テレビで連日のように放送されている、名古屋市立明豊中学校の中2男子自殺事件。事件の詳細は新聞記事や、こちらのまとめをご覧戴きたいが、どうしても気になっていることがある。「教員の匿名報道」である。
自殺生徒の担任で、自殺を唆すなどいじめへの加担が疑われている漆原教諭。年齢(31歳)、性別(女性)、担当科目(理科)は報道されているものの、氏名・顔写真は伏せられている。
しかし下に挙げたように、実名報道は適法であり必要性も強いのに、単にマスメディアが「自主規制」しているのである。自殺者が出るような深刻ないじめや体罰事件があった場合、報道機関は担任(部活なら顧問)教諭の実名と顔を報道すべきである。教育委員会は教諭も記者会見に同席させ、その会見の模様も報道されねばならない。
実名報道すべき理由1 教員は人格性が求められる「公人」
教員は、「壇上に立ち、大勢の生徒を前に(たいていの学校の場合、計100人以上)、教え諭す者」だ。人の上に立つ職業で、「先生」という尊敬を伴う呼称で呼ばれ、発言・行動も模範とならねばならない。政治家と同じ「公人」なのである。
公人や「みなし公人」(弁護士、医者、実業家、コメンテーター、評論家、宗教団体代表、五輪やプロスポーツの監督など、厳密な意味で公人でないが、公人と同等に扱われる者)は、まったくの一私人とは扱いが異なり、プライバシーが制約される。したがって本来は、氏名や顔写真の報道も許される。
(加えていうと、大阪府立桜宮高校バスケ部の小村基元教諭や愛知県豊川工業高校陸上部の渡辺正昭教諭のように、大規模の大会に出場するチームを引率・監督する地位にある者には、「公人」としての責任がより強く伴う。常勝の強豪チームともなれば、メディアに露出する機会も、指導者として受ける称賛も多くなる。その反面、不祥事を起こした際に覆い被さる責任も重くなるのだ。(小村教諭は現場で約20年も指導にあたり、桜宮高校を屈指の強豪に育てた「部の顔」で、自らの指導方法について取材を受けたり、雑誌に寄稿したりしており、少なくともこの業界内ではたいへん有名だった。渡辺教諭も同様に知名度が高く、指導DVDを定価16000円で販売するなどしていた。本や教材を出して、取材も受けて名前を売っておきながら、不祥事が起きると匿名というのは、著しく均衡を欠き、不当きわまりない。)
実名報道すべき理由2 公立校教員は人権制約を強く受ける「公務員」
日本国憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とうたう。公務員は国民全体のために尽くす「公僕」で、尽くすからこそ、給与が税金から支払われるのである。
教員による体罰やいじめ加担は、学校教育法や刑法に反する。公務員の法令違反は「国民への背信行為」であり、懲戒処分(行政上の制裁)や刑事罰(司法上の制裁)を受けることはもちろん、公務員の氏名は「公共の利害に関する事実」として公表され、報道の対象となる。「実名を書かれる公務員の不利益」より、「国民の知る利益」の方が優先されるのだ。
実名報道すべき理由3 担任・顧問は現場で指導にあたる「直接の責任者」
今回の事件では、明豊中学校の佐々木昭久校長、教育委員会の森和久学校教育部長、河村たかし名古屋市長が「責任者」として会見に臨んだ。市長が同席したのは評価できる。だが本来なら、現場で事情を最もよく知る「直接の責任者」こそが出席し、説明すべきではないのか。そして他の責任者と同様に、実名と顔を報道すべきなのだ。
(ただ、不祥事があると逃げたり隠れたりする教員がほとんどの中で、漆原教諭が記者会見を開いて対応を説明した点は評価する。もっとも、いじめへの加担や、自殺教唆ともとれる発言を〈完全否定〉し、生徒と証言が真っ向から食い違っているので、今後の検証が注視されるが。)
実名報道すべき理由4 教員への制裁、同様の事件の予防
当然、教諭は批判の矢面に立たされるが、自ら命を絶ったというような重大事件ならばやむをえない。児童・生徒の「直接の責任者」として、自らの行為に対して課される社会的制裁として甘受すべきである。むしろ教員が職責の重さを自覚することで、今回のような自殺者が出なくなるのであれば、効果的で望ましいというべきだ。
以上の理由から明確に分かるように、漆原教諭の氏名を報道することに問題はない。マスメディアは軒並み萎縮して実名報道を控えるが、まったく不要な自主規制だ。堂々と実名報道すればよい。
英国式事件報道―なぜ実名にこだわるのか 澤 康臣 (著)
「すべからく実名報道たるべし」の国、英国。今回のような事件が英国で起これば、実名は至極当然である。逮捕・起訴や処分がなされたかどうかも関係ない。「漆原先生」の学歴・職歴をはじめ、プライベートな事柄まで、事細かに晒されるだろう。
イギリスがこうだからとマネしろと言うのではない。匿名報道をして何を守りたいのか、考え直すべきだということを提起したいのである。