今日(7月22日)は土用の丑の日。うなぎを食べて暑さを乗り切るぞ~!!とう方も多いことと思います。しかしながら、うなぎの値が高騰しているそうで、お財布に厳しい今年の夏です。
さて、月例木曜会が先週7月18日に行われました。こちらも、うなぎの高騰に負けず、“内容が高度化している”と編者が申しております。どうぞ、ご一読くださいませ。
[印刷]の今とこれからを考える
(2013年7月18日 印刷図書館クラブ 月例木曜会)
●国字の金属活字鋳造をめぐり拭えない「?」
日本で初めて金属活字によって活版印刷がおこなわれたのは、コンスタンチノ・ドラードらによる『サントスの御作業の内抜書』(1591年)だとされている。これは、ドラードらがポルトガルのリスボンから持参した印刷機と欧文活字を使って布教目的でつくられたものだが、同じ年もしくは翌年に印刷された『どちりな・きりしたん』には何と国字が使用されている。国字の鋳造は誰がおこなったのだろうか? ドラードらはリスボンでの研修で、果たして漢字・ひらがなの活字をごく短期間で鋳造する技術を習得することができたのであろうか? 検証されないまま「造ったのはドラードだ」という説がとられている。非常に疑問が残るところである。
●16世紀末に日本人が国字を鋳造していた?
書誌学の権威からは、10人の日本人神弟が日本活字の鋳造に当たったという考え方も発表されている。当時、木活字を製作する専門家はいたが、神に仕えるキリスト関係者だとすれば別人の可能性が高い。印刷機も技術をもった宣教師たちもマカオに戻り、日本での金属活字はいったん姿を消したことになっている。キリシタン版を印刷した当時の金属活字は一本も残っていないが、古活字のなかにキリシタン版の影響を受けたものが少なからずある。イエズス会から母国に送った報告書のなかには、「日本人はイタリック体をつくった」という下りもある。手先が器用だから、国字をつくれたとしても不思議ではない。
●「文明論」と「風土記」で印刷の歴史を繋げよう
日本最初の国字の製作に、誰がどこでどのようにして携わったのか? その疑問を解明したいものだ。1~2年の間にどうつくったのかを再検証してみる価値はある。高い職人気質をもった日本人がつくっていたとすれば、その活字が残っていたとすれば、本木昌造もあれほど苦労することなく、日本の近代活版印刷はもっと早く夜明けを迎えていただろう。印刷を題材とした「文化論」(印刷文化論)はあるとしても、なぜか「文明論」は聞かれない。双方の整合性をとって、史実を記録しておく必要がある。各地域、各時代の歴史を継続して後世に伝えていくためにも、印刷に関する「風土記」を書き残していくべきだろう。
●文化性を保持することは印刷人の責務だ
印刷産業からみると、肝心の文化性を情報流通産業にとられて、メディアの製作(出力)だけを任される格好となっている。付加価値のとれる領域は、ロジスティックスだけとなっていく。一般の商品は、超ブランドものからシンプルな日用品までさまざまな分野に広がっているが、コンピュータで処理された便利な標準品を、消費者が求めれば求めるほど、文化性は伴わなくなってしまう。印刷メディアも全く同じことで、インターネットで標準的な情報を簡単に入手されている間に、大切な文化性がどんどん逸散してしまう。印刷物にデザインとかグラフィックアーツの要素が加わってこそ、文化性が維持される。文化的成熟度の証として、消費者や読者から文化性の高い印刷物を要求してもらえるようになってほしい。
●成熟化を後押しすることで文化性は保たれる
需要の多様化に応えるために、個性を発揮できる人材を育てることが重要である。それを実行する資格と義務が印刷会社にはある。イノベーション(市場を動かせるビジネス革新)は、若年層から始まっている。しかし、社会ともっとも密着しているはずの印刷会社の動きが鈍い。個々の印刷会社が少しずつでもいいから、文化性を高める方向にお金を使って、産業の力で市場を成熟化させていかないかぎり、印刷はたんなるモノづくりの立場に追い込まれていくだけである。受け入れてもらえるまで時間はかかるかも知れないが、社会の文化水準が向上しないかぎり、文化産業は評価されないのだから……。
●日本人がもつ「情緒性」をもう一度顧みたら?
日本人の特性をもっとも象徴的に表しているのは「情緒性」だろう。近くのスーパーストアに行っても、店頭に商品がきれいに並べられている。アメリカでの予測と違って、日本の印刷市場でパッケージ類が“ブラウンペーパー”(未晒の包装紙)として扱われることはないだろう。どこへ行ってもいつの時代でも、日本人の情緒性は豊かである。俳句について考えてみると、五七五という型に嵌めて標準化をはかる一方で、季語を採り入れることによって情報量を増やし、なおかつ創造性を追求している。これこそ日本人ならではの知恵といえる。印刷の世界にも当然このような思想がある。本質に立ち帰って、新たな視点で見直してみる必要があるだろう。
●創造性を付加することも印刷会社の“命題”
パソコンが普及し、それなりの印刷物をつくれる“グーテンベルク”に皆がなっている時代に、本当のプロになるためには感性に訴える方法しかない。タブレット端末は扱いがシンプルで、機能も確かに素晴らしいが、処理した情報にいかに創造性、情緒性を付加するかが重要である。日本人に課せられた特有の課題として、どう取り組んでいくか、印刷人として無関心であってはならない。印刷技術を標準化したうえで、いかに美しさを保ち、かつ創造性を発揮するか。印刷人が取り組まなければならない命題である。
●プリンティング・マネジメントの機能を社内に
一般の企業は、個々の部署でそれぞれ独自に印刷物を発注している。全体でみればあまり変動ないのだが、部署間で相互の連携がないため、コストも考えずにいわば“不適切”な発注をしている。これをまとめるのが「プリンティング・マネジメント」で、印刷会社はこの機能を新規参入の専門会社に任せるのではなく、できるだけ自社内で保持するように努めなければならない。そうすれば、顧客企業のすべてのニーズを把握でき、適切なときに適切な印刷メディアを提案できる。印刷現場をもっている強みを活かるので、顧客のニーズに対して、ジャストインタイムで最適なソリューションを提供可能となる。顧客の発注を一元化してワンストップでソリューションを提供し、付加価値は付帯サービスで稼ぐというビジネス関係を築くことである。
●叡智の固まりである出版印刷に魅力あり!
アメリカの印刷業界団体PIAの年次報告書(前月度例会報告参照)が分析している「市場魅力度」も説得力のある話だ。この分析は、印刷製品ごとの売上高をその製品領域に特化している印刷会社の数で割った数値を、製品品目相互に比較してみた相対的な傾向値なのだが、もっとも魅力的な品目として雑誌印刷・書籍印刷がランクされている。魅力的とされるグリーティングカードやパッケージ印刷さえ上回った。印刷全般の成長性に対して製品別の相対的成長性を探った分析で、低いとされていたのとは対照的な傾向が出ている。PIAでは「競争の度合いが低いほど、その市場領域は魅力度が高い」としているが、その背景には、収益を上げにくいため、出版印刷をおこなう印刷会社が集約化している事実がある。しかし、出版物は叡智の固まりの典型であり、普遍的な存在意義がある。落ち着いたあとには、また盛り返してくるだろう。利用者(読者)がいれば、ビジネスが成り立つことはわかっている。まず、電子媒体で読んでもらってから、選ばれたものを品位の高い出版物として印刷するなど工夫すれば、減少している書店も、これから文化ビジネスとして十分に生き残っていけるはずである。
(終)
さて、月例木曜会が先週7月18日に行われました。こちらも、うなぎの高騰に負けず、“内容が高度化している”と編者が申しております。どうぞ、ご一読くださいませ。
[印刷]の今とこれからを考える
(2013年7月18日 印刷図書館クラブ 月例木曜会)
●国字の金属活字鋳造をめぐり拭えない「?」
日本で初めて金属活字によって活版印刷がおこなわれたのは、コンスタンチノ・ドラードらによる『サントスの御作業の内抜書』(1591年)だとされている。これは、ドラードらがポルトガルのリスボンから持参した印刷機と欧文活字を使って布教目的でつくられたものだが、同じ年もしくは翌年に印刷された『どちりな・きりしたん』には何と国字が使用されている。国字の鋳造は誰がおこなったのだろうか? ドラードらはリスボンでの研修で、果たして漢字・ひらがなの活字をごく短期間で鋳造する技術を習得することができたのであろうか? 検証されないまま「造ったのはドラードだ」という説がとられている。非常に疑問が残るところである。
●16世紀末に日本人が国字を鋳造していた?
書誌学の権威からは、10人の日本人神弟が日本活字の鋳造に当たったという考え方も発表されている。当時、木活字を製作する専門家はいたが、神に仕えるキリスト関係者だとすれば別人の可能性が高い。印刷機も技術をもった宣教師たちもマカオに戻り、日本での金属活字はいったん姿を消したことになっている。キリシタン版を印刷した当時の金属活字は一本も残っていないが、古活字のなかにキリシタン版の影響を受けたものが少なからずある。イエズス会から母国に送った報告書のなかには、「日本人はイタリック体をつくった」という下りもある。手先が器用だから、国字をつくれたとしても不思議ではない。
●「文明論」と「風土記」で印刷の歴史を繋げよう
日本最初の国字の製作に、誰がどこでどのようにして携わったのか? その疑問を解明したいものだ。1~2年の間にどうつくったのかを再検証してみる価値はある。高い職人気質をもった日本人がつくっていたとすれば、その活字が残っていたとすれば、本木昌造もあれほど苦労することなく、日本の近代活版印刷はもっと早く夜明けを迎えていただろう。印刷を題材とした「文化論」(印刷文化論)はあるとしても、なぜか「文明論」は聞かれない。双方の整合性をとって、史実を記録しておく必要がある。各地域、各時代の歴史を継続して後世に伝えていくためにも、印刷に関する「風土記」を書き残していくべきだろう。
●文化性を保持することは印刷人の責務だ
印刷産業からみると、肝心の文化性を情報流通産業にとられて、メディアの製作(出力)だけを任される格好となっている。付加価値のとれる領域は、ロジスティックスだけとなっていく。一般の商品は、超ブランドものからシンプルな日用品までさまざまな分野に広がっているが、コンピュータで処理された便利な標準品を、消費者が求めれば求めるほど、文化性は伴わなくなってしまう。印刷メディアも全く同じことで、インターネットで標準的な情報を簡単に入手されている間に、大切な文化性がどんどん逸散してしまう。印刷物にデザインとかグラフィックアーツの要素が加わってこそ、文化性が維持される。文化的成熟度の証として、消費者や読者から文化性の高い印刷物を要求してもらえるようになってほしい。
●成熟化を後押しすることで文化性は保たれる
需要の多様化に応えるために、個性を発揮できる人材を育てることが重要である。それを実行する資格と義務が印刷会社にはある。イノベーション(市場を動かせるビジネス革新)は、若年層から始まっている。しかし、社会ともっとも密着しているはずの印刷会社の動きが鈍い。個々の印刷会社が少しずつでもいいから、文化性を高める方向にお金を使って、産業の力で市場を成熟化させていかないかぎり、印刷はたんなるモノづくりの立場に追い込まれていくだけである。受け入れてもらえるまで時間はかかるかも知れないが、社会の文化水準が向上しないかぎり、文化産業は評価されないのだから……。
●日本人がもつ「情緒性」をもう一度顧みたら?
日本人の特性をもっとも象徴的に表しているのは「情緒性」だろう。近くのスーパーストアに行っても、店頭に商品がきれいに並べられている。アメリカでの予測と違って、日本の印刷市場でパッケージ類が“ブラウンペーパー”(未晒の包装紙)として扱われることはないだろう。どこへ行ってもいつの時代でも、日本人の情緒性は豊かである。俳句について考えてみると、五七五という型に嵌めて標準化をはかる一方で、季語を採り入れることによって情報量を増やし、なおかつ創造性を追求している。これこそ日本人ならではの知恵といえる。印刷の世界にも当然このような思想がある。本質に立ち帰って、新たな視点で見直してみる必要があるだろう。
●創造性を付加することも印刷会社の“命題”
パソコンが普及し、それなりの印刷物をつくれる“グーテンベルク”に皆がなっている時代に、本当のプロになるためには感性に訴える方法しかない。タブレット端末は扱いがシンプルで、機能も確かに素晴らしいが、処理した情報にいかに創造性、情緒性を付加するかが重要である。日本人に課せられた特有の課題として、どう取り組んでいくか、印刷人として無関心であってはならない。印刷技術を標準化したうえで、いかに美しさを保ち、かつ創造性を発揮するか。印刷人が取り組まなければならない命題である。
●プリンティング・マネジメントの機能を社内に
一般の企業は、個々の部署でそれぞれ独自に印刷物を発注している。全体でみればあまり変動ないのだが、部署間で相互の連携がないため、コストも考えずにいわば“不適切”な発注をしている。これをまとめるのが「プリンティング・マネジメント」で、印刷会社はこの機能を新規参入の専門会社に任せるのではなく、できるだけ自社内で保持するように努めなければならない。そうすれば、顧客企業のすべてのニーズを把握でき、適切なときに適切な印刷メディアを提案できる。印刷現場をもっている強みを活かるので、顧客のニーズに対して、ジャストインタイムで最適なソリューションを提供可能となる。顧客の発注を一元化してワンストップでソリューションを提供し、付加価値は付帯サービスで稼ぐというビジネス関係を築くことである。
●叡智の固まりである出版印刷に魅力あり!
アメリカの印刷業界団体PIAの年次報告書(前月度例会報告参照)が分析している「市場魅力度」も説得力のある話だ。この分析は、印刷製品ごとの売上高をその製品領域に特化している印刷会社の数で割った数値を、製品品目相互に比較してみた相対的な傾向値なのだが、もっとも魅力的な品目として雑誌印刷・書籍印刷がランクされている。魅力的とされるグリーティングカードやパッケージ印刷さえ上回った。印刷全般の成長性に対して製品別の相対的成長性を探った分析で、低いとされていたのとは対照的な傾向が出ている。PIAでは「競争の度合いが低いほど、その市場領域は魅力度が高い」としているが、その背景には、収益を上げにくいため、出版印刷をおこなう印刷会社が集約化している事実がある。しかし、出版物は叡智の固まりの典型であり、普遍的な存在意義がある。落ち着いたあとには、また盛り返してくるだろう。利用者(読者)がいれば、ビジネスが成り立つことはわかっている。まず、電子媒体で読んでもらってから、選ばれたものを品位の高い出版物として印刷するなど工夫すれば、減少している書店も、これから文化ビジネスとして十分に生き残っていけるはずである。
(終)