戦前の国史を小学校から学んだボクの世代にとって、
次の天皇の地位をめぐって叔父と甥とが殺しあう戦があった
などとは、夢にも思わぬ出来事だった。
万世一系の天皇家に、血で血を洗う争いごとがあっては大変
なことのである。
壬申の乱がそれで、天智の息子、大友皇子と、天智の弟と
されている大海人皇子とが関ヶ原で戦い、大海人が勝利して
天武の称号を持つことになる。
古事記にも日本書記にも、天智と天武は兄弟となっている
から、二人は他人だと言い出せば、多くの歴史家たちの顰蹙
を買うだろう。
だが、天武が全くの他人である証拠は、いくらでもある。
その一つが、京都人が今も「み寺さん」と呼ぶ、天皇家の
菩提寺、泉涌寺に保存されている位牌は天智に始まり49代
光仁から昭和天皇までと、いわゆる天武系の天皇の分が
無いことである。
泉涌寺で最後の仏式葬儀が執行されたのは孝明帝で、
明治帝からは神道での葬儀になった。
今でも皇太子ご夫妻や秋篠宮ご夫妻が詣でて居られ、写真
なども展示されている。
光仁帝の子が有名な桓武天皇で、祖に当たる天智と父光仁
を祀り、意図的に外部の天武系を外したと読み取ることが
出来る。
世界的にも意義のある記紀の双方に、天智・天武兄弟と記載
してあるからと言って、信用してはならない。
古事記も日本書紀も共に編纂を命じたのは、天武その人なの
である。自分に都合の悪い箇所は、いくらでも訂正が効くわけ
である。
近江神宮に祭られた程の高名な天智帝の御陵に御遺体が
無いことも良く知られている。
狩に出て行方不明になったと伝えられる天智帝の沓の片方
だけが御遺体の代わりにある。
天智帝も天武の手によって殺害されたとボクは見ている。
持統女帝は天武の妃だが、天智の娘でもある。
壬申の乱の後に、天武は天智の娘四人を後宮に入れている。
これは戦勝者の戦利品としか見えない。