もちろんベルリンの壁は厳然としてあった時代。
東西ドイツは、共にマルクを通貨としていたが、表向きには
1マルクの価値は同等であったが、実質は四分の一か、その
辺りの価値しかなかった。
当時ベルリンは、東独の中に取り残された感がする、陸の孤島
であった。ベルリンの上空を飛ぶことが出来た航空機は、米・英・
仏の三国のものだけで、西独のルフトハンザには、東独の上空
を飛ぶ権利が無かった。
そんな時代の東独の切手だから、何故ボクのコレクションの中に
有ったのか、自分でも記憶が定かではない。
東独の公団との商談で、何度か東ベルリンに入ったが、当時最も
便利だッたのが、東西ベルリンを越えて走る電車で、一駅乗れば
そこはもう東側。
すべての文書は、国境警備の兵に押収される。持ち込む荷物は
レントゲンで撮影される。ある時タイヤコードに使うナイロンの糸を
3キロ、見本として公団の要請により持参したのだが、例の国境
警備の兵が、ぐるぐる巻きにしたナイロン糸のレントゲン撮影でも
何物か分からない。
技術関係の文書と共に、押収すると言ったから、それは勝手だが
この文書も、ナイロンの糸見本も、無かったら公団が困る事になる。
その責任はお前が取れよと、脅しをかけたら、あちこちに電話を
掛けて相談した挙句、持ち込みOKだと返して寄越した事があった。
その頃ボクはハンブルグ駐在の一人で、東ベルリン以外の東欧
にも頻繁に出入りしていた。東ヨーロッパは押しなべて暗かった。
1945年8月9日、欧州戦線から大軍を極東に移動させた
ソ連軍は、日ソ不可侵条約を破り、当時の満州国に侵入を始め、
同時にサハリンや朝鮮半島にも進軍を始めた。
千島列島には、少し遅れての砲撃開始であった。
満州国や朝鮮、またはサハリン・千島に居た日本人には、ソ連の
背信行為を忘れることは容易ではない。
アメリカだって、日本中を焼夷弾で焼き払い、多くの非戦闘員を殺し、
おまけに二発の原子爆弾まで投下した、本当の戦争犯罪人に該当
する者を多く抱えた国である。
ここは、何時までも戦前・戦中の出来事を言い立てて、世界中に反日
の運動を止めようとしない韓国の愚を真似るべきではない。
日本が置かれた地勢的な条件からも、隣国ロシアとの平和条約締結と
経済のみならず、外交・防衛の点に於いても、協力関係を密にする事は
日本にとっても、メリットの多い方向付けである。
プーチンは、安倍総理を信じるに足る友人として、真摯に遇してくれた。
ミンス政権時代の、メドベージェフの挑発的な態度とは大いに違う。
もちろんロシア側の事情の変化もあるだろう。
アメリカのシェールガス開発が、ロシアの天然ガス輸出市場を脅かして
いる事実も否定は出来ない。
ロシアの人口減が、特にシベリア以東にあって顕著であり、旧満州国に
当る中国の東北三省の人口が一億人にも達して、ロシアが圧迫を受けて
いる事実もある。
プーチンは、マツダ・三菱自・トヨタ・武田などの、固有名詞も出して、経済
面での両国協力の必要性も説いた。
外交・防衛担当の大臣による、2対2の交渉開始は、安全保障の面でも、
日本にとって大きな前進である。ミンスの間は、ロシアもまた軍事面で日本
を脅かす存在だったのだ。素直に安倍総理にご苦労様でしたと言おう。