フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

記念館にて中也を想う PENSER A CHUYA AU MUSEE MEMORIAL

2006-11-14 21:28:07 | 俳句、詩

雨が止むのを待って県立美術館を離れ、歩き始める。バスが来たので目的地に行くのか運転手に聞いてみるが、よく理解できない。待ってくれているのでとにかく乗り込む。近くの老婦人に聞いてみる。「中也さんのところでしょう。温田温泉ですよ。」 と言って、まるで知り合いのことを語るように教えてくれた。気持ちよく、流れる景色を眺めていると、10分ほどで中原中也記念館に着いた。

中原中也 Chûya Nakahara(1907年 明治40年4月29日 - 1937年 昭和12年10月22日)

こじんまりしているが、手入れが行き届いていて美しい。中に入ると、正面で中也さんが迎えてくれた。東京に出た18歳の時に写真館で撮ったといわれる有名な写真が。

温田温泉で医院を開業していた父謙助 (30歳)、母フク (27歳) の長男として結婚7年目に生れる。「奇跡の子」 として大切に育てられる。小学校では勉強に打ち込んでいたようだが、次第に文学に興味を持ち始め、5年の時には短歌会に顔を出すようになる。それから次第に成績が落ち始めたようで、中学の時落第。うるさい父親から逃れるために落第し、京都の立命館に転校。17歳の時広島出身の女優の卵、長谷川泰子と運命の出会いの後、同棲をはじめる。その時期に富永太郎からランボーやボードレールを紹介されている。

彼の人生には、いろいろな人が顔を出す。

小林秀雄
河上徹太郎
大岡昇平
諸井三郎
古谷綱武
吉田秀和
青山二郎
坂口安吾
太宰治
北川冬彦
草野心平
萩原朔太郎
伊藤静雄
など

特に小林秀雄とは、中也が泰子と上京後に出会い、三角関係になり、彼女が小林の元に去るという事件以来、深い関係が生れる。今回、上京してからアテネフランセや東京外語大学でフランス語を本格的に勉強していたこと、また亡くなる年にも関西日仏学館に申し込みをしていたことなどを知る。ランボオの訳詩も展示されていた。

彼の人生は子供の時から死に取り囲まれていた。8歳の時、三歳年下の弟亜郎が亡くなる。中也は毎日、蓮華の花を摘んできては、「あーちゃんに」 と言って、仏様に供えていたという。また4歳下の恰三を24歳の時に結核で失う。「亡弟」 という小説を書いている。

それから自分の長男、文也も失う。これが相当応えたようだ。日記を見ると、文也に向けた男親の愛情に溢れる記述が見つかる。
「文也も詩が好きになればいいが。二代がかりなら可なりなことが出来よう。俺の蔵書は、売らぬこと。それには、色々書き込みがあるし、何かと便利だ。今から五十年あとだって、僕の蔵書だけを十分読めば詩道修行には十分間に合ふ。迷はぬこと。仏国十九世紀後半をよく読むこと。迷ひは、俺がサンザやったんだ。」 (昭和11年7月24日)

文也が亡くなってから遺体を抱いて離さず、葬式の日以来位牌の前から離れなかったという。文也の霊に捧げた 「在りし日の歌」 の原稿を小林秀雄に託す。中也の死後出版される。

   わが半生

私はずいぶん苦労して来た。
それがどうした苦労であったか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果たして価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労してきたことであった!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持ちの、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐ったまんまで、死んでゆくのだ。

        La Moitié de Ma Vie

     J'aurai eu jusqu'ici bien des peines.
     Quelles peines, direz-vous ?
     Je n'ai aucune envie d'en parler.
     Quant à la question de savoir si ces peines avaient
     Quelque vertu ou n'en avaient pas,
     Cela ne vaut même pas le coup d'y penser !

     Mais j'aurai eu bien des peines.
     Oui bein des peines en somme !
     Et voici que, maintenant, ici-même, devant mon bureau,
     Je ne trouve plus que moi.
     Sans broncher, j'allonge mes mains, les regarde, et c'est bein là
     Tout ce que je peux faire.

        Dehors ce soir, les feuilles des arbres frémissent.
        Soir de printemps, aux lointaines émotions.
        Et voilà que, doucement je meurs !
        Oui, je reste assis, et je me meurs.


亡くなる3ヶ月前に阿部六郎宛に手紙を送っている。

「小生事秋になったら郷里に引上げようと思います。なんだか郷里住みといふうことになってゴローンと寝ころんでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。」 (昭和12年7月7日)


四行詩 

おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発する都会の夜々の燈火を後に、
おまへはもう、郊外の道を辿るがよい。
そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。

Quatrain

Pour toi il est mieux de rentrer dans une chambre paisible
Laissant derrière toi les feux éclatants des nuits de la ville
Pour toi il est mieux de prendre le chemin du retour
Et d'écouter tranquillement les murmures de ton cœur


弟の思郎氏が中也の最後をその著書 「兄中原中也と先祖たち」 に書いている。

「母の指を、タバコを吸うときのようにして自分の二本の指ではさんだ。眼も見えたのであろう。『おかあさん』 という声がでた。一層奇跡を思う。もう一度 『おかあさん』 と呼んだ。中也は自分の指にはさんだ母の指を、二度ばかりはじいた。タバコを吸っている気である。そして 『僕は本当は孝行者だったんですよ』 といい、『今に分かるときが来ますよ』 とつけ加え、数秒おいて 『本当は孝行者だったんですよ』 といった。最後の声は正気の声であった。中也の指は母の手から離れて落ちた。」

長男が亡くなった1936年に次男愛雅が生まれている。しかし、その翌年10月に中也が亡くなり、さらにその翌年1月には生まれたばかりの愛雅が亡くなっている。それが彼の死後であったことがせめてもの救いである。


    歸 郷

柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
    椽の下では蜘蛛の巣が
    心細さうに揺れてゐる

山では枯れ木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
    路傍 (ろばた) の草影が
    あどけない愁 (かなし) みをする

これが私の故里だ
さやかに風も吹いてゐる
    心置きなく泣かれよと
    年増婦 (としま) の低い声もする

あゝおまへはなにをして来たのだと・・・・・
吹き来る風が私に云ふ


        Retour

    Sec les piliers et secs les jardins
    Aujourd'hui il fait beau
       Sous la terrasse une toile d'araignée
       Bouge langoureusement

    Les arbres morts respirent dans la montagne
    Qu'il fait beau aujourd'hui
       Au bord des chemins l'herbe dessine
       Une ingénue tristesse

    C'est mon pays
    Un vent frais s'est levé
       Pleure sans hésiter
       Me dit à voix basse une femme plus âgée

    Oh  toi qu'as-tu fait.....
    Me dit le vent qui vient souffler


二階の資料室に上がり、CDに入っていた母親フクさんの思い出話を聴く。

中学から詩にのめり込んだ中也の成績はどんどん落ちていった。本を買ってやるから駄目だというようなことを先生からも言われ、本から遠ざけるようにする。すると、彼は本屋に入り浸るようになり、帰りが遅くなったという。そして帰ってくる時は、遠くから 「今日は本屋に寄ったんじゃありませんからね」 と言ってから家に入ってきたという。そんなこと言わなくてもいいのに、という感じで遠くの息子を懐かしむように語っていた。

この話はフクさんの回想録 「私の上に降る雪は ― わが子中原中也を語る」 の中にも出てくるのかもしれない。

今回、中也の詩にいろいろな人が曲をつけ、いろいろな人が歌っていることを知る。諸井三郎が曲をつけるのはわかるが、大岡昇平も作曲している。また、友川かずき、伊藤多喜雄、おおたか静流、小室等、そして五木ひろし、石原裕次郎までもが歌っているのには驚いた。

来年は中也生誕100年、没後70年に当たる。記念行事が予定されているようだ。

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フランス語訳は以下の本からです。
Nakahara Chûya « Poèmes » traduit du japonais par Yves-Marie Allioux (Philippe Picquier, 2005)

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4 コメント

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Unknown (saya)
2006-11-14 23:41:01
お久しぶりです。
中原中也の詩、とても好きです。
「帰郷」は特に好きなもののひとつ。
フランス語で読むと少し印象が違いますね。
久々に中也の詩集を本棚から取り出して読んでみようという気になりました。
お久しぶりです (paul-ailleurs)
2006-11-16 01:26:34
コメントありがとうございます。私はそれほど熱心な読者ではありませんが、彼の詩には低俗に堕しそうになるくらいのリズム感あり、オノマトペありで、それが心地よくもあり物悲しさを呼び覚ますようにも感じています。そのあたりは外国語にはなかなか訳せないのではないでしょうか。またロジックを使うところもなく、頭ではなく心にじかに訴えかける詩本来の力に溢れているように思います。
中也など (冬月)
2006-11-20 21:04:41
■こんばんは。このところ、中也や朔太郎、道造、賢治など、近代詩をよく読みます。現代詩が、批評に傾き、散文化したのに対して、これらの詩人には、音楽がありますね。フランス語が読めないので、感じがつかめなくて、残念ですが、中也を翻訳するというのは、非常に興味深い試みですね。
お久しぶりです (paul-ailleurs)
2006-11-20 23:33:20
今回、彼の人生を体を使って見直した後に作品に触れると、実によく自分の中に入ってくることに驚きました。ご指摘のように、現代詩を読んでいると自分でも書けそうな気がするものが多く、今ひとつぴんときませんが、中也の詩にはまさに音楽があり、新鮮で、また懐かしく、悲しくもあり、また瑞々しく、自分に重ねることのできるところも多々あり、充分に楽しむことができました。フランス語訳は相当難しいものになりそうな気がします。

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