☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

お蔭信仰について

2013-12-12 21:21:31 | 今日の光明法語

対立的信仰から絶対一元の信仰へ

現世の生活を幸福にしたいと思いながらも、「現世」を「実相の世界」と対立させている限りに於いては、現世は不完全であり、対立の世界には摩擦は不可避のものとなってしまうのであります。

現世の問題に心の法則を当て嵌(は)めて、旨く処理してやろうと云う考えは、或る程度成功するけれども、全然は調和したものとはならないのであります。

現世を幸福にする“ため”にその手段として「実相の世界」の完全さを観想すると云うのであれば、現世を実在の世界として考えているために本当に「実相一元」「光明一元」「本来悪なし、本来不幸なし」になり切らないのであります。

大抵の人は、真理への入門当時は、病気を治したい、経済を豊かにしたい、家庭を調和したい、この程度の現世利益的ねがいで来るのであります。

しかしやがて、「治すべき病気本来なし」「貧乏本来なし」「本来家庭の不調和なし」の実相を体得するに至るでしょう。


現世利益をねがう信仰の弊害

現世利益をねがう信仰と云うものは、真理をもって物質世界を支配し、物質的オカゲを得ようとするのであるから、「物質あり」の観念をぬけ切ることができない、其処にどうしても「光一元」になり切れない憾みがあります。

従って、物質世界の一高一低の波動に支配されることが免れがたいのであります。
それは現世利益が整うたときには、天にも昇ったような高揚したよろこびが続くかと思えば、現象世界の波で現世利益が低下したときには奈落の底に落ちたような失意落胆がおこりがちです。

このような一高一低変化動揺きわまりなき状態を克服するには、物質世界を真理によって支配しようと云うような対立二元の考えを捨てて、ただ真理のみの実相世界、ただ光明のみの実相世界―それのみを“ある”として、それのみを見詰めて、常にそれを感謝する生活を送らねばならぬのであります。

併し、そうすれば自然に現世利益が求めずとも随伴するのでありまして、それは親鸞聖人作の『現世利益和讃』にある通りであります。


現象の波を超えて

「わが国は此の世の国に非ず」とキリストは言われたのであるが、「此の世の国は唯影に過ぎざるなり」と『甘露の法雨』には喝破されているのであります。

「唯影に過ぎざるなり」と云う喝破は、「此の世の国」即ち「現世」の完全なる否定である。

現世の完全なる否定のみが、実相完全の世界の全肯定となります。そして実相完全の世界の全肯定は結局、その影を現象界にうつして、現象界が整うのであるけれども、「現象世界が整う」と言うと、忽ち現象世界へ心を執着させて、「宝の車」(現象の善きものの譬)を馬(実相の動力)の前にむすびつけて、「宝の車」を走らせようとするならば却って「宝の車」はいっかな進まず、「現象少しも思うままにならぬ」と歎かなければならぬようになるのであります。

現象の波に乗って、経済状態がよくなったからとて、それは信仰の高い証拠でもなければ、悟りの深い証拠でもないのであります。そう云う経済状態の良さは現象の波に乗るだけであったら、いずれは波の下降するときには深く奈落に沈むことにもなります。


霊的実在とお蔭との関係

法華経に三車火宅の譬(たとえ)があります。火宅はやがて滅びて行く現象世界の譬であり、三車は現象世界の「宝の車」であります。現象世界の宝に執着している限りは、火宅は焼け落ちて、その下敷になって死ぬるほかはないのであります。

しかし、火宅の下で「現象界の宝」のもてあそびに熱中している子供(幼稚な魂)を救い出すには別の玩具(やがてくだけるもので、本物ではないお蔭)を与えるほかはないのであります。

これが或る種の宗教で得られる現世利益です。しかしそのお蔭は玩具であって実物ではないのであるから、やがて壊けるときが来るのであります。その壊けるときに信仰を墜(おと)してしまうようでは、本当の信仰ではありません。

すべてのお蔭は「影」であるからその本源は霊的実在の世界から来るのであります。
そして、お蔭は霊的実在を把握させるための方便にすぎないのであります。
いつまでもお蔭にしがみついて霊的実在を忘れたら本末顛倒になります。



新版『 真理 』第8巻 信仰篇 ( P22 - P25 ) 谷口雅春 大聖師



人生を善くする根本的悟り (21) 〈了〉

2013-12-05 17:18:10 | 今日の光明法語


家庭に問題が起った場合には


家庭に於きましても、善くないことをした人に、 「 怪(け)しからん 」 と言って

叱(しか)りつけると、 “ あいつは叱りやがった、癪(しゃく)に触る! 誰が言うことを

諾(き)いてやるものか! ” という気持になりましょう ?


それはまあ “ 雲を払う ” つもりで雲をつかんで抛(な)げつけているということになるわけです。

即ち “ あいつが悪いことをした、悪いことをやめさせよう ” と言って

雲をつかんでいることになるんです。


ところが、そういう間違いがあっても決して咎(とが)めないで、

「 あの人はそういう間違いをするような人じゃないんだ、善(い)い人なんだ 」 と、「 本来善い

人なんだ 」 と、 「 あれは何かひょっとした都合で 雲が出て来ただけのことなんだ 」 というわけで、

雲を跳び越えて その奥にあるその人の 「 実相 」 を観るんですね。


そうするとその “ 実相の完全な相 ” が顕(あら)われてくるということになるわけなんです。



子供の教育も同じ調子に


そうなると、子供を教育するのでも何もむつかしいことはない。

いままでは、悪いところを掴まえて何とか善くしようと思う教育だから難しかった。

ところが、本来 「 善い子供 」 だということがわかれば、それを “ 言葉の力 ” で引き出せばよい。

そうすると忽(たちま)ちその人は善くなるわけなんです。

その実例は 『 生命の實相 』 の教育篇にたくさん書いてあります。 〈了〉



『 光の泉 』 昭和四十二年四月号  谷口雅春大聖師




人生を善くする根本的悟り (20)

2013-12-04 15:32:51 | 今日の光明法語



あなたが自分で何とか治そうと思っていた時には、内部に宿っている神の生命が、

「 俺が何とか治してやろうかと思うとったけれども、

あんまり彼奴(あいつ)は自分で何とかしようと思うとるから、

まあまあ彼奴のやるのを見とってやれ 」 というわけで、

その、自分に宿っている “ 大いなる力 ” が働かずに傍観しておったのです。

だから快(よ)くならなかったんですね。その傍観を止めて貰(もら)う。そして神様に働いて貰う。


それには吾々は神様の方へふり向いて、

「 神様どうぞ頼みます。いままで 我の力でなんとかやってみたけれども、駄目でした。

もう我の力には見切りをつけました 」 というのが、一向専心ですね。

雑業雑修の心を振り捨てるんです。そして仏様の方へクラリッと向くんです。

これが、一躍 「 実相 」 の方へ跳び込むということなんです。



雲は捨てておいたら消える


雲を跳び越えて雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び込むんです。

雲を吹き払う術を考えなくてはならないと思って、いろいろと雲を追い払う実験をしておっても、

それでは駄目ですね。雲というものは捨てておいたら 結局 霽(は)れてしまうものです。


現象界の一切のゴタゴタや人と人との不調和でも、肉体の病気でも、或(ある)いは事業の失敗でも、・・・

そんなものはみな雲なんです。常に移り変る現象の姿なんです。

雲はいつも一定の形なんてありゃしない。始終変っているんです。


変るということは、此の前にも言ったように “ どんな悪いものでも永続性がない ” ということである、

うれしいですね。― 悪いものが出ておっても、頑としてそれが永続していると思ったら、

これは堪(たま)らないけれども ー “ どんな現象の姿も永続性がないんだ ” ということがわかったら、

もうこんなうれしいことはない。


雲はきっと霽(はれ)れる、霽れない雲なんて見たことないでしょう。

皆さんがどんなに現在 不幸であっても、病気であっても ー 悪いものは一つも非実在(ない)のだ。

ナイものはないんだ。それは唯、一時(じ)そう見えているだけのことである。

「 現象 」 を超えて 「 実相 」 の中に跳び込むんです。


つづく・・・




人生を善くする根本的悟り (19)

2013-12-03 17:43:12 | 今日の光明法語


あなたに病気があらわれたら


あなたが病気なら、 「 病気を治そう 」 と思うことは要(い)らんのです。

もう治療の方は医者にまかしといたらいいんです。

生命(いのち)の方は神様にまかしといたらいい。

自分がどうせんならんということはない。


自分が “ 生まれよう ” 思って生れて来た命(いのち)ではない。

自分が “ こんな肉体を拵(こしら)えてやろう ” と設計して拵えた肉体ではない。

神がちゃーんと完全に設計して拵えた。


卵の中に、心臓も脳髄も肺臓も胃腸も腎臓もなにもないんです。

ナニもない卵から一切のものを拵えた大いなる知慧が 大いなる生命(いのち)が、

それが自分の中に宿っている ー それが神だ。それに全託(まか)しておけばいいんです。


クラリッと自分の内に宿っている神の生命に全託(まか)せるんです。

そうすると神の生命が本当に動き出してくるのです。



つづく・・・