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フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

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イヴ・ボヌフォワ 「ヨーロッパ精神と俳句」 YVES BONNEFOY SUR LE HAIKU

2006-11-18 09:16:18 | 俳句、詩

このブログへアクセスのあったキーワードを頼りにネットを歩き回っている時、イヴ・ボヌフォワさんが2000年、正岡子規国際俳句大賞受賞の際に行った記念講演が目に飛び込んできた。演題は、以下のようになっている。

「俳句と短詩型とフランスの詩人たち」
"Le haïku, le forme brève, et les poètes français"

Yves Bonnefoy (Tours, 24 juin 1923 -)

そこでは、フランスにおける俳句の受け止められ方や東洋と西洋のものの見方の違いなどが鋭く語られている。俳句はフランスでも関心を寄せる人が多く、大体50年ほど前からその傾向が顕著になってきたという。それは彼らの世界観を見直すことにもつながっているようだ。

フランス語における分析的な語法に対して、日本語は具体的な概念や情報から意味を紡ぎだすというやり方の隔たりがある。また日本語にある表意文字には物の面影が残っていることがある。それをひと目で見ることができる。しかしフランス語に訳されたものでそれが伝わるだろうか、と自問している。

「なぜなら、アルファべット表記が極度に恣意的、抽象的な性質を持つため、われわれの言葉は、その指し示す事物の具体面から切り離されているからです。われわれの文字は、世界との直接的な関係を棄てました。だからこそ、物質の科学については無類の強みを発揮するのですが、だからこそ、詩を書くことが難しくなるのです。」

文字の中に見られる囲まれた空間 (例えば、「間」 には6ヶ所) があり、そこに 「無」 の体験を見ている。それがうらやましいという。なぜなら、「『無』 と 『無』 の体験こそ、あらゆる詩的思考の最大の関心事」 だから。

さらに、短詩型の特徴を次のように語っている。

「詩的経験そのもの、詩以外の何者でもないような独特の経験に向かって、身も心も開くという能力を増大させることです。(・・・)短詩型の言葉は、出来事や物事に対するある種の姿勢に縛られないですむということです。」

物語の場合には、人生の出来事や物事を認識する際に、分析的な思考、一般化へ向かう思考という回り道をしなければならないが、詩の場合はその必要がない。

「だから、他のどのような詩形よりもずっと自然に、ある生きて体験された瞬間と、ぴったり一体化することができるのです。・・(・・・)・・抽象的、概念的な思考に縛られていないだけに、なおさらよく耳に聞こえるのです。そのようにして、長たらしい弁舌の陰で見失われていた魂の故郷 ― あの合一感、あの一(いつ)なる感情に、われわれは帰り着くのです。」

その体験こそが、詩であるが、西洋ではそのことは忘れがちになると言っている。

「というのは、われわれの宗教的伝統 ― 世界を超越する人格神の伝統のために、絶対なるものと、あるがままの現実とが切り離されているからです。」

「ヨーロッパでは長い間、現実は単なる神の創造物であって、それ自体に神が宿るものではないと感じられてきたからです。ヨーロッパ人の精神は、風の音に耳を傾けたり、木の葉の落ちるのを眺めたりするよりも、神学的な、あるいは哲学的な思考をめぐらすことの方に、ずっと忙しかったのです。だからわれわれの詩は、そこである思考をきちんと展開するために、十分な長さを必要とします。比較的短いように見える詩、たとえばソネット (十四行の定型詩) の場合でも、その事情は変わりません。」

「キリスト教的な世界観の一種の衰退とともに、神秘的な生命に満ちた自然という観念が、詩人たちを促して、自然から得たさまざまな印象を重んじさせるようになりました。そして詩の論説的な面よりも、本来の詩的経験そのものがきわ立つことになった結果、短詩型の価値や可能性がよりよく理解されたばかりでなく、これこそが求めるものの核心かもしれないというわけで、意識的に短詩型が用いられることにさえなったのです。」

ただヨーロッパ人がキリスト教の伝統を忘れ去ることはないだろうから、二つの伝統の板挟みになりながら進むだろうという。

「フランスの詩人が、仏教に強く染まった日本の詩から学ぶ教訓 ― 個性を没し自我を去れという教訓が、どれほど当然かつ明々白々であろうとも、一個の人格としての彼の自意識は、けっして弱まることがないでしょう。個人そのものが現実であり絶対的な価値を持つというキリスト教の教えを、西洋人が忘れ去るのは容易なことではありません。フランスにおける詩的感性は、いつまでも詩人の自己省察に縛りをかけられたままであり、したがって、その偉大な詩はいつまでも、ある両面性の板ばさみになり続けることでしょう。その両面性の一方には、個人の運命への強い関心があり、他方には、そうした運命がもはや意味をなさないような自然界・宇宙界の深みに没入したいという欲求があるのです。 」

    (ボヌフォワさんの言葉は、川本皓嗣訳による)

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(version française)

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仏文字 (pfaelzerwein)
2006-11-19 18:59:59
こんにちは。

かなり大風呂敷な意見かと思いましたら、読み進むうちにディレンマをそのまま抱え込んだままにしている姿勢になるほどと思いました。

「具体的な概念や情報から意味を紡ぎだすというやり方の隔たりがある。また日本語にある表意文字には物の面影」―

この場合、表意文字とはひらがなを指すのでしょうが、字母の面影があるかどうかは疑問ですね。やはり漢字の表意とは比較できない。

それは読上げても残存しますね。反対にアルファベットの表音の場合も印刷される場合は視覚的な表現がなされている訳ですから、読上げられた場合の響きと共にミームとしての視覚的要素が無いとは思われない。

些か前半の言語学的な考察に託けた、お馴染みの比較文化論のような講演に思えますが、如何でしょう?

因みに私の欧州版XPでは、こちらの仏特殊文字が正しく表示されずに悔しく思って拝見しています。
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再訪ありがとうございます (paul-ailleurs)
2006-11-19 21:47:17
仏文字ですが、こちらでもIEでやると文字化けするので今はfirefoxに切り替えています。これでは今のところ問題なく見ることができます。

ご指摘の表意文字のところですが、私は漢字のことではないかと思って読んでいました。というのは、その後に文字の中の「無」について話しているところがあったからですが、いかがでしょうか。

アルファベットに関しては、指し示すものとの間に直接的な関係がないという彼の指摘はよく分かるように思っていましたが、日常的にアルファベットの世界に触れておられるとその印象が変わってくるのでしょうか。

全体的には私が感じていたことを言葉にしてくれていたという点で、頭の中がすっきりしたという感じです。他にも同じような分析をしている人はいるのだとは思いますが、もし具体的な例がありましたらご教示いただければ幸いです。
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