
マルセル・コンシュのインタビュー、最終回になりました。
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Philosophie Magazine: あなたは熱烈な平和主義者ですが、その平和主義は個人的な倫理の問題なのか、あなたが絶対的なものという道徳に関わることなのでしょうか?
Marcel Conche: 私はそれがどんなものであれ、いかなる戦争にも参加しない。正義の戦争があると考える罠には嵌らない。正義の爆弾と不正儀の爆弾がわからない子供のように、私はそれを区別することを拒む。しかし、もし敵が国境に迫っていたらどうするか。そこでは平和主義のプロパガンダをする権利は私にはない。なぜならそれは普遍的なものだから。敵がそこにいたら平和主義は自己矛盾に陥る。敵に組することで (おそらく、道徳に従うと他人を人間として敬うことになるので) その普遍性を失うからだ。しかし私は個人的に平和主義に徹する。私の立場は普遍的になりうるが、普遍化し得ないので抽象的で矛盾するものである。基本的に政治的人間のすることは平和を実現すること。ドゴールはそのことをよく理解していた。戦争を輸出して民主主義を実現しようとするのは犯罪である (Vouloir réaliser la démocratie en l'exportant par la guerre, c'est criminel)。
PM: あなたの歴史との関係は、矛盾しているように見えます。一方で、あなたの哲学を導いたのは世紀の極度の不安定さであると言い、他方哲学者はその時代を考慮に入れてはいけないと言っておられます。真の人生は歴史性のないもの (anhistorique) なのでしょうか。
MC: その点についてですが、行動 (l'action) と活動 (l'activité) とは区別しなければならないと思います。哲学者は行動する人である必要はありません。哲学者は行動する必要はなく、考えなければならないのです。一度に両方をやるのは難しい。老子 Lao-tseu (Lao Zi) の 「道徳経」 (Tao Te King) では両者の違いが根本的なものとして書かれている。行動に参加しなくても活動的でいることができる。その活動は創造的自発性 une spontanéité créatrice からなっている。私が教師をしている時は行動することに縛られていた (J'étais assujetti à une action) が、今は一日を即興的に過ごす (J'improvise mes journées)。まるで生きるということが (日々を) 詩的にすることであるかのように (Comme si vivre, c'était poétiser ...)。
活動とは、驚きや予想もしないことに委ねることが多くなる。もし真の人生が社会の出来事の中にあると考えるならば、それはヘーゲル的になる。社会の中の誰かとして自らを捉えることになる。もしあなたが詩人ならば、現実的になるためには編集作業 (詩的な心の状態を現実に戻す作業?) が必要になるだろう。ただ私はそれとは違う見方をしたい。それは、他人との関係において微妙なニュアンスを加えなければならないということである。人生の実体は友情のニュアンス、愛情のニュアンスでなっている (La substantialité de la vie est faite des nuances de l'amitié, de l'amour)。私の年になると愛情と言っても性とは無縁であるが (A mon âge, l'amour s'est purifié de la sexualité...)。
余り性急にあなたにレッテルを貼る人は信用すべきではない (Ceux qui vous cataloguent trop rapidement, il faut s'en méfier)。私の無神論にしても、それがアンチ・キリスト教になるわけではないのだから (Mon athéisme ne me rend pas antichrétien)。私の妻はカソリックだった。人をじっくり見ることの方が信仰や意見より重要である (Le discernement de la personne est plus essentiel que toutes les croyances et opinions)。このことは、左右の対立の中でしばしば忘れられることである。そこには人格の化石化 (une fossilisation des personnalités) が行われており、そういう固定化の中には真の人生はない。
PM: あなたの新著 "Journal étrange" で、今日突然死が襲ってきても最早人生を奪うものではないと言っていますが・・。
MC: 今や平均寿命が男で77歳、女で83歳にまでなっている。私は84歳まで生きているので今日死んでも失うものは何もない。死はもはや私から人生を奪うことはできない (La mort ne peut plus m'enlever ma vie)。エピキュロス Epicure は死の後には何もないと言っている。しかし死 (la mort) と死ぬこと (le mourir) とは別物である。どんな死に目に会うのかはわからない。それゆえモンテーニュをも悩ませていて、彼は気付かないうちに死ぬことを望んでいた。
数日前に発見したエミール・シオラン Emile Cioran がパリのオデオン通りで会った94歳の女性の話を語っている。彼女は死ぬことは何も怖くない、ただこのオデオン通りと別れなければならないのが辛い、と言ったという。人間は死後が怖いのではなく、今まで最も執着し、愛着を覚えていた人生に別れを告げなければならないことに恐れを感じるのではないか、とシオランは言っている。
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彼は老子の 「道徳経」 のフランス語訳を出している。
人生を詩的にし、ニュアンスを加えるという彼の生き方には共鳴するところ大である。
最後に私もつい最近発見したシオランが出てきたのもうれしい。
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この記事の2番目の質問と答 (歴史と哲学者の関係) についての記事があります。
3 octobre 2006 問と答の溝を埋める TROUVER LE FIL LOGIQUE
※このコメントを書くために久しぶりにモンティーニュ全集を本棚からとりだすと背革が風化して粉状となり衣服を汚してしまいました。1957年〔小生高校3年〕に白水社から出版された背革天金の豪華本でした。私にとって最後まで手放せない数少ない本の一冊なんですよ。先ほど金ブラシで背革を削り取りガムテープで修理したところです。
マルセル・コンシュは私も初めての人でした。ただ読んでみて私に近い考えを持っているようで、原典に当たってみようかと思っています。またモンテーニュを高く評価する人に最近よく出くわしていますので、すでに買ってあるエッセイとかなり前に買ってそのままになっている堀田善衛の伝記にも触れてみたいという気持ちもあります。しかしなかなかその気になるだけの時間が生まれてこないので困っております。
モンテーニュ全集の件を読みながら、私も古い本の良さを発見したばかりですので、ある意味羨ましさを感じておりました。