印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

[印刷]の今とこれからを考える (月例木曜会2013年7月)

2013-07-22 16:03:09 | 月例会
今日(7月22日)は土用の丑の日。うなぎを食べて暑さを乗り切るぞ~!!とう方も多いことと思います。しかしながら、うなぎの値が高騰しているそうで、お財布に厳しい今年の夏です。

さて、月例木曜会が先週7月18日に行われました。こちらも、うなぎの高騰に負けず、“内容が高度化している”と編者が申しております。どうぞ、ご一読くださいませ。


[印刷]の今とこれからを考える
(2013年7月18日 印刷図書館クラブ 月例木曜会)


●国字の金属活字鋳造をめぐり拭えない「?」
日本で初めて金属活字によって活版印刷がおこなわれたのは、コンスタンチノ・ドラードらによる『サントスの御作業の内抜書』(1591年)だとされている。これは、ドラードらがポルトガルのリスボンから持参した印刷機と欧文活字を使って布教目的でつくられたものだが、同じ年もしくは翌年に印刷された『どちりな・きりしたん』には何と国字が使用されている。国字の鋳造は誰がおこなったのだろうか? ドラードらはリスボンでの研修で、果たして漢字・ひらがなの活字をごく短期間で鋳造する技術を習得することができたのであろうか? 検証されないまま「造ったのはドラードだ」という説がとられている。非常に疑問が残るところである。


●16世紀末に日本人が国字を鋳造していた? 
書誌学の権威からは、10人の日本人神弟が日本活字の鋳造に当たったという考え方も発表されている。当時、木活字を製作する専門家はいたが、神に仕えるキリスト関係者だとすれば別人の可能性が高い。印刷機も技術をもった宣教師たちもマカオに戻り、日本での金属活字はいったん姿を消したことになっている。キリシタン版を印刷した当時の金属活字は一本も残っていないが、古活字のなかにキリシタン版の影響を受けたものが少なからずある。イエズス会から母国に送った報告書のなかには、「日本人はイタリック体をつくった」という下りもある。手先が器用だから、国字をつくれたとしても不思議ではない。


●「文明論」と「風土記」で印刷の歴史を繋げよう 
日本最初の国字の製作に、誰がどこでどのようにして携わったのか? その疑問を解明したいものだ。1~2年の間にどうつくったのかを再検証してみる価値はある。高い職人気質をもった日本人がつくっていたとすれば、その活字が残っていたとすれば、本木昌造もあれほど苦労することなく、日本の近代活版印刷はもっと早く夜明けを迎えていただろう。印刷を題材とした「文化論」(印刷文化論)はあるとしても、なぜか「文明論」は聞かれない。双方の整合性をとって、史実を記録しておく必要がある。各地域、各時代の歴史を継続して後世に伝えていくためにも、印刷に関する「風土記」を書き残していくべきだろう。


●文化性を保持することは印刷人の責務だ
 印刷産業からみると、肝心の文化性を情報流通産業にとられて、メディアの製作(出力)だけを任される格好となっている。付加価値のとれる領域は、ロジスティックスだけとなっていく。一般の商品は、超ブランドものからシンプルな日用品までさまざまな分野に広がっているが、コンピュータで処理された便利な標準品を、消費者が求めれば求めるほど、文化性は伴わなくなってしまう。印刷メディアも全く同じことで、インターネットで標準的な情報を簡単に入手されている間に、大切な文化性がどんどん逸散してしまう。印刷物にデザインとかグラフィックアーツの要素が加わってこそ、文化性が維持される。文化的成熟度の証として、消費者や読者から文化性の高い印刷物を要求してもらえるようになってほしい。


●成熟化を後押しすることで文化性は保たれる 
需要の多様化に応えるために、個性を発揮できる人材を育てることが重要である。それを実行する資格と義務が印刷会社にはある。イノベーション(市場を動かせるビジネス革新)は、若年層から始まっている。しかし、社会ともっとも密着しているはずの印刷会社の動きが鈍い。個々の印刷会社が少しずつでもいいから、文化性を高める方向にお金を使って、産業の力で市場を成熟化させていかないかぎり、印刷はたんなるモノづくりの立場に追い込まれていくだけである。受け入れてもらえるまで時間はかかるかも知れないが、社会の文化水準が向上しないかぎり、文化産業は評価されないのだから……。


●日本人がもつ「情緒性」をもう一度顧みたら? 
日本人の特性をもっとも象徴的に表しているのは「情緒性」だろう。近くのスーパーストアに行っても、店頭に商品がきれいに並べられている。アメリカでの予測と違って、日本の印刷市場でパッケージ類が“ブラウンペーパー”(未晒の包装紙)として扱われることはないだろう。どこへ行ってもいつの時代でも、日本人の情緒性は豊かである。俳句について考えてみると、五七五という型に嵌めて標準化をはかる一方で、季語を採り入れることによって情報量を増やし、なおかつ創造性を追求している。これこそ日本人ならではの知恵といえる。印刷の世界にも当然このような思想がある。本質に立ち帰って、新たな視点で見直してみる必要があるだろう。


●創造性を付加することも印刷会社の“命題” 
パソコンが普及し、それなりの印刷物をつくれる“グーテンベルク”に皆がなっている時代に、本当のプロになるためには感性に訴える方法しかない。タブレット端末は扱いがシンプルで、機能も確かに素晴らしいが、処理した情報にいかに創造性、情緒性を付加するかが重要である。日本人に課せられた特有の課題として、どう取り組んでいくか、印刷人として無関心であってはならない。印刷技術を標準化したうえで、いかに美しさを保ち、かつ創造性を発揮するか。印刷人が取り組まなければならない命題である。


●プリンティング・マネジメントの機能を社内に
 一般の企業は、個々の部署でそれぞれ独自に印刷物を発注している。全体でみればあまり変動ないのだが、部署間で相互の連携がないため、コストも考えずにいわば“不適切”な発注をしている。これをまとめるのが「プリンティング・マネジメント」で、印刷会社はこの機能を新規参入の専門会社に任せるのではなく、できるだけ自社内で保持するように努めなければならない。そうすれば、顧客企業のすべてのニーズを把握でき、適切なときに適切な印刷メディアを提案できる。印刷現場をもっている強みを活かるので、顧客のニーズに対して、ジャストインタイムで最適なソリューションを提供可能となる。顧客の発注を一元化してワンストップでソリューションを提供し、付加価値は付帯サービスで稼ぐというビジネス関係を築くことである。


●叡智の固まりである出版印刷に魅力あり! 
アメリカの印刷業界団体PIAの年次報告書(前月度例会報告参照)が分析している「市場魅力度」も説得力のある話だ。この分析は、印刷製品ごとの売上高をその製品領域に特化している印刷会社の数で割った数値を、製品品目相互に比較してみた相対的な傾向値なのだが、もっとも魅力的な品目として雑誌印刷・書籍印刷がランクされている。魅力的とされるグリーティングカードやパッケージ印刷さえ上回った。印刷全般の成長性に対して製品別の相対的成長性を探った分析で、低いとされていたのとは対照的な傾向が出ている。PIAでは「競争の度合いが低いほど、その市場領域は魅力度が高い」としているが、その背景には、収益を上げにくいため、出版印刷をおこなう印刷会社が集約化している事実がある。しかし、出版物は叡智の固まりの典型であり、普遍的な存在意義がある。落ち着いたあとには、また盛り返してくるだろう。利用者(読者)がいれば、ビジネスが成り立つことはわかっている。まず、電子媒体で読んでもらってから、選ばれたものを品位の高い出版物として印刷するなど工夫すれば、減少している書店も、これから文化ビジネスとして十分に生き残っていけるはずである。

(終)





「再生可能エネルギーと “再生紙物語”

2013-07-01 16:32:00 | エッセー・コラム
久保野和行氏より、随想一遍が届きましたので、ご紹介いたします。
長文ですが、人間本来の知恵と叡智が盛り込まれた随想録です。



「再生可能エネルギーと “再生紙物語”」 久保野和行




福島原発事故以来、国民感情は原子力利用のエネルギー対策にはアレルギー症状が多く、その対極にあるのが再生可能エネルギーへの期待感がある。昨年の7月には買取り制度が法案成立して、各産業、各企業が新事業へ一斉にスタートした。20年間一定価格買取りがビジネスプランを可能にしたことで、ソーラー・風力・地熱・バイオ・小水力等が見直されている。


もともとエネルギーとは歴史上では、人類が動物世界から隔離した空間を創造したのは“火”を起こす知恵を持ったことで生まれたとも言える。最初は木などを燃やす時代から、石(石炭)や油(石油)へと変化していった。
しかし木から得るエネルギーが最も長くポピュラーな物であったから、いつか人間は森林深く立ち入り、過激な行動が、禿山をつくり、そのしっぺ返しが自然の怒りを買い、風水害という猛威の前に慄いた。自然からの贈り物はエネルギーだけではなく、紀元前まえ中国の蔡倫が“紙”を作り出した。


2012年度の紙消費量は26,278,388,000トンが日本全体で使われていた。その内訳で注目するのは、63.9%が再生紙であることです。森林伐採で、ますます深刻化する地球環境の劣化の中で、三分の二がリサイクル適正な再生紙が占めている。
振り返ってみて、そもそも再生紙とは、いつ、どこで、誰が作ったのかに興味を持った。意外や意外、その人物とは南喜一さんという日本人です。


この方は石川県金沢市の人で、上京して早稲田大学理工科に入った。苦学生で生活は艶歌師、人力車の車夫などをしていた。その時の艶歌師先輩とコンビを組んだのが、東大医学部の学生でした。先輩が卒業する頃は、学生の身分で艶歌師を禁止され、それで車夫になる。あまり実入りが良くないので、一念発起して1年間学校を休学して、上野の薬剤師専門校で資格を取りました。その縁で、先に卒業していた先輩の医学生が吉原病院に在職したおり、そこに職を置くことにした。


学生の身分でできちゃった結婚した。奥さんの実家が向島の寺島村の出身、義兄が当時の石鹸工場の職工であった。その頃の寺島界隈は、今の花王やライオン、カネボウ等の石鹸工場群があり、廃液が水田を冒して、農民がつけ火の騒動を起こした。


義兄は野次馬で見学中に亀戸署に逮捕された。南さんは、義兄の釈放に向かい署長と交渉した。理学部で理路整然と廃液の中からグリセリンの抽出すれば問題ないと話した。
義兄は釈放、署長は関係会社に廃液処理の知恵を授けたが、事態は解決されない。再度呼ばれ諮問され、それではと実際にドラム缶を購入して実験をして証明した。


それを契機に実際に工場を起こした。グリセリンは下瀬火薬の原料となり、一躍成金となる。当然ながら廃液が金を生むから、石鹸工場は社内処理に向く、そこで南さんは事業転換を図る。


エボナイトに着目した。ガス灯から電気に変わる時代であったので絶縁体の需要は旺盛であったので大成功した。人手が足りず弟2人を呼びました。それと同時に先輩医師からの依頼で水野成夫さんを入社させる。東大の優秀な人物ですから会社規模を拡大する上には貢献した。しかし副産物も残した。それは水野さんが東大の共産党の細胞として活躍していたので、一時の避難所的な形で在職していたが、弟2人は感化された。
水野さんはその後離れたが、事件は関東大震災で世情不安を理由に亀戸署で虐殺があった。南さんの弟が、その中の一人で殺されたのです。


義憤駆られた南さんは、弟の敵とばかり体制側に牙を向けたのです。事業で成功していた会社を売り、その資金の多くを共産党に寄付して、それを足がかりにして党幹部になり、闘争闘士に変貌した。


しかし治安維持法の制定でおきた3.15事件で南さんは逮捕された。
ここからが南さんらしいエピソードがある。危険思想のある人物であるから雑居房には収監することができず、独居房で、なおかつ危険思想人物との接触が禁止されているので看守さえ言葉を交わすことがなかったそうです。必然的に閉鎖された空間での時間の使い方が、その後の人生を変えるきっかけになるとは南さんは思っていなかったようです。


長い収監期間で、やることがないので食事と健康のパロメーターとして排便の観察に取り組んだ。朝、昼、晩の食事内容と自分の体調のリズム、それに排便時の色、形、固さ等の観察日記を克明に付けていった。当時の監獄所は水洗でなく溜池方式で窓際の壁に沿って下に落とす方式がとられたそうです。ある日、何時ものように観察していると古新聞が引き詰められた上に垂れ流したのが、新聞のインキが脱墨していることに気づいた。


日本人はコメ文化で成り立っている。当然ながら成分に米糖(糠=ぬか)がrグロプリンというタンパク質で、昔から日本人に馴染みの洗剤であった界面活性剤であった。面白い発見の新事実に興味を持った。


3.15事件の転換は、同じく収監されていた水野成夫さんが、獄中で転向宣言を発表して釈放された。それを南さんは聞いて、同じく転向宣言して娑婆に出てくるが、寺島に家に戻って始めたのが玉の井(永井荷風の濹東綺譚に登場する)入口に婦人解放同盟をボランテリアで開く、当然ながら話題になり水野さんと旧交を温めることになった。


監獄時代の話に及び脱墨のことも及ぶ、当時の水野さんは転向後、もともとのエリアであったフランス文学に向かい翻訳物でベストセラーを出していた。その良き理解者が宮島清次郎さん(日清紡社長)で、繊維で財を成していた。陸軍から軍事物資補充として、紙の製造強化の一環として再生紙を作ることで国策パルプを創設した。


なかなか思うようにいかない時に、脱墨話を聞き陸軍に申請した。そこで宮島さんが私財を出し、太平洋戦争の前の年に、国策パルプ内に大日本再生紙株式会社の研究所を作り再生紙を作った。


終戦後合併して国策パルプ社長に水野さんがなりました。水野さんはその後文化放送を買収して、それを土台にフジテレビを創設し、その後、産経新聞を再建した。


一方、南さんは京都大学医学部の出身の代田稔さんの依頼で、「ハガキ一枚、タバコ1本で買える健康」のヤクルト(ラクトバチルス・ガゼイ・シロタ株=代田さんの名前を取って)を設立した。家え貧して孔子出るの諺もあるが、時代の変化に十分と対応できた南さんの生き様にエネルギーパラーを感じる。


再生可能エネルギーと言われ自然の恵を謳歌することも大事であるが、それよりも、もともと持っている人現本来の知恵と叡智のエネルギーを発揮することが今ほど求められていると思った。