◇戦場証言、今なお苦悩◇
太平洋戦争で捕虜虐待や住民虐待などをしたとされる「BC級戦犯」のうち、フィリピンの戦争裁判で有罪判決を受け、マニラ郊外のモンテンルパの刑務所に収容された元戦犯を訪ね歩いた。5月末から約2カ月半、社会面の連載「モンテンルパのうた 兵士が遺(のこ)す言葉」(7月28日~8月4日、8回)の取材班に加わったからだ。元戦犯の多くは他界し、生存者は90歳近い。戦場体験について口を閉ざしたり、今も語ることをためらう人も多かった。貴重な証人から、当時の記憶を聞き出す時間はあまり残されていない、と痛感した。
7月、埼玉県に住む元BC級戦犯の男性(88)を訪ねた。住民虐殺に関与したとして絞首刑を宣告され、モンテンルパの刑務所に収容された。現在は妻と娘と静かに暮らす。
男性は今年初め、文学の同人誌に短歌を発表した。刑務所に収容された時期に詠んだ数百首から約30首を選んで投稿した。その説明書きで、自らがBC級戦犯だったことを初めて告白した。90歳を前にしてどんな心境だったのか、会って聞きたいと思った。
男性は家庭が貧しかったため、教員になる夢を断念し、陸軍士官学校へ入学。満州(現中国東北部)からフィリピンへ転戦し、大隊長として約1000人の部下を率いた。1945年2月、ある集落で非武装の住民数百人の殺害を部下に命じたとして起訴され、裁判では「事件のあったとされる時は、赤痢にかかっていた」と無罪を主張したが、聞き入れられなかった。今も「自分は一切かかわっていない」と語る。
刑務所では死刑囚仲間が次々と死刑を執行された。「次は自分か」と死の恐怖に向き合う日々。遺書代わりに短歌を詠み、日本の文芸雑誌に短歌を投稿し続けた。フィリピン大統領の特赦により、53年7月に帰国後、結婚し、高校の国語の教員として過ごした。
戦犯だった過去を口にするのは、戦友会や陸軍学校の同窓会くらいだった。教員生活で生徒に打ち明けたこともない。「戦犯だったことは恥ずかしいこと。戦争体験をしたというのは日本人ではあまりいいことではない。『なぜお前は生きて帰ったんだ』といわれるのが関の山ですから」。理由をそう話した。終戦直後、戦犯への世間の風当たりは冷たかった。
それが今、なぜ告白したのですか。そう問うと、「あの時、死と向き合っていた心境を知ってもらいたくてね」と話した。入退院を繰り返すようになり、「人生も終わりに近づいた」のも理由という。
男性はこんな体験も話してくれた。フィリピンでは戦況が悪化し、部下と山にたてこもった。「転進せよ」との上官の命令を、大隊長だった男性は断った。米軍の猛攻の前に、無駄な死者を出さないためだった。しかし、部下の傷病兵が拳銃自殺してしまった。「転進」の言葉が部隊中を巡り、足手まといになると考えた末の自殺だったという。
男性は「もっとしっかり指示を伝えていれば死なずにすんだ。申し訳ないことをした」と今も悔やむ。帰国後、自殺した兵士の遺族に謝罪の手紙を出したが、返事はなかった。会いに行く決断もつかないまま、心の傷を引きずっていた。
岡山県に住む別の元戦犯の男性(88)も「多くの部下を失ったのに、ワシはなかなか死ねんのだよ。なんで生き残ってしまったんだろうなあ」と話した。長生きすればするほど、若くして亡くなった仲間への罪悪感が募っているように見えた。さらに別の元戦犯の男性は「戦争の記憶は墓場まで持って行く」と断言し、口を閉ざした。
いくら年月を経ても語る決断がつくとは限らない。語る気になったとしても、体験を公にするには、周囲の協力が求められる。
埼玉の男性の家族は、取材の趣旨を知らせる記者の手紙に、一度は断ってきた。電話口で男性の妻は「体調が良くないし、今さら過去のことをつつかれても」と気乗りしない口調だった。「話を聞くだけでも」と頼み込み、何とかこぎつけたが「元戦犯と分かればインターネットで中傷されるかもしれないし、いいことは何もない」と実名で記事にすることは断られた。
しかし、戦争の悲劇の一つ一つを伝えることは、歴史の教訓に学ぶという点で大きな意味がある。
04年に設立された市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京都渋谷区)は、元兵士らの証言を録画してデータベース化する作業を進めている。これまで約2000人の証言を収録した。高齢になった元兵士が「もう時間がない。孫たちの世代に語り継ぎたい」と申し出るケースも増えているという。一方で、家族の前で語るのを嫌がったり、戦場場面の話になると、カメラを止めるよう求める人もいる。同会の田所智子理事は「聞き手が戦争について無知だと、語る気になってもやめてしまうケースもある。聞き手の勉強も重要だ」と指摘する。
子どもたちに戦争の実相を伝えるのは、戦争を知らない私の世代の役目になりつつある。戦場経験者の声を一人でも多く聞き、悲劇を見つめ続けたい。
毎日新聞 2008年10月1日 大阪朝刊
太平洋戦争で捕虜虐待や住民虐待などをしたとされる「BC級戦犯」のうち、フィリピンの戦争裁判で有罪判決を受け、マニラ郊外のモンテンルパの刑務所に収容された元戦犯を訪ね歩いた。5月末から約2カ月半、社会面の連載「モンテンルパのうた 兵士が遺(のこ)す言葉」(7月28日~8月4日、8回)の取材班に加わったからだ。元戦犯の多くは他界し、生存者は90歳近い。戦場体験について口を閉ざしたり、今も語ることをためらう人も多かった。貴重な証人から、当時の記憶を聞き出す時間はあまり残されていない、と痛感した。
7月、埼玉県に住む元BC級戦犯の男性(88)を訪ねた。住民虐殺に関与したとして絞首刑を宣告され、モンテンルパの刑務所に収容された。現在は妻と娘と静かに暮らす。
男性は今年初め、文学の同人誌に短歌を発表した。刑務所に収容された時期に詠んだ数百首から約30首を選んで投稿した。その説明書きで、自らがBC級戦犯だったことを初めて告白した。90歳を前にしてどんな心境だったのか、会って聞きたいと思った。
男性は家庭が貧しかったため、教員になる夢を断念し、陸軍士官学校へ入学。満州(現中国東北部)からフィリピンへ転戦し、大隊長として約1000人の部下を率いた。1945年2月、ある集落で非武装の住民数百人の殺害を部下に命じたとして起訴され、裁判では「事件のあったとされる時は、赤痢にかかっていた」と無罪を主張したが、聞き入れられなかった。今も「自分は一切かかわっていない」と語る。
刑務所では死刑囚仲間が次々と死刑を執行された。「次は自分か」と死の恐怖に向き合う日々。遺書代わりに短歌を詠み、日本の文芸雑誌に短歌を投稿し続けた。フィリピン大統領の特赦により、53年7月に帰国後、結婚し、高校の国語の教員として過ごした。
戦犯だった過去を口にするのは、戦友会や陸軍学校の同窓会くらいだった。教員生活で生徒に打ち明けたこともない。「戦犯だったことは恥ずかしいこと。戦争体験をしたというのは日本人ではあまりいいことではない。『なぜお前は生きて帰ったんだ』といわれるのが関の山ですから」。理由をそう話した。終戦直後、戦犯への世間の風当たりは冷たかった。
それが今、なぜ告白したのですか。そう問うと、「あの時、死と向き合っていた心境を知ってもらいたくてね」と話した。入退院を繰り返すようになり、「人生も終わりに近づいた」のも理由という。
男性はこんな体験も話してくれた。フィリピンでは戦況が悪化し、部下と山にたてこもった。「転進せよ」との上官の命令を、大隊長だった男性は断った。米軍の猛攻の前に、無駄な死者を出さないためだった。しかし、部下の傷病兵が拳銃自殺してしまった。「転進」の言葉が部隊中を巡り、足手まといになると考えた末の自殺だったという。
男性は「もっとしっかり指示を伝えていれば死なずにすんだ。申し訳ないことをした」と今も悔やむ。帰国後、自殺した兵士の遺族に謝罪の手紙を出したが、返事はなかった。会いに行く決断もつかないまま、心の傷を引きずっていた。
岡山県に住む別の元戦犯の男性(88)も「多くの部下を失ったのに、ワシはなかなか死ねんのだよ。なんで生き残ってしまったんだろうなあ」と話した。長生きすればするほど、若くして亡くなった仲間への罪悪感が募っているように見えた。さらに別の元戦犯の男性は「戦争の記憶は墓場まで持って行く」と断言し、口を閉ざした。
いくら年月を経ても語る決断がつくとは限らない。語る気になったとしても、体験を公にするには、周囲の協力が求められる。
埼玉の男性の家族は、取材の趣旨を知らせる記者の手紙に、一度は断ってきた。電話口で男性の妻は「体調が良くないし、今さら過去のことをつつかれても」と気乗りしない口調だった。「話を聞くだけでも」と頼み込み、何とかこぎつけたが「元戦犯と分かればインターネットで中傷されるかもしれないし、いいことは何もない」と実名で記事にすることは断られた。
しかし、戦争の悲劇の一つ一つを伝えることは、歴史の教訓に学ぶという点で大きな意味がある。
04年に設立された市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京都渋谷区)は、元兵士らの証言を録画してデータベース化する作業を進めている。これまで約2000人の証言を収録した。高齢になった元兵士が「もう時間がない。孫たちの世代に語り継ぎたい」と申し出るケースも増えているという。一方で、家族の前で語るのを嫌がったり、戦場場面の話になると、カメラを止めるよう求める人もいる。同会の田所智子理事は「聞き手が戦争について無知だと、語る気になってもやめてしまうケースもある。聞き手の勉強も重要だ」と指摘する。
子どもたちに戦争の実相を伝えるのは、戦争を知らない私の世代の役目になりつつある。戦場経験者の声を一人でも多く聞き、悲劇を見つめ続けたい。
毎日新聞 2008年10月1日 大阪朝刊
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