今日は、お気に入りの「haru」さんのブログ「セレヤの山の下で」を読んでいまして、
コメントを書き込んでいましたら、ふと思い出した事がありましたので忘れないうちに残しておきます。
「haru」さんのテーマは、「菜食主義の疑問」でした。
植物だって動物と同じ生命があるのに、無意識に優劣をつけているのでは?というような内容です。
ひとは他の生命を犠牲にして食べていかなければ生きていけません。
それは、ある意味避けては通れないのです。
そのことを身をもって実感したことがあるのです。
あれは、私が小学校の1,2年の頃だと記憶しています。
親戚の叔父が私たちを近くの漁港町へ連れて行ってくれた時の事です。
その漁港町は当然ながら、新鮮な魚介類があり、それを目当てに食事に来る人が大勢いました。
私達も一軒の食事宿へ入りました。
入り口を過ぎると、そこには大きな生け簀(いけす)や水槽があり、
数多くの魚介類が生きたまま泳いだりしています。
小さな水族館状態みたいで、私はワクワクしながら見入っていました。
すると叔父が私に「どれが一番好きだ?」と聞くのです。
その時は、その質問の意味がよくわかっていないのでした。
私は、一番大きくて元気のある魚を指さしました。
私の記憶では70cmぐらいの「はまち」です。
叔父は、すると店員に「あれ、頼むわ!」と言うのです。
私は、何言ってるの???何のこと???疑問だらけ・・・
ウチ、そんな大きな池も水槽も無いって!!!無理だって!!!
そんなことを漠然と思っていました。
すると、店員は大きな網をもってきて、私が指定した魚をすくい上げ、
床に放り投げるのです。
何やってるのこの人達???
次の瞬間、野球のバットぐらいのこん棒で魚の頭を思いっきり殴るのです。
そこから、記憶がありません。
当然、活き造りとして出されたのは間違いありません。
私が食べたのか?わかりません。
ただ、あの時自分が指をささなかったら、あの魚は・・・。
そんな自責の念だけが残りました。
しばらくは、魚の刺身は食べれませんでした。
でも私達は普段、スーパーなどで調理、加工されたものしか見ていませんので
意識せずに平然と食べていられますが、生前の姿を想像したら、食べれないのが普通なのです。
魚も牛も豚も鳥も、その他の生き物たちも・・・・。
それを理解して感謝の意を持って食べたいものです。
飽食の時代には難しいことですが・・・・。