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19世紀マニラ都市近郊の売春婦

2024-01-15 | フィリピン

19世紀当時のエスコルタ

Costureras and Bordadoras

Costurerasコスツレラ(裁縫師)とbordadorasボルダドーラ(刺繍職人)

二重性は、星座の双子座の特徴であるだけでなく、特に売春が嫌われ、立派さを装うことが唯一の手段である道徳的に高潔な社会における人間の特徴でもある。

Costurerasとbordadorasは、19世紀のマニラで、お針子や刺繍職人として働きながら、「立派な」仕事の時間外に性風俗産業に従事する女性に対して使われた言葉である。

すべてのお針子たちが娼婦を兼ねていたわけではないだろうが、コスチュドーラとしてマークされることは、他の意味を含んでいた。

あるいは、不吉な動機を隠蔽するために装いを変えるしかなかったのかもしれない。

このことは、リサールの小説『El Filibusterismo』で、イントラムロスの若い学生たちがセニョール・パスタに接触する方法について議論していたとき、

彼の女友達であるコスチュレラを通して接触することが一つの手段であったことからも明らかである。

立派な社会では、夜の女たちとの接触は仕立て屋で行われ、地元のサストレや仕立て屋が男性客を紹介していた。

ビノンドでポン引きと中国人客と一緒に逮捕された児童売春婦のケースのように、劇場近くで見つかることもあった。

3人の女性が中国人客と一緒に逮捕されたビノンドの石鹸製造工場のように、孤独な中国人クーリーがいる仕事場、ドゥルンバヤンのアヘン兼売春宿、

マラテの兵士の兵舎近く、さらにサンパロックやシンガロンのマニラ周辺都市部でも見つかった。

都市社会から遠く離れた場所で、夜の女たちは訪問者をもてなした。

立派な社交界からは遠く離れているが、紳士たちが訪れるには十分な距離にあるこれらのマダムたちの家は、その居場所を見つけた。

19世紀後半にアメリカ人がマニラを占領した直後も、マニラ一の繁華街であったエスコルタは、騒々しいバーや酒場、売春の巣窟となっていた。

当時のサンパロックは、野菜畑、印刷所、洗濯屋などが立ち並ぶ素朴な田舎町だった。

その後20世紀初頭、マニラ市長のジュスト・ルクバンが、日本人娼婦や不品行な人々を、まともな生活を送れるダバオへ強制送還するよう命じたことで、

クチナシ通りは悪名高い場所となった。

 

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