作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 ポスト小泉の後(?) 】

2006-11-29 13:23:10 | 04 時事ニュース


昨夜11時過ぎ「まだやってるの?評判悪いのに」
の筑紫哲也が、ポスト小泉の後って、ヘンな言葉
を使ったのにビックリした。小泉の後なら分かる。
ポスト小泉もまた分かる。
ポスト小泉の後ってなんなんだ。

ポスト小泉、すなわち安倍は小泉の政策継承者
のはず。

もちろん、小泉政策の中に、是正すべき点がいろいろ
とあったから、自分が継承したからには、この点は
この様に直しますといって、党員全員に諮ることは
出来る。

それを明らかにしないまま「殺されてもやる」と
大見得きって前任者が国民の意を求め、その党・
政権に大政策に従わんことが明確になったから、
非公認となり、他の公認候補が立てられたわけで、
いきなりの解散総選挙で投票に協力した国民への
説明もないまま、勝手に復党をすすめ、さらに
落選組み、すなわち選挙民の支持が得られなかった
手合いまでも、党籍を与えようと進めるのは、
いかがなものか。

ポスト小泉の後とは、正しい用語で、小泉なんかが
出て来る前に戻れとの、親分集が睨みを利かせる党
に戻れとの意味合いで使われたのだとしたら、もう
何をかいわんや。
たかがヒトリのブロガーが騒ぐことじゃない。

そう決め付けられた感じがする。


                パパゲーノ




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【 歴史エッセイ (18) 東西共に秀頼の名代 】

2006-11-29 13:21:31 | 05 歴史エッセイ


ここでもう一度「関ケ原の合戦」の意味を考え直して
みると、東軍諸将は「豊臣家に叛いた」上杉景勝を
退治するという、大義名分の下に、豊臣家筆頭大老
の徳川家康が総大将として、秀頼名代で、諸将を
率いたことになっている。

そこへ、石田三成が、これまた秀頼名代として西軍を
組織し毛利や宇喜多に呼びかけた。

秀頼名代と秀頼名代とがぶつかった不思議な戦い
です。

どっちが勝ったところで、豊臣秀頼が負けたわけじゃ
ない。関ケ原の合戦の後も、家康は秀頼に謁見の折に
は平伏している。

征夷大将軍に任じられてからです。態度がデカクなる
のは。

つまり東西の決着がついても、豊臣家は関係が無い
はずなのに、戦後の土地の取上げと分け与えの
過程で、家康は豊臣家の直轄地を220万石も
取上げて家康直轄地に組み入れてしまった。

これは火事場泥棒の類で、ドサクサまぎれの犯行
といって差し支えない。結果徳川は400万石、
豊臣は60万石といった大差が生じる。

豊臣家直轄地を私物化する、いかなる論拠も家康
にはない。元に戻すのが道理というもの。力が
すべてを制したわけでこの時の家康は、まさに
暴力団の親玉である。

2200万石が本来の持ち主の元に戻されていたら、
豊臣は280万石、徳川180万石となって、コメ
本位制の下、あくまで豊臣が徳川の上位で居り
続けたわけ。

この辺りを解きほぐす歴史作家にお目にかかった
ことがない。

                                       パパゲーノ


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【 今日的タクシー事情 (7) 】

2006-11-29 13:18:33 | 12 幼き日々のこと


契約して3年を過ぎたから、そのタクシー会社の
ドライバーの大半が顔見知りになっています。

片道15分ぐらいの短い時間ではるけど、矢張り
気安くハナシが出来る間柄と、お互いに沈黙の
時間に耐える15分とでは、社内の空気がまるで
違ってくる。

これは、プロドライバーの意識というか、ビジネス
に携わる人間のいわば本能で、指定の時間の5分前
には先着しているのが普通の神経。

この会社は、他社でタクシーに乗っていた人間を
一切採用しない方針だから、全員に前職があり、
実に色々な職種経験者が集まっているから、
ハナシも面白いのです。

週3回の透析が午後3時開始だから、ボクは
午後2時20分に迎えに来てもらっている。
95%のドライバーは、2時15分には到着する
から、ボクも待たせちゃ悪いと、15ぴったりに、
マンションの1階に面する道路脇に行く。

ところが、どんな社会でもそうであるように、5%ほど
のドライバーには、ビジネス社会の通念が通らない。
今日も2時15分には来る筈と思って行くと、さんざ
待たせて27分ごろにやってくる。
「何時を指定されたんだ」と聞くと「2時25分」と
答える。こいつらに限り時間厳守の発想もないから、
2~3分遅れて来ます。

結果ボクは、15分から27分まで、寒風吹き荒ぶ
中で12分間も待たされる破目に陥る。
100名の中の5人のおかげで、こっちはえらい目に
合わされる。
こいつらの共通項は挨拶も悪いし他に話す事がない
からか、乗車するやいなや「車内の温度はいかが」
と聞いてくる。そんなもの、いま乗ったばかりで
答えられるわけがない。

本部に何度連絡を入れて、全員が時間を守るように
要請するんだが、実行されたためしがない。
きょうは95%組が来てくれるよう祈るのみ。




                                       パパゲーノ


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【 歴史エッセイ (17) 福島正則がワカラン 】

2006-11-29 08:57:40 | 05 歴史エッセイ


東軍側に立った豊臣恩顧の武将連の中で、最も
ワカランのが福島正則。

係累の少ない秀吉の唯一の従兄弟で、子飼いの
第一とも呼ばれた身を、ただ石田三成憎しの
感情だけで、豊臣家が危うくなることを考える
こともなく、遮二無二徳川家康に忠義をつくした
信条が分からない。

それほどの阿呆だったんだろうか。

史書は所詮、家康が天下を取ったことを正等と
する観点で述べられたものだから、いくらでも
正則を阿呆扱いできる。

秀吉は加藤清正以上に福島正則を信頼し、だから
こそ尾張清洲城に正則を配置した。三成の讒言は
事実あったようで、だから清正は熊本に遠ざけ
られた。正則に関しては三成の讒言も無かった
と読める。

その正則が、なんでイの一番に「家康に味方」と
叫んだか。

岐阜城攻略に、池田輝政と先鋒争いをしたり、
関ケ原で西の主力、宇喜多秀家と死闘するまでは、
三成憎悪でアタマに血が上った猪武者の為せる
業と見えないこともないが、その三成も捕らえ
られたとなれば、自分が豊臣家の主柱との
意識快復がなぜ無かったのか。

この辺りがどうにもワカランのです。

大阪の陣では危険人物視されて江戸詰めにされた
上に、台風被害で壊れた箇所を直しただけで、
武家諸法度に触れたと安芸50万石を召し上げ
られる。

家康の思い通りの使い捨てにされたわけ。

どうにもワカラン。

三成さえ居なくなれば、戦う相手は居ないはず。

毛利輝元と共に大阪城を守るべき立場を思い出せ
なかったこと。

それがワカラン。

                                       パパゲーノ


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