もうひとつの視点

ー「いつの時代も真理は少数から始まった」ー

広島原爆の日と東京裁判

2017年08月06日 | 日常

 NHKで東京裁判のドラマが放映されていた。結論ありきの裁判は茶番に過ぎない。それぞれの判事は、それぞれの国を代表して参加し、自国の利益や立場を主張し続けた。東京裁判はまともな裁判ではなく、まさに外交、政治の場であった。判事たちは、本国の指示を無視して法律家としての意見を言えない立場にあった。有罪になった軍の人々も、また同じであろう。判事たちは、天皇に対してや閣議で戦争反対を言えばよかっただろうというが、言えない状況も多々ある。それをもって、賛成したからあなたは悪いとは言えない。

 一つの事実に対し、客観的、普遍的な「良い、悪い」の結論を下すことはできない。道徳も法も常識も、時と場所によって異なるからだ。さらに、見る視点や立場が異なると、収拾がつかなくなる。人は、自分の意見にあった事実や筋だけを選択しながら、それを大きな声で何度も繰り返しながら正当性の根拠とする。事実も筋も、いくつもあるのである。できることと言えば、(例えば国際法、欧米の習慣など)あることに照らして、「合致している、合致していない」という判断だけだ。しかし、それでさえ条文が抽象的であれば、個々の筋や解釈、感情などが入る余地が出てしまう。

 72年前の今朝、広島の中心地に核爆弾が落とされた。何の罪もない多くの人々が亡くなった。広島市民も声を上げて軍部や天皇に戦争反対を言わなかったから彼らも悪く、核爆弾を落とされ殺されても仕方がなかったとは、まさかアメリカ人も言わないだろう。広島・長崎への原爆投下、東京大空襲など、アメリカによる「一般市民を標的とした大量殺人」の罪は、「無罪」となった。戦争を終わらせるためには原子爆弾投下は仕方がなかった、という筋をアメリカは選択した。しかし、どのような筋、理由をつけようと、多くの一般市民を殺し、放射能による長年の苦しみを一般市民に与えた事実は変えられない。この2つの事実は、理由によっては正当化できることなのであろうか。

 最後の最後の判断は、すべてを超えた「人としての良心や思いやり」に依るしかないのではなかろうか。外交は武器を持たない戦争ともいわれる。自国の利益を求めて口論しあい、殺しあう(戦争する)。それは、賢い人間の取る道ではないはずだ。そうならないためには、非常に陳腐な言い方だが、人類すべてが思いやりを持ち、良心に従って行動するという大原則に向かって、「努力する」ことが求められるのだろう。


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