もうひとつの視点

ー「いつの時代も真理は少数から始まった」ー

国山ハセン氏が局アナをやめた理由

2024年03月30日 | 日常

 元TBSアナウンサーの国山ハセン氏が、「会社にいた頃は、やる気のない優秀な先輩もいましたけど。そういう人たちと仕事がするのがイヤで退社しましたから」と、退社理由を告白した。私の彼に対する印象は、「大学生のような元気な人」だろうか。

 私は、やる気があろうとなかろうと、結果がすべてだと思っている。例えば、やる気(落ち着きがなく、軽く、自己主張が強い感じ?)がなくても、アナウンサーとして平凡なつまらない人ではなく、偏った自分の意見などを主張せずに公平公正で、朗らかさや優しさなどが伝わるような人であれば、それで良い。ハンセン氏は、どれか当てはまるだろうか。

 そもそも「やる気」があるなしに客観性はなく、自分の張り切り度を基準に他人を評価しているに過ぎない。「やる気」や「一生懸命頑張ってきた(悪いことをした政治家がよく使って自己弁護する)」といったたぐいの話は、能力の無い人がそれを隠すために使う言葉だと私は思っている。

 このことは教員の世界にも当てはまる。体育系の張り切り教員は、周囲から「できる人だ」との評価を受けやすく、学校全体がその教員の誤った方針に引っ張られてしまうこともよくある(「豚のPちゃんと32人の小学生」などがよい例。これは、小学校で豚に名前を付けて可愛がって育て、最後は子供たちの目の前で、食肉センターに送るという児童虐待の話で、この教師や校長はいまだ罰せられていない)。主幹教諭や指導主事、教頭などに早く取り立てられる傾向もある。しかし若い張り切り教員は多種多様で豊富な経験がなく、部下の一般教員に間違った指導をしたりやお局教員の手下となることが多い。その犠牲で病気になった教員も結構いる。そして、能力のない教員たちが残り、ベテランの素晴らしい教員たちが辞職していく。皮肉なことである。

 外見的な「やる気」によってだまされる人は結構いる。それはどうでもよいが、そのような人と実際一緒に働く能力のある人々は、本当に迷惑なのである。

 

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