母が、乳がんだって

2009年6月末、70歳の母から「乳がんになった」と言われました。

退院後の再診

2009-08-08 18:40:22 | 日記
帰宅して、3日ほどははしゃいでいたが4日目ぐらいから、
痛みと、本人の表現によると「ショックの揺り戻し」が出てきて
ちょっとしんみりしていることが増えた。
食欲は変わらず、食べたいものを食べたいだけ食べている。
でも入院前から、1,5kg減ったという。

私もそれなりにやつれ痩せしてしまい、
一切の事情を話していない職場の若い子から心配された。
普段は頑丈な弟も気が抜けてしまい、熱が出て数日寝込んだらしい。

金曜の診察で、傷口の抜糸とガーゼ交換があり、C先生から判った範囲の病理結果を聞く。
抜糸などは処置室でやったので、父を入れさせずに済んだ。
電子カルテの表示は結構長い文だったのに、さらっと概要を話すだけで
やっぱりプリントアウトはしてくれなかった。
5,6年ほどかけて今回の梅干し種サイズのしこりになっていったのだろう、とは説明された。
あの砂粒のような1つか2つを自分で気づくのは確かに無理だ。
でもあんなに広がっていても、ステージ1ではないという。
ステージ0.7ぐらい、と表現された。

傷口の化膿がまったく無いのはとても良いのだけれど、
まだお風呂もシャワーもダメと言われたので
ちょっとめげてしまった。
だけど、今回処方された薬はロキソニンとムコスタだけだったので
気楽になったらしく、母の表情が少し緩んだ。

続いてA先生とも話す。
信頼は出来るけど、私はどうしても好きになれなかった。
そもそもは、患者は母なのに、父にばかり話しかけているのが気に入らなかったのだけど、
それよりもはっきりした理由がわかった。父と気が合う理由も何となく判った。

別の勤務先で新しいデジタルマンモグラフィの機械を導入したそうで、
「小さい初期のもよく見つかるんで、非常に良いんですよ」
文字では何とも伝わらないけど、この言い方が受け付けられなかった。
ホントに、技術的には確かな名医なのだろう。
それはもう、ものすごーく偉い大先生なのだろう。

でも、がんと判ることのショックは、初期も末期も同じだと思う。
がんに限らない。大変な病気は他にもたくさんある。
他人の病気を見つけて、そんなに嬉しいの?
(これこそが外科医向きの性格なのかもしれないけど、でもC先生は違った)
病理結果の説明は、目の前の「母に」向かって何秒話した?
最後に、私に向かって「お義理」で「乳がん検診は受けて下さいね」と言った。
この変な無神経さが、父と同タイプ。気が合うわけだ。
祖母が治療したんだから、市の検診案内が来る年になってからは受けている。
私は「幸いまだ見つかってない」だけのことだ。
でも「はい」としか答えなかった。

エヘラエヘラと一緒に嬉しそうに笑っている父は、
母の病状には触れず(良くも悪くも、大先生が興味を持つような症例ではなかったから)、
スゴイ機械の性能やら治療方法の幅が広がる話をする偉い偉いA先生と
「とても気の合う友達」
なので、満面の笑みなのだ。

次は2週間後。いくらなんでも、もうC先生だけと思いたいが、
父と雑談したいA先生が何か言ってくればまた付いて来ちゃうな-。

帰りのバスで
「幸いまだ乳がんは見つかってません、子宮がんもまだ見つかってません」
と返事してやろうかと思った、と母に言ったら
「新しいマンモグラフィやりませんかってお義理でお誘いされるだけでしょ」
だから「ハイ」とだけ言った理由、母には判っていた。

母もゲンナリしていたらしく、私の出勤時刻まで少し時間があったので、
新宿のデパートでやっていた骨董品市イベント覗きに、つきあって欲しいと言い出す。
入院時の荷物に鬼平犯科帳を数冊持って行ったせいか、江戸時代の煙管や十手を見てはしゃぐ。

こんな感じならもう、眠剤いらないかと思って金曜は飲まずに寝たが、
3,4回目覚めてしまった。

体力が落ちるとまた何かなると思ったので、今朝、内科のE先生に相談。
ここ数日の頭痛は眠剤の副作用だろうとも言われ、
いつか来る日に備え、薬に慣れる練習と思うようにと諭され、
抗不安系よりは、今はまだ眠るほうでマシになれば、ということで眠剤に。
薬無し、は、もう私も諦めている。当分は。
E先生は、なんかの権威になるにはちょっと遠いタイプだけど、
助けようとしてくれる先生だな、と思った。

薬局でも頼めば錠剤を半分にカットしてくれるそうだけど、
なんか自分でやりたくて、一昨日錠剤カッターを注文して、今日届いた。
今回は、一錠じゃなくて、半錠で様子を見るのだ。

やっぱり変わらない父

2009-08-02 22:36:42 | 日記
母は今朝6時頃、病院風に早起きし、
家の外の風景(寂れかかった郊外のショボイ景色)を数十分眺めていた。
入院中、非常に飢えていた1つ、朝のコーヒーを飲んで幸せそうにしていた。

そして帰宅後に聞く母の愚痴。
三百歩譲って、父本人はいたわってるつもりなのかもしれない。
ちょっとピリピリした痛みが走り、動きが一瞬止まった後、
「どこがどういう痛み方なのか、傷口かドレーンの跡が痛むのか」のような
質問って、これ何?聞いたら痛みがなくなるの?何かしてくれるの?
私の痛みは研究材料か何かか?
先生達からの説明は聞き流していたのか何なのか、
「センチネル検査は痛かったのか、そのせいで痛いのでは」
手術中にやる検査だってA先生からもC先生からも説明されたのに...
様々ながんの勉強をしろって、胃がんの勉強したら乳がんが治るのか?
etcetc

あーあ、やっぱり...。

これは昔々、私の近視で眼鏡が必要になった小学生の頃と同じパターン。
父は近視ではなかったので、理解できず、8歳児に近視の説明をさせようとした。
そして、子どもだから近眼は治ると言いだし(根拠不明)、私は数年以上、散々な目に遭った。
(そのうち飽きてうやむやになり、弟が中学生で近視になったときは放っておかれた)

好奇心は旺盛だが、統一性と集中力と想像力がないので
年寄りの道楽にもなっていない。

金曜日にA先生C先生の診察があるけど、母は傷口を父には見られたくないので、私にも来て欲しいと言う。
傷を診ていただく際、引きずり出すタイミングをはかるプランを練らねばならない。できるかなー。
(何と言うか、悪意無くフリークショー感覚で覗きたがる)
私には、鎖骨の下までを少しだけ見せたけど、
失った箇所は私にも弟にも見せたくないと言う。
父方の祖母は、現在はほぼ寝たきりに近いが、意識はシャンとしていて
今でも約38年前の手術跡を叔母達に絶対に見せていない。
身体を清めるのを叔母達にはさせないのだ。

私は見て、というなら見るけど、
見せたくないのだから、絶対に見ない。
病室でも、チェックしていただいている間、私は席を外した。

やっぱウチだけだろうなあ、こんな悩みって

術後経過は良いので明日退院

2009-07-31 21:48:08 | 日記
朝早起きして病院に行き、ちょっと話してから出勤し、
定時で飛び出して、ちょっと話して帰宅の日々はしんどかった。
でも大病院に家族が入院している人は、皆さんほぼ似たようなことだし、
うちの入院期間は長期じゃない。
それに、昔の1ヶ月半の検査入院の時には言わなかったのに、
「今日はいつ来てくれるのかなって思うとワクワクして...」というので
数日のことだからと張り切ってしまい、私もちょっと疲れが出てきたか、少し咳が出始めた。

点滴は手術の翌朝取れたが、ドレーンバッグは今日の午後までだった。
これ使っている間は、混んでるから食事室での食事はダメ。病室で食べる。
管がひっかかったりしたら大変、が理由らしい。

母もこういう細かい理由までは知らなかったんだけど、
木曜日に、父がA先生に会いに来た際(待ち合わせを病室にするなよ)、
お昼を一緒にする気は無かったから、帰って欲しかったのに
父は階下のコンビニ弁当買ってきて病室の中で一緒に食べようとした。
病室では面会者の飲食禁止なのだから、それはいくらなんでも、
と食事室に移動して(もちろんトレイは母が自分で運ぶ)
渋々一緒に食べて、戻ったら、ナースさんに結構叱られたって、ちょっとしょげていた。

もちろん少し痛がるけど、リハビリも良い感じに出来ているようなので
出来れば、回数を決めたメニュー組んだ方がいいのか聞けたらなーと思ったが、
大病院だから諦めるしかない。
聞こうにも、そもそも人が歩いていない。

母は、父の前では、頑なに痛いとは言わないようにしてる。
(で、帰ったら、2年間毎日「痛い」って言い続けるつもりだそうだ)
近所の整形では、4時間たてば次を飲んでいいと言われてる痛み止めが
ここでは6時間後でないと許してもらえないので、なかなかお願いするタイミングが難しかった。

それでも年の割に、経過が良いらしく、ドレーンバッグも今日の夕方取れた。
管に付いているポンプ?で液を動かすのが楽しいと何度もやってみせていたが、異物は異物、うっとうしかったという。
取れたら母がすっきりしてしまい、勝手に決められたあれこれの文句を言わなくなった。

私だけが心配していた、保険適用外の検査費用も払える範囲内だった。
そりゃ払うけど、入院決める前に説明してくれても良かったのに、と。
その他モロモロの費用の心配も一段落した。
弟も安心しきってしまい、文句言うのは私だけになってしまった。

退院時に使う肌着の相談も準備もできなかったし、
(あげく本人が面倒がってしまった)
なんかこれからが大変。
神経質になりすぎていると自分でも少し思うけど、
うちは父も弟ものんきすぎる。

父は2年は痛いと言ったA先生の言葉を忘れ、
知人に「半年で治る」とメールを送っていて、
母をあきれさせた。

父も弟も、母がもう元気になったと思っている。やっぱりな。
母自身は、術後からずっと、なんかテンション上がっていると自覚している。
私は急にことが運びすぎた、その反動が怖い。
母が謎の悟りをひらいて変な教祖サマになる心配はないけど。

私はまだしばらく睡眠薬が必要みたい。

手術終わり

2009-07-28 21:54:08 | 日記
筋肉にはメスを入れず、術中の検査でもリンパ節転移は見られなかったので
予想以上に早く終わり、麻酔から覚めるのも早かったので、
病棟ナースさんが慌てるほど早く病室に帰ってきた。
でもすぐ次の手術を待っている他の患者さんがいる(母の耳に聞こえてきた)、
これが日常なのだから、皆さんには本当に頭が下がる。

忙しいはずのC先生が病室にいらして、
その時点で判った範囲の結果を知らせていただく。
輸血も必要なく、短時間で終わったので、消耗は心配ないそうだ。
確かに帰ってきた時は疲れた顔していたけど、血色は悪くなかった。

A先生からは、2年間ほど傷の痛みがあると伺う。
父は直接聞いたのに、あまり理解できないみたいだった。
母は「まったく判ってないね」と言い放つ。

酸素マスクが取れるまでは、○の話をし、続いて◆の話をする、という感じで
それぞれ意味は通るけど突然違う話をし、急にうとうとしていた。
寝惚けている、に近いと聞いていたが、確かにそんな感じだった。

マスクが取れると、喋る喋る。
麻酔が効いてくるまでに手術室をもっと見ておけば良かったとか
切り取ったものを見せて欲しいと言うのを忘れたとか
お腹空いた、口が渇く(喉の渇きは点滴で感じない)

明日、A先生が様子を見に、一瞬立ち寄っていただけるというので
母は「もう来なくて良い」と言ったのに、父はまた来ると言い出す。

主に鈍痛が多かったようだが、父が病室にいる間は口にしなかったけど、
C先生の来室後何もすることがない(しない)父に帰宅を促し、
そそくさと(本当に)帰っていった後、
痛みをちょっとずつ愚痴るように訴え始める。
意固地になっているので、父への抵抗のつもりでか、かなり我慢していたのだ。
咳に慣れていないので、少し出るらしい痰も上手く出せない。

どこまで自力でやらせてよくて、何をやっちゃダメなのか
渡された資料では判断できず、私も相当動揺してしまい
誰かに聞こうと飛び出すと、フロア看護師長さんしかいない...。
うろたえたあまり恥ずかしい質問の仕方をしてしまう。

弟が仕事を早退して来てからは、更に喋る喋る喋る。
弟は元気そうで良かったと嬉しそうだけど、
これは私が完全にナーバスになっているんだろう、
母がスーパーハイテンションになっているだけな気がする。
喜んでいても、病人を興奮させてはいけないという意味が分かった。

帰りの電車を待つホームで、携帯ニュースをチェックした瞬間、
私と同年の川村かおり(私の中ではこっち)さんの訃報記事。
帰宅まではなんとかこらえ、部屋で声を出さずに大泣き。
逃げずにまっすぐ立ち向かう勇気を彼女はずっと持っていただろう

ちょっと落ち着かない入院

2009-07-27 23:01:05 | 日記
朝9時半着。

基本説明を本来する事務の方の手が空かず、担当ナースさんから全説明。
この時点で初めて手術の内容(名称?)を知った母と私。
「胸筋温存左センチネルリンパ節除去」の文字が見えた。
ナースさん、さすがプロなので驚きは一瞬。
「まだ殆ど何もご存じない段階」の記録を淡々と。

薬の話や、各担当からの説明スケジュールを伺う。
父は偉い立場の先生にしか興味無いので、
病棟担当のお医者さんとナースさんの区別が付かない。
手術室の担当ナースさんや麻酔医の先生の説明もパスして院内設備探索。

そうこうするうちに弟も来た。
ようやく術前説明をC先生から受け、様々な同意書にサイン。
ステージ1までは行ってない初期と思われる、ただ乳頭付近にあるので
胸筋から上の切除が最適な治療です、という
映像見ながらの説明で理解はしたけど、
前日にコレ全部一気に言われるのってやっぱり何だかなあ。

父はがんの勉強をしたと言い張る割りに、的外れな質問を繰り返す。
ほぼ毎日、こういう聞いてるようで聞いていない年寄りの
相手には慣れていると思うが、
先生達に申し訳ない気分になってしまう。

父はコネを使ってここまで早く進められたことを
弟へ自慢げに語る語る。
私も母も、コネ診察なんて最悪だと
それぞれ愚痴メールしているので
さすがに苦笑いするしかなかったみたいだ。

父は、C先生から、術後の経過を見て継続しての診察が必要、
の話はもう全然聞いてなくて、
手術の方法や今の段階で推測される病状をオウム返しの再質問。
(あんなにものすごく判りやすい説明だったのに)
その根底にあるのは、A先生来るかと思っていて来なかったし
だったら何か質問しないと勿体ない、という妙な考え。
この変な思考にはずっといっしょにいないと気がつかないけど。

だから弟には「もうすっかり老人なんだから、変な言葉はスルーしろ」と
叱られたけど、アンタはたまにしか会わないからそう言えるんだと
心の中で言い返す。

善意の暴言も無神経な行動も四六時中よ、
ここ数年程度のことじゃなくて、
私達が子どもの頃からそうだったでしょ、
って、もうきれいに忘れてるあたりが父親の息子

母は、弟ともう少し話したかったが、
父が時間ぎりぎりまで一緒にいようとするのに
耐えきれず、諦めて病室の外へ我々を追い出す。

元々誰にでもそうだけど、
今日という日になっても、
母をいたわり、気遣う言葉も行動も
相変わらず、まったく無い。

病院の枕が合わないので、
明日は普段使っているのを持っていく。
サンダルも冷え予防靴下と一緒では無理だったので
別のを持って行く。

少しでもやることがあると、泣かないで済む。