作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

歴史・エッセイ・小説・時事ニュース・・・なんでもござれのブログです。どうぞよろしく。

【 You Tubeに凝っている 】

2012-08-16 17:47:33 | 02 華麗な生活

パソコンの中にあるYou Tubeは楽しめる。
音楽を聴くのも良いが、動画の中にも良いものがある。

地井武男という俳優が最近亡くなって、その所以であろうか、
彼が出演したドラマの場面などが、良く出てくる。

ボクよりは8歳も若い人だ。彼が「太陽に吠えろ」に出ていた事は知らない。
「貴族刑事」に水谷豊と共演していた事も知らない。

ボクの中の地井武男は、何といっても「北の国から」の中ちゃんである。
東京生活に疲れ、奥さんとも別れ、二人の幼子を連れて、富良野の奥に
ある森の中の小屋での生活を始めた、黒板五郎にとって、中ちゃんと
その一家は、五郎や子どもの純・蛍兄妹にとって、砂漠の中のオアシス的な
存在に思えた。

五郎はこの小屋で育った。生まれ故郷に舞い戻った五郎はまあ良い。
東京の中野に住んで、塾にも通っていた純には、電気も水道も無い
生活は、まさに異郷であったろう。
水は雪をかき分けて、せせらぎの水を汲みに行くのだ。

幸か不幸か、ボクは「北の国から」が一年通じて放映された、
昭和55年に脱サラし、起業した事業を成功させるべく、何年間かはテレビを
見ることも無く終始した。

倉本聰が脚本を書いた、このドラマはボクにも辛い想い出を呼び起す。
「北の国から」の純は小学生で3年生か4年生ぐらい。
妹の蛍は二歳ぐらい下だ。

ボクが日本の敗戦で、住み慣れた新京の街を追われ、引揚者という名の
難民として、淡路島の南部の田んぼに囲まれた家に辿り着いたのが、
小学6年生の二学期だった。

ボクの父を母代わりに育ててくれたという、父の叔母に当たる人は、
戦時中に疎開して来ていた、父の弟の家族四人に加えて、ボクの一家が
参入したため、狭くなって機嫌が毎日悪かった。

さすがに電気は来ていたが、水道は無くガスももちろん無かった。
満州帰りと聞いて、人々は開拓団の生活を連想したようであったが、
ボクが居たのは新京特別市と呼ばれ、いわば東京都新京区の趣があった。
しかもボクの住んでいた辺りは、新京の中でも官邸街に近く、我が家を含めて
邸宅が並ぶ高級地区であった。

富良野に行ったことがある。ボクの腎臓が悪化して透析が必要になった、
97年の夏に行ったのだが、「ヘソ祭り」の当日だったから、その見物は出来た。

麓郷の小屋は、新シリーズ「時代」の撮影中で、近寄ることも出来なかった。
地井武男が扮する中畑木材にも行けなかった。
そんな事は良い。ボクは腎臓が処理すべき毒素が身体中に廻り、
食欲も無く夜も眠れない重症の尿毒症であったから、歩くのも苦しい状態であった。

話を戻す。純が住んでいた東京は中野区本町のナントカ荘というアパートで、
如何に電気も無かろうと、その生活の落差は、革の編み上げの靴から、
手作りの藁草履に変ったボクの方が遥かに大きかったと思う。

近くの山に行き、松葉をかき集め縄で縛って背負って帰る。
それがカマドの焚きつけになるのだ。
干してあった丸太を、木で出来た台に乗せてマサカリで割り薪にする。
それもボクに課せられた仕事であった。

朝目を覚ますと、屋外の井戸端で顔を洗う。雨天でも然りである。
藁草履は、近くの家のお爺さんに習って自分で作る。
ボクが作った草履は、一日でバラバラになる。
お爺さんは(と言っても今のボクよりも若い)は、草履造りの名人に思えた。

あっという間に、ボクの手足はアカギレだらけに成った。
刃物の使い方の失敗で、出来た傷口には置き薬の膏薬を塗りこむ。
医者なんか居ない。

狭い家に、かれこれ十名が住んでいたから、ボクに与えられた部屋、
と言っても寝るだけだが、玄関を入ったところにある二畳だった。
玄関の扉の締りが悪く、冷たい風が吹き込んだ。

新京の家は、全室にスチーム暖房があり、冬でも薄着で暮らしていた。
それが、ある限りの衣類を身体に巻きつけて寝る生活に墜ちた。
ここは「墜ちた」が正しい表現である。

家の周りは全部が田んぼだったが、我が家にはコメが手に入らなかった。
ボクは敗戦の直前に母を失っていた。




「華麗な生活」目次へ≫     総目次へ≫

51← 応援 クリックお願いします


【 韓国大統領の変節 】

2012-08-16 15:14:00 | 02 華麗な生活

李明博大統領は、大阪で生まれた日系韓国人である。
だからと言うわけじゃないが、大統領に選出された時は、
日韓両国にとって、良い政策を取って欲しいと願ったものであった。

就任にあたり、日韓両国はいつまでも、「反省」や「謝罪」を話題に
する時代は終わったという意味の演説を行い、就任以来、両国の
関係は好転したと言える。

経済関係は両国の協力で、大いに進展し、今やサムソンやヒュンダイ
は日本企業を凌駕する力を付けた。

韓国の大統領の任期は五年である。哀しいかな任期が迫ると、身内や
側近の中から、汚職を問われる者が出てきて、レームダック状態に陥る。

李大統領も、その例外ではなく、今や支持率は17%しかない。
来年2月の大統領選挙での最選の芽はない。
朴元大統領の娘さんの当選が、確実視されている。

今回の竹島上陸は、少しでも人気を高めようと、敢えて英雄的な行為に
出たものであろう。
しかし、ソウルの日本大使館の真ん前に現れた「従軍慰安婦の像」を、
更に第二、第三の像が出来るぞと野田に迫るなどは、明博クンはオカシク
なったと言わざるを得ない。

戦時中、日本軍の大陸進出に伴い、売春業者が軍に取り入り、営業を行なって
いた事実はあっても、あの像にあるような、いたいけな少女を軍が拉致した事実
なんかは絶対に無い。売春業者に売られた娘は気の毒であった。
だが当時の日本には、公娼の制度があった。

五・六年も前になろうか。ソウルで大勢の若い売春婦が、揃いの白い帽子に、
白いスポーツウエアを身にまとい、「わたし達を公娼に」と要求して座り込んだ
ことがあった。あの娘たちは、売春業者に搾取されている現在より公娼の立場
を求めての行動を取ったのだ。

現在の韓国に、売春婦が居ないとは言わせない。
なぜ日本の朝日以下のマスコミは、その事実を書こうとはしない。
チョーニチ新聞と叩かれる所以である。

天皇陛下に来韓し、日本からの独立運動に身を挺した人々に謝罪せよとは、
歴史の針を巻戻せと言うに等しい。
1910年、日韓併合があった。旧満州国で、朝鮮系の人々は、日系人と同格に
扱われていた。その一例として、新京のボクの家の真ん前に、豪壮な邸宅があり、
日本名を名乗って居られたその方は、在満の朝鮮系の新聞社の社長であった。

その家のお子さんたちは、ボクが通った桜木小学校に通っていた。
差別や虐待があった話は聞いたことが無い。
時折、お見かけしたが、立派な紳士であった。気の毒にソ連軍によって、連行され
その後の消息を聞かなかった。

ついでに、その方の隣家には、満州国の大臣が住んで居られた。
その家の息子さんとも日本の敗戦後も、仲良く遊んでいた覚えがある。

敗戦から一年後に、在満邦人は南新京駅から無蓋貨車で、帰国の途についたのだが、
大勢の満州人が、別れを惜しんで見送りに来てくれた。
満州国は、ボクが見知った限りでは、五族協和を現実化した国であった。

「華麗な生活」目次へ≫     総目次へ≫

50← 応援 クリックお願いします