☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

さまざまな国籍、民族の人々が集い大盛況だった憲法改正一万人大会

2015-11-21 17:15:10 | 今日の光明法語

『 週刊ダイヤモンド 』 2015年11月21日号
新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 1109
 
11月10日、東京・九段の日本武道館が 1万1千数百人でいっぱいになった。
「 美しい日本の憲法をつくる国民の会 」 が主催した 「 今こそ憲法改正を!
一万人大会 」 でのことだ。
 
目標数を超える人々が集い、立ち見が目立った会のもう1つの特徴は、
多くの外国の人々が参加したことだ。米国、ベトナム、インド、中国、台湾、
南モンゴル、チベット、東トルキスタンとさまざまな国籍、民族の人々が集い、
日本の憲法改正を求めた。こんなことは 初めてではないだろうか。
 
大会には、米上院軍事委員会の長であるジョン・マケイン上院議員がメッセージを寄せた。
氏の公的地位を考えれば、氏のメッセージ中に 「 憲法改正 」 の文言がないのは当然だ。
内政干渉にならないように慎重に言葉を選び、氏は 安倍晋三首相の積極的平和外交を
ワシントンでは 共和、民主両党が一致して支持しているとし、エールを送った。
日米両国の協力強化が 国際社会にどれほど貢献するかを強調して、言外に、
憲法改正への賛意を伝えた。
 
大会後、壇上でスピーチをした3人のゲストを囲んで さらに語り合った。
インド政策研究センター教授のブラーマ・チェラニー氏が こう述べた。

「 あれだけ多くの人が集まりながら、何の混乱もなかった。皆 静粛に席に着いて、
2時間、しっかり話を聴き、拍手し、終わりまで 熱意を失わずにいた。本当に驚いた。
これが 日本人の素晴らしい姿なのだ 」
 
氏は 真に感動した様子だったが、逆に私には、氏の驚きが驚きだった。
日本人にとって、会場で静かに熱心に聴くことは当然のことだからだ。
 
チェラニー氏は 日本国憲法を持たされた日本は 同じ敗戦国のドイツに比べて
「 不運だった 」 とも語る。

「 ドイツ憲法は 戦後59回も改正されていますが、それが作られた当時、
日本国憲法の9条に匹敵する条項は なかった。なぜ、日本にだけ九条が押し付けられたか。
日本国憲法が1946年に作られ、翌年に施行されたからです。
ドイツ憲法は 2年後に施行されましたが、その間に東西冷戦が勃発した。
日本国憲法の作成や施行が あと1年か1年半遅れていれば、
現実離れした9条は なかった可能性があります 」
 
米カリフォルニア州の弁護士で 日本在住のケント・ギルバート氏が 割って入った。
氏は大会の講演で、 「 9条は日本弱体化のためだった。日本人よ、そのことに早く目覚めよと
言いたい 」 と語ったが、
米国が日本国憲法を早期に作成した理由は、ソ連に対抗するためだったと弁じた。

「 ソ連の介入を防ぐために、1日も早く生まれ変わった日本を見せなければならなかった。
でも、米国も、日本国憲法の間違いには、すぐ気付いていた 」
 
氏は、日本国憲法で最もおかしいのは、元首が存在しないことだと言う。

「 国を代表する元首が存在しないなんて、国家として本当におかしい。
天皇は 事実上、元首です。なぜ、明文化しないのか 」
 
ちなみに 自民党も 「 産経新聞 」 も憲法改正草案 第1章で
明確に 「 天皇は、日本国の元首 」 と規定している。
日本人の側にも 強い問題意識はあるのだ。
 
ベトナム外務省元顧問局長のディン・ホアン・タン氏も大いに語った。

「 改憲は当然です。アジアは 日本の本質を理解しています。
アジア法治の土台は、武士道精神であるべきです 」
 
南シナ海で中国の脅威に直接向き合うベトナムは 武士道精神の神髄である摂理に従うこと、
すなわち 法秩序への敬いこそ 大事だと言いたかったのであろう。
最後にギルバート氏が言った。

「 今日の大会を見て、日本人は目覚めている。憲法改正は大丈夫、やれるかもと思いました 」
 
私も会の主催者の1人として 同様に感じた。改正に向けて、全力で憲法論議を広げていきたい。


櫻 井 よ し こ
http://yoshiko-sakurai.jp/2015/11/21/6207


皇室および一家の祖先を礼拝せよ

2015-11-21 15:52:28 | 今日の光明法語

われらは 生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊(こうれい)を遥拝(ようはい)し
奉(たてまつ)り、次(つ)いで 一家の祖先の霊魂を祀(まつ)れる祭壇(さいだん)
または 仏壇の前に坐(ざ)して その冥福と守護を祈願し、かつ 自己の生命も永遠なれば
常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期(き)す。


この われわれの生命が 永遠なる存在であるということは、生長の家の真理の根本を
貫(つらぬ)くところのものであります。これがハッキリわからなければ
「 皇霊を遥拝し 」 ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。いろいろの批判はあるにしても、
われわれ日本人は 日本国の歴史を通して 「 今 」 の一点に生きているのです。

そして いろいろの日本国の興隆(こうりゅう)浮沈(ふちん)は あったにしても、
どんなときにも 日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展して
きました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとく ドッシリとして、その中心から
どんな時にも 日本国が立ち直ることができた重心は 天皇がましましたからであります。

われわれは 歴代の天皇の この御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。
恩を知るということが 実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。
だから われわれは 歴代の皇霊に対して崇敬(すうけい)の誠を捧げるのであります。

・・・・・・

われわれは 「 現世 」 とか 「 来世 」 とかいうカンバスに 何で絵を
描(か)くかというと、念波で 絵を描くのであります。
念波という絵具(えのぐ)をもって 絵を描くのでありますから、
その念波を善(よ)くし、また よくしてあげることが 必要であるのあります。

最もよい念波は 何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施(ほうせ)というもので
ありまして、最も尊い施(ほどこ)しであります。

われわれは 人に物を施すのは、物施(ぶっせ)といって物を施すのと、
それから法施といって 悟りの念波を施すのとがありますが、
真理(さとり)の念波を施すということが 本当の最も根本的な供養になるのであります。

・・・・・・

最高の救いは、やはり真理のお経を 意味が本当に分かって読むに限るのです。
そうしますと そのお経を捧げられる相手方の霊魂は 非常に心が富み、心が満腹し、
生命が生長するということになるのであります。

ですから われわれは 暇があれば朝晩は 必ず 「 祖先の霊魂の悟りのための供養として・・ 」 と
いって生長の家の聖経 『 甘露の法雨 』 を誦(よ)むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を
読むということにされることが 祖先に対する子孫の務(つと)めなのであります。

・・・・・・

・・・ われわれは 祖先というものがあって 今ここに生きる機縁(きえん)を
与えられているのでありますから、その祖先に対して われわれが供養する、お経をよんで
真理の念波を供養する、実相のサトリを 供養するということは 実に大切な子孫の務めであります。

・・・・・・

実際上 祖先に対して よく真理を施(ほどこ)しておられる人々は、祖先の守護も多く、
また 自分の善念の具象化として 不幸というものがないのであります。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第28巻 久遠仏性篇 65・66頁、71頁、73・74頁 )
谷 口 雅 春 先 生




神と偕(とも)に無畏(むい)無憂(むゆう)の生活を送れ

2015-11-20 16:30:56 | 今日の光明法語

われらは 常に無限力と偕に 生くることを信じ、神に背(そむ)くことのほか、
何ものをも恐れず、取越し苦労を せざらんことを期(き)す。


われらの心の明朗の極点は 「 神の無限力 」 と一体で生きている という自覚で
あります。他のいろいろの方法によって 心の明朗さを得ようとも、
それは たいてい一時的の明朗さであります。

また 次なる重大なる事件が起こって来るとともに、その明朗さは破壊せられずには
いないのであります。どんな重大なる事件が起こって来(こ)ようとも、
我(わ)が味方は 「 神 」 であり 「 神 」 がその事件を われらの真の幸福にまで
導き給うものである との自覚さえありさえすれば、われわれは その重大なる事件を
静かに支配することが できるのであります。

・・・・・・

取越し苦労や心配が 心の底から湧き起こるときには、ただちに 心を一転して
「 われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩(あゆ)む、わが砦(とりで)は
神であるから 恐るるところのものはない 」 と断々乎(だんだんこ)として
心の中に唱えて 自分自身に言って聞かすようにする習慣をつけるがよい。

また ヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験は どんな体験でも失敗はない、
どんな体験も 次なる成功に達する一階段である と 喜び 勇(いさ)んで、
その現在の地点を足場(あしば)として 明朗な心境で 新(あら)たに出発するものは
必ず最後に成功するのであります。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第28巻 久遠仏性篇 31頁、33頁 )
谷 口 雅 春 先 生



自他の悪を思わず 常に光明に転向せよ

2015-11-20 14:32:23 | 今日の光明法語

われらは自他の悪を云為(うんい)する時間あらば、神を想い、完全を想い、
自己の新生と生長とに利用せんことを期(き)す。


・・・・・・

自覚(さとり)の心

一、平和の心
二、明るい心
三、悦びの心
四、深切の心
五、有難い心
六、無我の心
七、自在の心

迷いの心

一、不安、焦燥(しょうそう)、恐怖の心
二、暗い心、陰鬱(いんうつ)な心
三、不平、不満足の心
四、冷淡な心
五、忘恩的な心
六、利己的な心、嫉妬(しっと)、猜疑(さいぎ)、羨望(せんぼう)
七、一事物に引っかかる心

・・・・・・

それを一つに纒(まと)めると 「 迷いの心 」 とは 「 我執(がしゅう)の心 」 であります。
我執があるから一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱(ゆううつ)、不平、不満足、
忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが 起こってくるのであります。

・・・・・・

・・・ 自由自在 融通(ゆうずう)無礙(むげ)の境地に 達(たっ)したならば、
すべての迷いの心は 消えてしまう ・・・

・・・・・・

美点 と 光明は ‘ ない ’ ように見えても 本来 実在なのですから、
心が執(とら)われなくなったとき その本来の ‘ ある ’ 姿が あらわれて
くるのであります。

だから生長の家 家族の祈願には 自他の悪を云為(うんい)する時間があるならば、
神を想い、完全を想い、自己の新生(しんせい)と生長とを 努(つと)めようではないか と
書いてあるのであります。

・・・・・・

( 不安、焦燥、恐怖が起こってきたときには ) ・・・ この時こそ われらは、
「 神を想い、完全を想い 」 心を旧我(きゅうが)から一転(いってん)せしめて、
「 神と一つなる自分 」 を新しく発見するように努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって 招神歌(かみよびうた)を
誦(とな)え終わると 次のように念ずるのがよろしい。

「 自分は神の子であるから、本来 神と波長の合った心の波動を もっているのである。
神と波長の合った心の波動をもっている自分は ただ神の大調和の念波を受けるだけであって
いかなる不調和の念波をも 受けることはないのである。

我(われ)は神の子であり、我(わ)が環境は 我(わ)が心の影であるから、
我(わ)が環境は 今 現実に大調和であり、神の無限の 智慧 と 愛 と 生命 と 供給 とが
満ちているのである。 」


この光明思念を繰り返しつつ 精神統一状態に入(い)り、いっさいの悪を思わず、
今 現実に大調和の世界が ここに展開している という大信念に到達して その神想観を終わり、

神想観後の日常生活も できるかぎり 明朗(めいろう)なる心境を持続するように努めれば、
現実の苦難の状態は 克服され 実相世界の完全なる状態が しだいに現実生活にまで
再現してくるのであります。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第28巻 久遠仏性篇 23頁~30頁 )
谷 口 雅 春 先 生



万教共通の真理の単純化と実践化こそ、生長の家の特色をなしている

2015-11-19 12:57:45 | 今日の光明法語

生長の家は 「 物質なし 」 「 肉体なし 」 の喝破(かっぱ)によって・・・
もう ‘ すでに ’ そんな 生 老 病 死 の世界は ‘ 無い ’ と喝破されたのであります。

・・・・・・

生長の家では、 「 色即是空 」 を簡単に 「 物質は無い 」 と
ハッキリ截(た)ち断(き)ってしまった。
ここに 実生活を生かす力が あるのであります。

「 空 」 というものを むつかしく解(かい)して ‘ ある ’ やら ‘ 無い ’ やら
わからないようにしてしまえば われわれは 去就(きょしゅう)に迷う。
それでは 実生活は生きてこない。

※ 去就(きょしゅう) ・・・ 進退。どんな動きをするかという態度。

物質は無い、それは心の影(かげ)である。心に従って いかようにも現われてくると説くと、
実に平易であり、単純であるので、直(ただち)に実践ができ、実生活の上に
真理を体験するを得(え)せしめたのであります。

この万教(ばんきょう)共通の真理の単純化と実践化こそ、
生長の家の特色をなしているところでありまして、
生活上に いろいろの奇跡を顕(あら)わしている理由も ここにあるのであります。

その奇跡は 病気が治るだけではありません。家庭が光明化し、経済上にも
その影響があらわれてくる、今まで狭(せま)い心で 「 物質はアル 」 と思って
それに すがみついていたのに貧しかったのが、 「 物質はナイ 」 と悟って
空無礙(くうむげ)の心になったときに かえって実相無限の供給が、現実界にあらわれてきた と 
いう実例は たくさんあります。

・・・・・・

生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有(ゆう)しているのは、
主として「 現象無し 」 とスカッと截(た)ち断(き)り、
実相独在 を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第27巻 久遠仏性篇 28・29頁、60・61頁、128・129頁 )
谷 口 雅 春 先 生




世界平和の祈りの集団的実修が必要

2015-11-15 10:07:07 | 今日の光明法語

『 理想世界 』 誌 昭和五十五年六月号
「 吾ら皆集まって 世界平和の祈りを致しましょう 」  谷口雅春先生


『 人生を見つめて 』という本の三十五頁に次のような重要な事実が書いてあります。


【 暗黒な感情の精神の波はどこへ行くか 】

「 あなたが腹を立てたり、憎んだり、争ったり、詛(のろ)ったり、怨(うら)んだり、
およそ悪い感情を起したときには、その精神の波はどこへ行くと思いますか。

それらの破壊的な精神の波は決して消えてしまうことなく、宇宙のどこかへ散って
行きます。それは水蒸気が散って行くけれども、決して消えてしまうことがないような
ものです。

心の力というものは一種のエネルギーでありますから、エネルギー不滅の原則に従って
それは決して消えることなく、ただ一時どこかへ散って行くだけなのです。

それらの怒り、憎み、嫉妬(しっと)、反感、呪(のろ)い等の念波(念ずる心の波)は
水蒸気が散って行くように散っては行くが、水蒸気が或る上空に達するとそれが互いに
類をもって集まって雲となるように、それらの害悪争闘性の破壊的精神の波動は、それが
互いに類するがゆえに一大雲峯(うんぽう)(雲の峰(みね))の如くなって団結します。

吾々の住んでいる地球は一定の軌道(きどう)を通りつつその争闘性の(闘いの性の)
破壊的一大精神雲峯に段々近づいて行こうとするのです。

それは地球が雲に近づくのではなく、雲が豪雨(ごうう)となって地球にぶつかって
くるように、その目に視(み)えない破壊性の精神雲峯が或(あ)る飽和状態以上の
呪いの密度になると、具体的な或る破壊力となって地上に降りそそぐのです。
それが原爆と具体化し、水爆と具体化して来るのです。

原爆、水爆は人間の科学的発明ではあるが、それが破壊力となって人類に注がれるのは、
原爆、水爆を使用する人間が此の巨大な破壊性の精神雲峯に巻き込まれた時なのです。

これを避けるためには、此の眼に見えない星雲のような」(P36七行目、下から十五語目)
われわれの憎しみ、争い、憤怒(ふんぬ)、呪い、嫉妬、反感、怒りというような、
そういうわれわれの心の波動が集まって一大精神雲峯となっているその巨大な破壊性の
精神的雲峯を、愛のわれわれの祈りの波によって消してしまわなければ、世界から、
恐るべき原爆、水爆の戦いを避けることはできない、ということになるのであります。


【 世界平和の祈りの集団的実修が必要 】

こういう訳ですから、われわれは、特にわれわれ生長の家の同志は、「 世界平和の祈り 」
というのを、毎日、神想観という観法(かんぽう)実修のつづきに行(や)ることになって
いるのであります。


【 世界平和の為にどのように祈るか 】

「 即ち吾々ができるだけ憎悪(にくしみ)、排斥(はいせき)、憤怒(はらだち)、
呪詛(のろい)等の反対感情たる愛の感情を起すことをつとめ、
一定の時刻を定めて同志相集まり、(集まれない場合には自分の自宅でもいいけれども)

同一の時刻に、『 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情は それによって
消し去られているのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて
互いに相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 』 と

(P.36 )こういう祈りをするように実行したいと思うのであります。

すでにわれわれはそれを実行しているのであります。
皆さんもそれを実行して下さい。もう一遍この祈りの言葉を朗読します。

「 神の愛が全地上に満ちみちて、一切の愛の反対感情は それによって消し去られて
いるのである。すべての人類と民族とは悉(ことご)く神の愛を身に受けて互いに
相愛し合っているのである。今よりのち、怒り 憎み 呪い 争い あることなし 」

こういうように何遍もこの言葉を心で繰り返して念じて、そして神の愛が実際に宇宙に
満ちみちて、憎み争い恨み呪い等の波を、消していきつつある有様を具体的にじーっと
観ずるようにすると、いいのであります。

これは、人類愛のためのわれわれの協同的祈りでありまして、この祈りをする
ことによって、人類の平和が速やかに来(きた)る ー“より速やかに”―
普通来(く)るよりも“より速やかに”来(く)ることになるのでありまして、
同時にこの世界平和の祈りによって自分の病も癒されるということになるのであります。


【 世界的人類的大目的の為に祈る功徳 】

われわれが祈る時に、この人類的な宇宙的な大目的のために祈りますと、そうすると
神の力が自分を媒介として流れ入る時に、目的が大きい目的であると、
大いなる力となって流れ入るのであります。

それは、恰度(ちようど)、電気の流れが、・・・目的が大きいものへ送電の
ワイヤ(線)をつなぐと、沢山(たくさん)の電流が流れるのと同じことであります。

ストーヴでも、五○○ワットのストーヴへつなぐとですねぇ、それだけに必要な電流しか
流れない。それでそれを、一キロワットの電気ストーヴにスイッチを入れると、
その電線には一キロワットに相応(ふさわ)しいだけの強い電流が流れる。

さらに二キロのストーヴに線をつないだらですねえ、そしたら二キロの電気ストーヴを
温(ぬく)めるのに必要なだけの電流が流れる。

で、われわれは、ちょっとした病気を癒す祈りをしたら、
病気を癒すほどの小さい神様の生命(いのち)の流れしか流れ入らないということになる。

ところが、「 世界平和の祈り 」であるとか、“ 人類のためになる ”祈りであると
いうような祈りをしますと、そういう世界的とか「 人類 」という大きな目的に対して
吾々が愛念を実行するとき 神様の生命(いのち)が流れるもんですから、
それに伴ってわれわれの病気は(個人の病気ぐらいの簡単なもんですから・・・)
速やかに癒(なお)るということになるのであります。

病人は自分の“ 病気 病気 ”と、“ 病気を治そう ”という小さな目的だけを思わないで
こういう偉大なることを目的とする祈りをすると、却って病気が速やかに癒る、という
事実も出てくるわけであります。


【 定時の祈りと随時随所の祈り 】

ところで、この祈りというのは、一定の時間の祈りと、それから随時随所で行なう祈りと
いうのとがあるのであります。

神想観といって、われわれの生長の家のグループの人達が実修しているのは、
私の時間は 朝五時十分から三十分間、それから午後八時半から三十分間実修している
のです。私と一緒に、その時間に念じたい人は、その時間に念じてもいいのであります。
それは、互いに念波の共鳴を起して、それだけ祈りが増幅され易いということになる
わけであります。


【 随時随所の祈りはこう念ずる 】

ところで、その一定の時間でなしに、随時随所で行(や)る祈り、これは一寸(ちょっと)
した休憩時間であるとか、仕事の切れ目の煙草(たばこ)一服(いっぷく)の時間である
とか、台所の一寸した暇(ひま)に、目をつぶって静かに息をととのえて、
このように念ずるといいと思うんです。

その祈る言葉は、『 人生を見つめて 』という本の三十七頁に書かれているんです。

「 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」

こう、二、三回 念ずるんです。
もう一遍、憶(おぼ)えるために言いますと、

「 吾れ心を空(むな)しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」


【 心を空しくする事が何故必要か 】

右の如く、二、三回念じまして、神様の御心を一心に心の耳で、ジーッと耳を澄(す)ま
して聴く気持になるんです。“ 吾、心を空しくして ”という事が必要であります。

何か問題を引っ提(さ)げて「 此の問題を神様どうしたらよろしいか、神様 御心を示し
給え 」という事になりますと、どうしてもやっぱり「 我 」の考えが入って来るのです。

そして自分の斯(か)くありたいという願いが、神様の返事の如く思い浮かんで、
実は自分自身の潜在意識の囁(つぶや)きを、それを神様の啓示の如く、思い間違うと、
いうことが往々ありますから、そこで自分の「斯(こ)うありたい」という思いを捨てて、

「“ 吾れ心を空しくして、神の御心に従い奉る。神の御心をわれに現わし給え 」

こう祈って、そこで神様に全托する気持になるということ、これが必要なわけであります。


【 神に全托したらこうなる 】

こうして神様に全托したら、神は無限の智慧であり、無限の力であり、
無限の愛であるから、悪いことが出てくる筈(はず)がない。

きっと「 神は祈るに先だちてなくてならぬものを知り給う 」と聖書にあるように、
自分のなくてならぬものを教えて下さる、ということになるわけであります。

「 自分 」が零(ゼロ)になって受身になることが、祈りのときの本当の正しい気持なので
あります。そして神様の御心に一心に聴き入る気持になるんです。

それを短時間二、三回唱(とな)えるだけでも、あるいは二、三分間、念ずるだけでも
よろしい。その位の時間ならば、どんな台所仕事をしておっても、
ちょっと電車に乗った時でも、煙草一服の時でも、できるということになるのであります。

それでこういう祈りの急所、こういう神想観のコツは、雑念を起さずに
自分のうちにまします神様の御心にジーッと聴き入る気持になることがポイントなんです。

短時間の神想観というのは倦(あ)きて来ませんから 雑念が却(かえ)って湧いて
来ないんです。

「 吾れ心を空しくして神の御心に従い奉る。神よ、吾に神の御心を示し給え 」―

これ位の言葉を唱えるのは、それを五、六回 唱えたり 二、三回 唱えたりするのは、
これは極(ご)く簡単です。簡単ですけれども、“ 言葉の力 ” というものは、
われわれの潜在意識に入って、そして潜在意識が宇宙意識を動かして、
そして自分の希望するものを実現して呉(く)れると、いうことになるわけであります。


【 「 完全な祈り 」 というものは? 】

ところで、「 完全な祈り 」というものは、問題を引っ提げて神様に
「 斯(こ)うして欲しい 」というのではないんです。― 尤(もっと)も、
そういう祈りが必要なときもある。だから、別段それは悪いというのではないのです。

けれども、本当に完全な祈りというものは、神様と一体(ひとつ)になってしまう。
自分がなくなって ー 「 我(が)」が無くなって、そして神様と一体(ひとつ)に
なってしまうことです。

神様の御心の中には全然悪はない、不幸はない、病気はない。
そうすれば、神様と一体(ひとつ)になれる。

「 先ず神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし 」、と聖書の中で
イエスが教えられたように、自然に善いものが出てくることになるわけであります。


【 神様に自分の願いを申し上げる祈り 】

しかし、神様に、こちらからわが希望を申し上げる祈りも、人は或る心境においては、
別に悪いということはないのです。魂がまだそこまで発達しない時には、赤ん坊が
お母ちゃんに祈るように、お母ちゃんに頼むように、

「お母ちゃん、これ頂戴(ちょうだい)」

と素直に祈るといいんです。
「お母ちゃん、これ頂戴」と、幼児(おさなご)がおねだりする。それは純粋な感情で
あって、その純粋な信頼の感じの中には、それは“もうきっとお母ちゃんは下さる”
という、そういう予期(よき)作用というか、全き信頼の期待が必ずあるのです。


で、皆さんの祈りもこの幼児の祈りのように、「 神様、これ頂戴 」と祈るんだったら、
“ 必ずそれは与え給う ”ということになる。

幼児が母親を信頼しているのと同じような信念をもつということが必要です。


だからイエスは、こう仰言(おっしゃ)っている ー

「 もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあらば、此の山に動いて海に入れと言うとも
必ず成らん 」と、こう仰言っているんです。「 もし辛子種ほどの信だにあらば 」です。

信だにあらばで“ 信 ”がなかったら駄目です。

それで「 神様、これを下さい 」と念じたら、“ ああッ、これはもうすでに・・・
この祈りは効(き)かれたのである!”という素直で純粋な信を、もつことによって、
山をも動いて海に入るというそういう・・・表現のように、われらの希望がどんな大きな
希望であっても実現する、ということになるわけであります。


            ( 了 )




繁栄は 数理的秩序によって積み重ねられて来る

2015-11-15 00:34:06 | 今日の光明法語

「 若しあなたが繁栄しようと思われますならば、自分の内にある“ 繁栄 ”を
引出して来なければなりません。」

・・・・・・

すべてのものは、外から近づいて来るように見えましても、実は 自分の内に
あるものが、外に映って 外から動き出してくるように見えているのであります。

鏡に向って 笑って 近づけば、鏡の中の人物も笑って 近づいてくるようなものです。
自分の中にある繁栄を引出してくれば、外の世界に於いても 繁栄が近づいてくる
のであります。

・・・・・・

自分の中にある「 繁栄 」とは、自分の中にある「 数理的先見 」です 。

・・・・・・

天体の運行も、私たちの肉体の呼吸や血液循環も新陳代謝も 悉く数理的
秩序によって行われているのであります。

・・・・・・

繁栄は 数理的秩序によって積み重ねられて来るものです。
だから繁栄を願うものは、単に「 繁栄せしめ給え 」と祈るよりも、

「 神よ、あなたの無限の智慧を与えたまいて、その智慧によってわが事業を
数理的に計画し実行することを得せしめ給え 」

と祈る方がよいのであります。

・・・・・・

智慧の中で最も精確なるものが 数理的秩序であります。
事業というものを成功させるには 色々の条件を精細に検討し 数理的に予算を立てて
堅実なる基礎の上に実行して行かねばなりません。

・・・・・・

富というのは、人を幸福にする善き智慧、あるいは人のためになる善きアイディア、
というものが、これが実現したら、それが富に変るわけなんであります。
だから、こういって祈るのがいいんですねぇ。

「 私の天分に適(かな)いまする出来るだけ多勢の人のためになります善き智慧を
与えたまえ。そしてそれを実現する力を与えたまえ 」

と念ずるといいのであります。


「 祈りの本質及びその七段階 」 谷口雅春先生
『 精神科学 』 昭和五十五年四月号




或る問題について神の示しを受ける一つの思念法

2015-11-14 12:22:42 | 今日の光明法語

次には 或る問題について 神の示(しめ)しを受ける一つの思念法を お話し致しましょう。

( 神示と言いましても 霊聴 又は 霊視的に神示が来るとは限らないので、
「 神は総(すべ)て 」 でありますから、神想観と共に全体の事件がひとりでに廻転して
よき解決に導いてくれることもあります。 )

先(ま)ず 招神歌(かみよびうた)四首(よんしゅ)を 黙誦 又は 朗誦したる後(のち)、
「 実相を観ずる歌 」 を数回 心に念じて、自己の心を無限の平和に置き、

「 神に於(おい)て 吾れすべての物と一体である。
吾れ すべてのものと和解し、吾れ すべてのものを赦したのである。
吾れ すべてのものとの間に怒りもなく、憎しみもなく、完全に平和であり、
本来の一体に帰ったのである。 」

こう繰返し三、四回念じて、少しの怒りも憎しみも不安も恐怖もない、
本来一体の平和の心境にジーッと坐(ざ)することにします。
そして その心境に達したとき、

「 吾れ すべての物と一体であるから、すべてのもの 吾(わ)がために動き、
すべての智慧 吾がために導くのである。 」

こう繰返し、繰返し念じつつ 宇宙に満つる無限の智慧と一体であるとの
感(かん)を充分に起して、やがて

「 必ず神は 吾がために必要な 智慧 と 動き とを与え給うものである 」

との深き大安人(だいあんしん)の期待の心を起し、
その神の導きに 吾がすべてを没入し切った心持(こころもち)を
ふかぶかと 心の中に起してから神想観を終り、

それが就寝前であれば、まかせ切った気持で安心して寝てしまう、と
翌朝以後に 神の導きが、智慧の上にあらわれて来るのであります。

諸君の願いが 他を害しない願いであれば、この神想観中、
自分自身を良化するための導きであろうとも、決して遠慮することなく、
神に呼びかけて差支えないのであります。

自己の希望を 神の大腹中(だいふくちゅう)に安坐(あんざ)させた気持になり、
われが天地そのものであり、天地全体が その希望実現のために動き出している、
天地全体の力が 吾(われ)に生きている という心境になるのであります。

かくの如き心境になり、万物と調和 し、神と調和した念(ねん)になる限り、
吾等(われら)に善き事の実現しない道理(どうり)はないのであります。
神は 決して神の子たる吾々の願いを拒絶し給うことはないのであります。


新編 『 生命の實相 』 ( 第14 巻 観行篇 「 神想観実修本義 」 上 101頁~103頁 )
谷 口 雅 春 先 生



就眠前十分間の神想観の勧め

2015-11-13 23:14:37 | 今日の光明法語

本書 観行篇 第一章に 就眠前 十分間の神想観を勧めてありますが、

覚醒中は 吾々の 「 念(ねん) 」 が外界の事件の移り代(かわ)りに気をとられて
刻々変化 致しますので、 「 念 」 を常に一定傾向にとどめておくことは
比較的難しいのでありますが、

睡眠前に 神想観をして、 「 念 」 を正しい傾向に向けておいてから眠りますと、
念の習慣性によりまして、 「 正しい念 」 を習慣的に持続して、

類は類を招(よ)ぶ 「 念の牽引力 」 によりまして、睡眠時間中 持続的に正しい念、
栄えの念を招(よ)び寄せ、その念の展開として、平和な事件、幸福な事件、
繁栄の事件などを引寄(ひきよ)せる事になるのであります。

神想観中の思念には 色々のやり方がありますが、本篇 第二章に述べてあるのは、
その基本的な形式でありまして、この形式で一、二ヵ月習熟して頂きましたら、
呼吸の方法は 習慣的に正しく静かになって来ますから、その時には もう呼吸にとらわれず、
「 実相 」 の完全円満な相(すがた)を念ずるということにして頂くのであります。

その一方法としては 本篇の「 扉(とびら)の頁(ぺーじ)」にある 「 実相を観(かん)
ずる歌 」 の如(ごと)く念じて頂くのであります。

あの歌の文句の通り、又は 自己の素養(そよう)に従って、自己に最もピッタリする言葉で
それと同(どう)意味の念をば 繰返し繰返し念じているうちに、

自己拡大の感(かん)が起(おこ)り、 「 実相(じっそう)即(そく)我(われ) 」
「 宇宙(うちゅう)即(そく)我(われ)」の境地に入(い)り、
小我(しょうが)なく、他我(たが)なく、一切包容の大我(たいが)に
帰入(きにゅう)した感じを味わうに至(いた)るのであります。

神想観は 「 術(じゅつ) 」 ではなく、 「 徹底(てってい)祈り 」 でありますから、
信念が通(つう)ずれば、形式 又は 用語に捉(とら)われる必要はなくして
十分効果があるのであります。


新編 『 生命の實相 』 ( 第14 巻 観行篇 「 神想観実修本義 」 上 99頁~101頁 )
谷 口 雅 春 先 生



実相を観ずる歌

2015-11-13 18:41:18 | 今日の光明法語

  ( 一 )

神はすべてのすべて、
神は完(また)き生命(いのち)、
神は完き叡智(みちえ)、
神は完き聖愛(みあい)。

すべてのものの内に、
神の生命(いのち)は生くる、
神の叡智(みちえ)は生くる、
神の聖愛(みあい)は生くる。

神はすべてにして、
すべて一体(ひとつ)なれば、
よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
ちから是(これ)を生かせり。

天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
唯(ただ)一つの神にませば、
天地(あめつち)は ただ一つに、
いと妙(たえ)に調和 満(み)つる。

吾(わ)れ坐(ざ)す 妙々(みょうみょう)実相世界
吾身(わがみ)は金剛(こんごう)実相(じっそう)神の子
万(よろ)ず 円満(えんまん)大調和(だいちょうわ)、
光明(こうみょう)遍照(へんじょう)実相世界。


  ( 二 )

神は生命(いのち)にして、
吾(わ)れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、
すべては吾れを生かす。

神は愛にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、
すべては吾れを愛す。

神は智慧(ちえ)にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、
全(すべ)てのもの吾(われ)を知れり。

神はすべてにして、
吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地(てんち)応(こた)え、
吾れ動けば宇宙(うちゅう)動く。

吾れ坐(ざ)す妙々(みょうみょう)実相世界
吾身(わがみ)は金剛(こんごう)実相(じっそう)神の子
万(よろ)ず 円満(えんまん)大調和(だいちょうわ)、
光明(こうみょう)遍照(へんじょう)実相世界。


新編 『 生命の實相 』 ( 第14 巻 観行篇 「 神想観実修本義 」 上 2頁~6頁 )
谷 口 雅 春 先 生




就寝前 神想観をおこなう

2015-11-12 16:15:14 | 今日の光明法語

さて いよいよ 自分の心の王国を 支配すべき方法論に 入(い)るべき順序となったのである。
吾々は 理想としては 恐怖(きょうふ)や怒(いか)りや嫉妬(しっと)や憎(にく)みの感情に
捉(とら)えられないようにしなければならぬ。

それには これらの激情(げきじょう)が催(もよお)して来た時に、
自分は 今 悪徳(あくとく)の断崖(だんがい)より堕(お)ちようとするのである。
再び かかる危険を冒(おか)すまいと思って、断崖の 今 一歩 の所で
踏(ふ)みとどまるべき ストア的の方法のあることは 既にのべた。
( 六ページ以降 ) ※ ストア的 ・・・ 克己的。禁欲的。

しかしながら 今 一層 根本的な方法が あるのである。
そもそも かかる色いろの悪感情が 起(おこ)るところの根本原因をしらべてみると、
唯(ただ)一つ恐怖の感情に 還元(かんげん)することが出来るであろう。

自分の存在が おびやかされる事を恐れるから、吾々は 腹がたつのである。
負けるかも知れぬと恐れるから、吾々は 嫉妬するのである。
彼が 自分に害を加えるであろうことを 恐れるから憎むのである。

だから この恐怖の感情一つを とり去ってしまえば、一切の悪感情は
指揮者(しきしゃ)のない雑兵(ぞうひょう)のように
木端(こっぱ)微塵(みじん)に散ってしまうのである。

ところが この恐怖の感情は 自分と神と一体である、自分は 大宇宙(だいうちゅう)とともに
生きている、たとい 外見(がいけん)は如何(いか)に見えようとも、
あらゆる事物(じぶつ)が 渾然(こんぜん)として 自分自身の生長のためのみに
運行しているという根本観念が、心の奥底(おくそこ)に植えつけられさえすれば
自然に消滅してしまうべき性質のものであるのだ。

ゲーツ教授は 毎日一時間 乃至(ないし)一時間半を費(ついや)して、
心の 最も楽しく幸福な愛他的(あいたてき)な感情を喚起(かんき)して
これを持続する勤行(ごんぎょう)を続けよ と言った。

「 生長の家 」 では 就寝前(しゅうしんぜん)十分間、時間が許(ゆる)せば
三十分でも一時間でも、合掌(がっしょう)静坐(せいざ)瞑目(めいもく)して、
この合掌をアンテナとして 大生命(だいせいめい)が 吾(わ)れに流れ入(い)り、
吾(わ)れが それと一体となると観(かん)ずる修行(しゅぎょう)をするのである。
( 後篇(こうへん) 「 観行(かんぎょう)篇 」 参照 )

この神想観によって 吾(われ)らが 最も深い境地(きょうち)に入(い)るときは、
吾(われ)らは この世界の支配者 ( 神 ) との無限の一致に 到達するのである。

かくして 吾らが 神との無限の一致に 到達するときは たとい外見がどう見えようとも、
万事(ばんじ)万物(ばんぶつ)が自己を中心として、自己を育ててくれるために
運行しているという霊的実感(れいてきじっかん)が たましいの底の深いところから
湧(わ)きあがってくるのである。

この神秘な霊的実感に触(ふ)れるとき、吾らは 吾らに触れるすべてを、それが一見(いっけん)
どんなに 不幸な事実であろうとも、ただ そこに自分を一層 偉大に育てようとしてのみ
作用(はたら)いている 摂理(せつり)の慈手(じしゅ)を感じて、
唯(ただ)ありがたく拝(おが)まして頂くことが 出来るようになるのである。

たとい 人が 自分に侮蔑(ぶべつ)や危害(きがい)を加えようとも、
それが自分のたましいの花を ひらかす温(あたた)かい神の息吹(いぶき)と感じられ、
おのずから合掌されるようになるのである。

この境地に達するとき、吾らより恐怖の根本感情は 除(のぞ)かれる。
吾らは もはや怒りや嫉妬や憎悪の激情を抑(おさ)えたり、怺(こら)えたりする
克己的(こっきてき)修養(しゅうよう)を超越(ちょうえつ)してしまうのである。
吾らは 完全に それらの悪感情から解脱(げだつ)する。

そして あらゆるものが ただ有(あ)り難(がた)い、あらゆるものが感謝される。
「 生長の家 」 の生き方は かくの如(ごと)くして、あらゆる不幸も苦痛も迫害(はくがい)も
ただ一つの 「 聖悦(せいえつ)の坩堝(るつぼ) 」 の中で溶(と)かして
これを 自己のたましいの生長の養分に かえてしまうのである。

新編 『 生命の實相 』 ( 第 13 巻 生活篇 「 生長の家の生き方 」 下 14頁~17頁 )
谷 口 雅 春 先 生



「 今こそ憲法改正を!1万人大会 」 主催者代表櫻井よしこ氏の御挨拶

2015-11-11 13:17:02 | 今日の光明法語

11月10日(火)、「 今こそ憲法改正を ! 1万人大会 」

日本武道館において、一万一千三百名余り ( 中央ステージを囲むように、

一階、二階、三階が ほぼ満席 )の参加者のもと、盛大に 開催された。


有識者でつくる 「 美しい日本の憲法をつくる国民の会 」の共同代表で

ジャーナリストの櫻井よしこ氏が主催者代表としてご挨拶をされた。


https://www.youtube.com/watch?v=MNQE_-jCtLo


主催者代表 櫻井よしこ氏のご挨拶


皆さん、こんにちは。 「 美しい日本の憲法をつくる国民の会 」 を主催し、

今日ここに1万人の皆様方の参加を得たことを心からの喜びといたします。ありがとうございます。


日本国憲法施行から実に68年。戦後70年の今、私たちは憲法改正の機は熟しつつあると

とらえています。憲法は国の基(もとい)です。その時代、その時代、日本国の発展と繁栄、

国民の幸福と安寧な暮らしを守っていくためには、日本国自身が国際情勢の変化に 賢く機敏に

対応していかなければなりません。


そして今、世界は 驚くほど大きく変化しています。

南シナ海と東シナ海における中国の行動や、ウクライナと中東におけるロシアの行動は、

国際法の順守や問題の平和的解決という決まり事を、力の行使で現状変更を迫る手法で

取って替えるものです。


国際法に基づいて秩序と平和を維持するのか。力によって平和を壊し秩序を変えるのか。

私たちは そのどちらを世界の基盤とするのか。その答えは明らかであります。


そうした中で、どの国もまず第一に、どのようにして自国を守り通すかという課題に

直面しています。同時に、よりよい世界の構築にどのように貢献していけるかという課題も

与えられています。


まず私たちは問わなければなりません。現行の日本国憲法で、果たして日本国民と日本国を

守り通すことができるのかと。答えは否でありましょう。

現行の日本国憲法では、力による現状変更を続ける国々の脅威に対して、

わが国は まともに対処することができません。


また、大規模な自然災害に対しても、緊急事態条項さえない現行憲法では、

国民の命を守り通すことは困難です。そのほか、現行憲法には 家庭のあり方も含めて、

いくつもの問題点があることは 改めて強調するまでもありません。


したがって、私たちはこうも問うべきでしょう。戦後70年、私たちのこの祖国で、

日本 本来の長い歴史と文化、文明は大事にされてきたかと。国の根本規範である憲法に、

日本らしさは しっかりと表現されているのかと。答えは またもや否であります。


本来、日本の神髄を凝縮して表現していなければならないのが 憲法前文ですが、

現在の前文は 実は外国のさまざまな文章の寄せ集めです。

現代風にいうと「 コピペ 」 であります。


そこには 日本の歴史も、私たちのご先祖が大切にしてきた さまざまな価値観も、

全く反映されていません。

聖徳太子の十七条憲法明治天皇の五箇条の御誓文の基調をなしているのは、

長い歴史の中で育んできた穏やかな文明観であります。国民を慈しみ、国民が互いを尊重し、

日本の国柄を大切にする。しかし、日本だけの狭い考えに固執することなく、広く外の

世界に学び、国際社会と調和していく。この精神をわが国は大切にしてまいりました。


穏やかに暮らしつつ、道義を重んじ、雄々しさを尊んだのが、日本本来の国柄であります。

それが現行憲法には全く反映されていません。


現在、戦後初めて 衆参両院で 憲法改正の発議に必要な3分の2の議席の確保が

可能な状況が生まれています。

だからこそ 今なすべき大切なことは、国民全員がなぜ憲法改正が必要なのかを

互いに確認し合うことでありましょう。

憲法問題への理解を深め、改正への決意を新たにし、

その思いをいよいよ固くしていくことでありましょう。

広く議論し、来年7月の参院選を一つの目標として、憲法改正の実現に向けて、

全員の力を結集してまいりましょう。


今日ここに 集いました熱い心を さらなる力の源泉として、

日本国憲法を本当の意味で日本国民の手に取り戻すために、

全国津々浦々、日本を愛する みんなの力を合わせて、一緒に改正を実現してまいりましょう。

今日は本当にありがとうございました。


http://www.sankei.com/premium/news/151110/prm1511100013-n1.html?pdm_ref=rna



谷口雅春先生のお弟子へ

2015-11-10 07:47:15 | 今日の光明法語
      生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師

     『 個性を発揮しながら 中心を逸脱しないこと 』

創始者への恩を背かず、創始者の発見した真理の基礎の上に立ちながら、

単なるその亜流にならずに、独創的な業績あげ、世界の文化に貢献しつつ、

世界の渦の中に巻き込まれて個性を失うようなことはせず、

更に一層大きく発展させるものこそ 真に創始者の弟子だということが出来るのである。


真理は中心であり、創始者は その中心の周囲に 自己の時間の許す限りの輪を描く。

彼の人生の時間には限りがあるから、ある程度以上に大きな円を描くことはできない。

次に続くものが、創始者の円の上に同じような円を重ねて描く。

そして 一歩もその円周は 創始者のそれよりも大きくならないならば、これが所謂 亜流である。


しかし同じ中心を周って図を描きながら 創始者よりも包容面積の広い同心円を描く。

更にその次に続く者は一層 直径の広い同心円を描く。

それは同心円であるから真理の中心から逸脱する事はない。


こうして多数の後に続く者が より一層 包容面積の広い同心円を描きながら、

その真理から拡がっていく。

しかも その同心円は 中心から外れていないから 自然にひとつの中心に集まる組織となっていて、

その団結が崩れる事がない。


そして その同心円を 仮に黄色とか緑色とか紫色とかに着色してみると美しい図柄ができる。

その各々異なる色合いが その後継思想家の個性を表現するものと理解すればよい。


     『 理想世界 』  昭和46年4月号 より

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19694729.html


大聖師御講義 『 続々甘露の法雨 』 第 四十六 話

2015-11-09 23:12:55 | 今日の光明法語

天使つづいて説きたまう。
家庭の争い、
嫉妬、
憎悪、
復讐、
憤怒の念(こころ) ―
全ての悪念は 健康の恢復(かいふく)を妨(さまた)ぐるなり。
若(も)し かかる悪感情 起(おこ)らば
速(すみや)かに 「 神の子 ・ 人間 」 に 本来 かかる悪感情 無しと観じて、
かかる悪感情を断ち切るべし。


『 生命の實相 』 を読み、人間は “ 神の子 ” であって、本来完全円満であるから
病気は無いという “ 実相哲学 ” が理解できたつもりでいるのに、
どういうものか病気が治らないで悩んでいる人があります。

こんな場合には、家庭の内部に人間関係で 不調和 が ありはしないかを
脚下照顧(きゃっかしょうこ)し、反省し、家庭内に暗黙のうちに争いの精神状態 又は、
嫉妬(しっと)、憎悪(ぞうお)、復讐(ふくしゅう)、憤怒(ふんぬ)
その他 いろいろの反感や逆念やが もしあれば、それを解消するために、
もし自分が あやまった方がよいと思うならば、素直にあやまり、互いに打ち融(と)けて
感謝し合い、調和 の心境に、家族中が なることが出来れば、その病気は消えてしまうのであります。

爰(ここ)に、 「 家庭の争い、嫉妬、憎悪、復讐、憤怒の念(こころ)― 全ての悪念は
健康の恢復を妨ぐるなり 」 と示されているのは そのためであります。

何故 これらの悪念が家庭に わだかまっていますと、 「 人間 ・ 神の子 」 の真理が
わかっていながら、病気が治らないかと言いますと、
本当に自分が “ 神の子 ” だと悟れているならば、嫉妬や、憎しみや、恨みや、怒りや、
悲しみや、口惜(くや)しさなどの感情が 起る筈はないのであります。

そんな不浄な悪感情や悪想念が起るのは、 “ 人間 ・ 神の子 ” の真理が、
頭脳(あたま)の表面(うわつら)では わかっていましても、
潜在意識の底の底まで 全身全霊をもって “ 人間 ・ 神の子 ” の真理を自覚し得て
いないからであります。

それに “ 人間 ・ 神の子 ” の真理を頭脳(あたま)で理解していましても、憎しみや、
争いや、恨み、悲しみ 又は 不平 等(など)の感情がありますと、
現象世界というものは、心の所現でありますから、その心の通りの形が 肉体や環境に
あらわれて来るのは当然なのであります。

だから心の中に、不平や怒りの “ 心の固まり ” が出来ますと、その感情を長くもち続けますと、
やがて それが肉体に具象化して、肉体に癌とか腫瘍とかの固塊(かたまり)があらわれて
来るのであります。

だから そんな病気があらわれていましたら、 『 生命の實相 』 をよく読んで
「 人間 本来、病いなし 」 の真理を 尚 一層 知ると同時に、
“ 本来ない ” ところの病いが あらわれているのは、「 自分の心の反映(かげ)」 であると知り、

心を一変して 心に感謝 の念を満たし、教えを真剣に行(ぎょう)ずるようにすると、
本来 無い病いなのだから、 “ 無 ” の実相をあらわして 消えてしまうのであります。 ・・・・・

次の体験談をよく読んで、人間 ・ 神の子の真理を悟ると同時に、自分の心を変えることが
必要だということを悟って頂きたいのであります。


大聖師御講義 『 続々甘露の法雨 』 ( 677頁 ~ 680頁 ) 谷 口 雅 春 先 生 著 
谷 口 清 超 先 生 編 纂
谷口雅春大聖師 御生誕 百年記念出版