今日は、若い時の一時期をともに過ごした人びとと一堂に会する機会があった。中には20年以上ぶりの人もいた。まさに自分の過去が蘇るという時間であった。自分にはこういう面もあったのか、あるいは昔の自分はこうだったのか、と言い換えてもよいかもしれないが、新鮮な驚きがあり、頭の中をそよ風が吹き抜けるという感じで、楽しい時を過ごした。現実との付き合いも貴重なものである。
人類の始まりは2人だけ。その始まりを数か所とする考えがあるにしても、そこから人類の歴史が始まったとしたら、本当に今のわれわれはどこかで繋がっているのだ、という話をしている人がいた。昔であれば、頭では理解できても通り過ぎていたが、今回はそれが少し実感に近いところまで来ているように感じたのにはやや驚く。
今読んでいる « Dieu et la science » (Jean Guitton, Igor et Grichka Bogdanov) 「神と科学」 の中での疑問は、なぜ何もないのではなく何かがあるのか、なぜ宇宙は生まれたのか、最初に何が起こったのか、それから生命がどのように生まれたのか、ひとつの細胞から人間までどのように、そしてこれらは偶然の出来事なのか、何ものかの仕業なのか (プログラムされているのか)、などについて。いずれも答えを見つけることができるのかという疑問ばかりでなかなかついていけないのだが、すべての始まりには興味が湧く。そこに答えの糸口でもつかむことができれば、今の状況に対する見方も変わってくるのかもしれない。
今の科学は 「どのように Comment ?」 に対しては答えをある程度用意できるが、「なぜ Pourquoi ?」 になると哲学の領域に入ってくるのだろうか。その問いに対して答えようとする意識が弱いか、その問いを発することさえ無意識のうちに抑えているような気がする。自らを振り返っても 「どのように」 に対応するのに精一杯で、とてもそこまで行っていない。そこまで行かなければ面白くないようにも感じてきている。