて、そのことに感心した。
5編の短編は、それぞれ登場人物が微妙に交錯し重なり合う。
群像劇においては使い古された手法で特段目新しさはないが、このあたりにも器用さが伺える。
(上記した「巧妙なワザ」とはこのことを指しているわけではない。)
ネット上でも絶賛されまくっているようだが、「読みやすい!」という感想が目に付く。
著者本人も「難しい漢字を使わず、とにかく読みやすく書くことを心がけた」というようなことを話しているのを見た。
ここ数年、小説にしても映画にしても、「泣ける!」という評価があたかも褒め言葉であるかのように世間で当たり前のように使われていることに違和感を抱いてきたが、この本の成功を受けて、これからは「読みやすい!」という尺度が評価軸になってしまうかもしれない。
そう思うとやや暗澹たる気持ちになる(別に難解だからエライなどと言うつもりはないけど)。
二年ほど前から物を書いています。まさか自分が物を書くことになろうとは・・・という感じですが、あることをきっかけにして自分の書きたい事を書きたいままに書いていました。
友達がそれを読んでくれて、折角だから公募に出してみたらと勧めてくれて、何作かが賞をとりました。(まだ大賞にはなっていませんが)
ある出版社が共同出版の話を持ってきました。
編集者が付いて売れる本にしますと言うのです。
売れる本にするというのがひっかかりました。
自分の書きたい事を書いていたのに売れるために直さねばならない箇所を指摘する編集長をつけましょうと言うのです。
先日、朝日新聞の文芸欄に文学賞の行方と言う面白いコメントがありました。
文学賞を狙うには選者を調べて選者の作風を真似るのだそうです。
それが筆者は文学の疲弊・衰退に繋がると心配していました。
「泣ける」「読みやすい」
市場をリサーチして、それにマッチした作品を書いていかねばならないのでしょうかね。
ま、素人の私が何を言うかでしょうが、自分の書きたい事を書いているレベルで終わらしていたほうが楽な気がします。
これって、音楽なんかもそうなんでしょうね。
好きなものをやることとそれで食っていかねばならないこと。
三輪の人生正負がつりあうという理論。
好きなこと(正)をするには食えない(負)
食うため(正)にはやりたくない(負)をしなければならない・・・。
そういうものでしょうかね。
もちろん、ハリウッドのビッグバジェット映画をみても明らかな通り、金をかけたからといって必ずしも良いものができるわけではありませんが、産業全体が成り立っていくためにマーケットを意識した作品づくりが為されることも必要悪だと理解はできます。
それに対して、文章を書くこと自体にはほとんどコストはかかりません。
もちろん、製本して印刷して流通させて・・・となれば話は別ですし、職業として文章を書くのであれば生活費を稼がねばならなくなりますが、映像作品などと違って制作自体にかかるコストは相対的にかなり低いはずだと思います。
ましてやウェブ革命の時代です。
文字コンテンツの流通コストは飛躍的に低減し、かなり低いコストで多くの人に読まれる文章を世に出すこともどんどん可能になっています。
(今、平行して話題の「ウェブ進化論」も読んでいます。このあたりについてはこの本に詳しく書かれています。)
このような状況下で、マーケットの顔色を伺うあまり、肝心のコンテンツの質低下を招くような真似をすることって、出版産業としてどうなのかな、という気がします。