作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 織田がつき羽柴がこねし天下餅(歴史エッセイ127) 】

2012-12-28 18:34:24 | 05 歴史エッセイ

座りしままに喰らう徳川。と続く川柳とも落書きとも、
つかぬ言葉を、戦後教育では知らない人が多いらしい。

この意味は、天下取りに最初に着手したのは織田信長。
信長が永年にかけて、眼の上のたんこぶを意識していた
武田勝頼を自刃に追い込んだ1582年の、その年に
京都・本能寺で明智光秀の謀反によって、自らも非業の
死を遂げる。

毛利攻めの最中にあった、羽柴秀吉が高松城水攻めを、
城主清水宗治の自刃と引替えに、講和をまとめ、後世に
いわく大返しで、山崎での明智との合戦に勝利することで、
信長の遺志の通りに天下を統一する。

秀吉が死に臨んで、家康の手を取って押しいただく事まで
して秀頼の向後を頼んだのに、秀吉の死後は変身して、
勝手気ままな行動を取る。

秀吉の糟糠の妻、北政所を巧言で京都に隠棲させて、自ら
大坂城に乗り込み、西の丸に天守閣まで造らせて住む。
もちろん費用のすべては、秀吉の遺産を使う。

ここまで勝手な振る舞いは許されぬと、石田三成が家康の
上杉征伐の留守に、家康打倒の兵を挙げる。

天下分け目の関ヶ原の合戦に、松尾山に陣取った小早川勢
を裏切りさせて、形勢を逆転させ、僅か半日の戦に勝利する。

徳川家自体の軍勢は、秀忠が率いて中山道を進む途中、
信州上田城の眞田昌幸に行く手を遮られ、関ヶ原の合戦には
間に合わなかった。

この合戦は、小早川秀秋が裏切る寸前まで、西軍主力の
宇喜多秀家が、徳川に味方した秀吉の親戚、福島正則を
圧倒していた。

西軍の主将、毛利輝元が大坂城に籠もっていたが、またも巧言
を用いて、毛利を防長二州に閉じ込める。

十五年の後に、大坂城が墜ちて秀頼と淀君は自殺する。

秀吉によって内大臣にまで位を上げてもらった恩を忘れ、
天下を取った家康の汚さを、19世紀の誰かが憤りの思いで
歌ったものだと思う。

家康のやり方は、如何にも汚い


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【 東北大震災と関東地区地震との関連(歴史エッセイ126) 】

2012-12-28 16:32:24 | 05 歴史エッセイ

今回の安倍内閣にアドバイザーとして内閣に
入った、京都大学院の藤井教授が指摘されて
いるが、過去二千年の歴史を調べたら、東北の
大震災と、首都圏のそれとは、十年の時差で
起きる可能性が、非常に高いそうである。

もちろん西日本の危険度も、東北・首都圏と
関連性があり、95年に阪神大震災があったから
と言って、当分は安全だとは言い切れない。

日本の地勢的なリスクには、地震・津波に加えて
富士山の噴火も挙げられる。

織田信長が桶狭間に今川義元を急襲し、その首を
取ったとは、誰も知ることだが、その年1560年には
富士山が噴火した記録がある。

今川の領土は今の静岡県で、富士山麓に今川家が
有った事を思えば、上洛の兵を動かす経済力が
あった事が不思議に思える。

当時は甲斐の武田と越後の上杉が、何回も川中島
で戦っており、両家とも下卒は農家を動員しての軍で
あった。富士山の噴火がもたらした筈の、農地に及んだ
火山灰の影響が、特に武田家に無関係だったとは、
考え難い。歴史の中の大きな?である。

(歴史エッセイ69,70参照)

【 歴史エッセイ (69) 桶狭間合戦と富士山噴火 】はこちら


【 歴史エッセイ (70) 富士噴火(続) 】はこちら

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