フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

エミール・シオラン EMIL MICHEL CIORAN

2006-08-04 01:45:03 | 哲学

先日、フランス人のFと食事を共にした。彼は20代の若者で9月にはフランスに帰る予定だと言う。私の仏版ブログをコメントも含めて読んでいるようで、もう少し面白くしてはどうか、と注文をつけていた。フランス語でそれをやるのはほとんど不可能に近いので、頭の中で起こっていることを言葉を繋ぎ合わせて綴ることになり、そのためどうしても哲学的な印象を与えるらしい。

その日は、私が何か言うと、ほとんどすべてに Pourqoi ? 「なぜ?どうして?」 と繰り返し聞いてきた。会話を成り立たせるために、その一つ一つに答えるのである。大いに頭を使い、蓄えのないフランス語を紡いでいた。この会話をしている間、アラーキーとフランス人中島義道氏とドイツ人との逸話を思い出していた。この御両人、ヨーロッパの人がどんなことにも 「なぜ?どうして?」 としつこく聞いてくるので、辟易とし癇癪を起こしていたのである。 

話の流れで F はどんな哲学者を読んでいるのかと聞いてきた。私はこのブログで触れたような人の名前を出した。そうすると彼は今のところシオランしか興味がないと言って、ルーマニア生れのフランス語でも書いているそのペシミストの名前を綴ってくれた。初めて聞く名前には、大げさに言うといつも興奮する。

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エミール・シオラン Émil Michel Cioran
(8 avril 1911 à Răşinari, Roumanie – 21 juin 1995 à Paris, France)

早速彼のことを少し調べてみた。最近この手のことはウィキペディアに頼っている。欧米の話題について知りたければ、この外国版は結構充実している。

1911年、ギリシャ正教の牧師をしていた父親と無信教の母との間にオーストリア・ハンガリー帝国支配下にあったレシナリに生まれる。この町で平和に暮らしていたが、引越しがあり、母親との確執で子供の頃から精神的に苦しむ。これが悲観的な世界観に導いた可能性がある。

22歳で最初の作品、"Sur les cimes du désespoir" 「絶望の絶頂について」 をルーマニアで発表。絶賛される。2年間ベルリンで研鑽した後、高校の哲学教師になり、ファシスト運動にも関わる。

1937年、第三作 "Des larmes et des saints" 「涙と聖者」 はルーマニアでスキャンダルになる。ベルグソンについての論文をまとめるために奨学金を得て占領下のパリに落ち着く。悲観論者、特にショーペンハウアー、シュペーグラー、ニーチェの影響を受ける。すべてのイデオロギーを捨て、執筆に専念。社会的な栄誉を拒否する。作品は禁欲主義 ascétisme とユーモアに彩られた警句集の形をとっている。

第二次世界大戦後、ルーマニアが共産主義の手に落ちると彼の作品は禁じられ、その後は終生パリに留まり、貧しい生活の中ステファヌ・マラルメ Stéphane Mallarmé の詩をルーマニア語に訳しながらフランス語で作品を残す。ウジェーヌ・イヨネスコ Eugène Ionesco、サミュエル・ベケット Samuel Beckett、アンリ・ミショー Henri Michaux、ガブリエル・マルセル Gabriel Marcel などと付き合う。

彼の作品は悲観主義 pessimisme、懐疑主義 scepticisme (あらゆる哲学体系の拒否)、失望 désillusion に溢れている。1973年、最も重要な作品 "De I'inconvénient d'être né" 「生誕の災厄」 を発表。87年には最後の作品 "Aveux et anathèmes" 「告白と糾弾」 を発表。その8年後に亡くなる。

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