山遊塾With You

ハイキングやウォーキングの紀行、感想など。
気の向くままに歩いています。

南房総の富山と伊予ケ岳ハイキングを楽しんで来ました。

2023年01月16日 | 登山
 「南総里見八犬伝」物語の舞台として知られており伏姫の籠穴があり、八犬士終焉の地とされる富山に登り、その足で東の伊予ケ岳まで行ってきました。標高僅か349mの富山と336,6mの伊予ケ岳ですから、通常の登山に比べれば登山とは言えない山なのです。が、さいたま市から南房総岩井までは、片道4時間もかかる鉄道旅です。かかる時間、山の高さを考えれば果たして登るほどの価値があるのかいな、と誰しもが思い、わたしも当然そう思っていました。
 千葉県蘇我に私の息子夫婦が住んでいますが、お互いなかなか顔を合わす機会がなく、この正月には我が家に息子達が遊びに来てくれることになっていました。ところがそこは好事魔多しの例え通り、暮の30日、息子親子がコロナに感染してしまい、計画は中止になってしまいました。そのほとぼりが冷めた14日に蘇我に立ち寄り、翌15日富山に向かいました。今にも降り出して来そうな空模様でしたが、たかだか350mの低山だから、雨が降っても問題ないと勝手に決め込んで、午前9時40分に岩井駅を出ました。岩井駅の陸橋から東を見やれば、目的の富山がなんとも可愛く小さく見えています。


 富津館山道路を過ぎて前方を見やれば、菜の花畑の向こうに富山がチンマリと寝そべっています。


 そして出てきました富山籠穴コース入り口の案内です。ここから800m先に伏姫の籠穴があるというのです。すぐにそちらに向かいました。




 ところが10分も歩かないうちに、後ろから来た軽トラックのおじさんが、富山に登るならこっちはダメだと言われてしまいました。なぜなら台風の被害甚大で今もって倒木、崖崩れの修復がなされておらず、みんな福満寺の方から登っている。ということで仕方なく引き返し福満寺に向かいました。通りから良く見える福満寺山門まで行くと、トイレ脇に竹杖が沢山立て掛けられており、御自由にお使い下さいとありましたので一本拝借しました。


 初めのうちは舗装された道でしたが、途中より写真のような道になってしまいました。それも相当にきつい傾斜の悪路です。恐らくひと昔前までは舗装された立派な登山道だったと思われます。コンクリートの丸杭が打たれた部分などは段差が大きく、足を持ち上げるのも一苦労です。


 兎に角きつい道でした。やっとたどり着いた南峰観音堂は荒れ果てていました。南峰の頂上には電波塔が建っていて侵入禁止。眺望は何もなし。


 北峰に向かって下る途中に籠穴に下る道が分岐しており、そこに皇太子ご夫妻(現在の天皇ご夫妻)が登られたことを記念した鐘が下がっています。




 北峰と南峰との鞍部は広くなっており、北から自動車道路が上って来ています。車も4~5台は置ける広さです。東屋もあって休憩には良い所です。そしてここが八犬士終焉の地であると書かれた標木が立っています。馬琴の創作が本当にあったことのようにされていますが、こんなことは日本国中に沢山ありますから、笑って見てあげればいいと思います。






 北峰の頂上で自分を撮ったらこんな写真になってしまいました。山頂広場は小さな公園と言ってよく、展望台や、皇太子ご夫妻登頂の記念碑、ベンチなどが設置してあります。展望台上からは360度の展望が得られて、なかなか良いところです。山頂広場には20分ほど居て12時丁度に下山を開始しました。


北峰広場から南峰とのコルに戻り、東に下る車道をどんどん下り、吉井の地名辺りに来ると周囲がグンと明るくなって、振り返ると登ったばかりの富山が形よく見えてきました。




 この辺りは高原状で野菜畑が広がっています。気持ちの良い所です。




 そして良いところは道路脇に広がる水仙のお花畑です。今が盛りと至る所に水仙が咲いています。




 次の目標の伊予ケ岳が見えてきました。


 丘状の緩い尾根を越えて谷と呼ばれる広い切通しで、伊予ケ岳から降りて来たご夫婦と会いました。奥さんの方が凄く疲れた顔をしていたので、道の様子を聞いたら旦那さんの方から、伊予ケ岳の頂上下の岩場がツルツル滑って大変でしたと、さも苦労した口ぶりでした。


 六地蔵登山口とある所から再び登山開始。登って行くと山頂部の尖峰が確かに悪相を見せています。ここで俄然登る気が湧いてきて足が速くなりました。


 平群の天神郷から来た道と合流したところから、道は急になりジグザグを繰り返して南峰に到着。ここからの展望も申し分なし。東屋もベンチもあってなかなかグーでした。ここから北峰のてっぺんまでが、固定ロープの連続する岩場の難所。高差100mはあるのでは。


 この岩場はロープはあっても嫌に古いロープで、しかも泥で汚れている。岩はスタンスも多く苦労するほどのものではないものの、先登者の泥で滑りやすくなっており、それが岩に慣れない人には厄介かも知れません。






 ゼーゼー言って登りついた伊予ケ岳336,3mの山頂は狭い岩塔の上で、鉄の柵で囲まれており絶対安全な山頂です。登って来た富山も奇麗に見えました。これから下って行く平群の集落も目の下です。


 伊予ケ岳に登りついたのが午後1時50分。曇り空が明るくなり太陽も時折顔を出すようになって、ここに約25分いて遅い昼飯を食ってから下山にかかりました。固定ロープのお陰ですんなりと岩場は下り終え、麓の平群天神社には午後2時50分に着きました。平群の里は平和で穏やかな景色が広がっているいい所です。
 さいたま市から遠い房総の低山へ行ってきましたが、本当に山は高きが故に尊からずと言います。さいたま市の我が家には帰宅が随分遅れましたが、十分に房総の山を楽しみました。
 
 




山遊荒川倶楽部恒例の正月越生七福神巡りをやってきました。

2023年01月08日 | ウォーキング
 このイベントが始まったのはかれこれ20年前。定年退職者が集まって出来たような倶楽部は今高齢者軍団になり、歩行困難者の集まりになってしまい、いつ終焉の時を迎えるのかもう時間の問題です。当初30名を超す会員がいたのですが、現在は半数の15名に減ってしまいました。その中で実質毎回参加してくれるのは10名足らず。ことにコロナ問題が起きてからは、参加者の数がグンと減ってしまい、毎回寂しい人数で歩いています。今回も寒気が厳しい埼玉県北部の越生ですから、集まる会員は僅かだろうと思っていたら、9名も顔を出してくれました。お陰で何だかホッとした気分になりました。
 例によって越生駅前から黒山三滝行のバスで、まず布袋尊の全洞院に参拝。それは越辺川の上流の清流に架かる橋を渡った、山裾に建つ小さなお堂です。北に面しているため寒い所です。全洞院には明治元年5月新政府軍との戦いに敗れ、僅か22歳で自刃した渋沢栄一の義弟で、養子の渋沢平九郎の墓があります。


 ここから次の毘沙門天は龍穏寺に向かいます。天気予報は期待できる予報はしていませんでしたが、それは外れて雲一つない快晴になってくれました。




 龍穏寺までは約2,5kmの歩き。標高差150mの小さな峠を越えて行きます。途中柚木の里を抜けて行きますが、今年は実の付き具合は悪いようです。


 峠を越えて薄暗い杉林の中を降りて広い道に出ると、道路わきに下馬門と刻まれた石標がありました。龍穏寺は相当格式の高い寺であったようで、侍であってもこの先は歩いて行ったのでしょう。


 龍穏寺山門に着きました。1842年建立の堂々たる山門です。ここには太田道真、道灌親子の墓があることで知られています。草創は807年、1472年に太田道真、道灌親子によって再興された格式10万石の名刹です


 山門を潜ると道灌像が立っています。ちょいと小ぶりな像で威圧感がありません。もうちょい大きな像にして欲しいですな。




 龍穏寺で私が好きな所は、境内にある鏝絵で外壁を飾った蔵です。今は塗装もはげ落ちて、ほんの僅かしか残っていませんが、昔は素晴らしい彩色が施されていたはずです。ここも手を入れて昔の姿に戻して欲しいですね。


 龍穏寺は小さな谷間にあって、冬の今でも穏やかな緑に囲まれています。いい所です。


 龍穏寺を出ると今回のコース最悪の急坂を越えなくてはなりません。以前は未舗装の悪い道でしたが近年道幅も広くなり、舗装もされて格段に良くなりましたが、やはり登りはきついです。登り終えれば後は下り一方です。途中の柚子畑の中に代官屋敷が残っていて、私を除いた8名はそちらへ見学に回りましたが私はそのまま直行。すると道路脇に無人販売があり、無造作に造った台の上に、2個100円のミカン(いわゆるデコポン)を売っていたので買っておきました。


 無人販売店の先で竹炭を焼いているおじいさん(私も負けず劣らずのおじいさん)の所で引っかかってしまい、お互いにペチャクチャやっている間に、仲間にグンと引き離されてしまいました。しかしこの辺りは冬でも日当たりは良く、緩い斜面に七曲りの細い車道、そして利用客などいるのかしらと危ぶむ喫茶店の手造り看板。何とものどかな風景でございます。




丁度正午に三つ目の寿老人円通寺に着きました。昼飯はいつもここの農産物売店の食堂で「ひも川」を食べることと決めていますので、迷わず2階の食堂へ。普通盛りと大盛りがあって、普通が500円、大盛が600円なり。当然私は大盛を注文です。今日はここに着くまで店はやっているか心配でした。なぜなら今年の巡礼者が極端に少なかったからです。そのため年中やっている食堂ではないので、この分では休業ではと心配したのです。円通寺の参拝は形通りに済まし、境内のユニーク過ぎる大きな仁王像に対面をして、四つ目の最勝寺に向かいました。


 最勝寺へは梅林で有名な越生梅林を横切って、越辺川に架かる道灌橋を渡って、川の左岸に沿って行きます。橋を渡った先に道灌の父,道真退隠の地とされる場所があり、三体のお地蔵さんと並んで碑も立っています。


 四つ目の最勝寺にはいつも門前の蝋梅が独特の芳香を放っているのですが、今年はそれがありません。花も僅かです。楽しみが無くなっていたのでここも型通りの参拝に済ませ、山門を出たら丁度長老のIさんが、円通寺の「ひも川」を食べた食堂にストックを置き忘れ、取りに行き今戻って来たところでした。年を取ると忘れ物が多くなる。他人ごとではない。自慢じゃないが私も忘れ物は多い。この忘れ物を長老に代わり、私が取って来ましょうと言い出す者が一人もいなかったことが、現在の倶楽部の状況を良く現しています。ああー悲しい。誰も余分に歩きたくない。




 越生梅園正面です。入園する人が見当たらない。なんせまだ梅は咲いていません。それどころか昨年の内に延びた余分な枝切もまだ終わっていないのです。この枝切作業は大変です。


 五つ目の弁財天の弘法山ですが、ここがまたきつい。長いしかも勾配もきつい。ここが登れなくなったら、長年続けてきた越生七福神巡りも終わりですなと、お互いをいたわり合いながら登るのです。


 登り終えると目の前に飛び込んできたのが赤い南天の実。傍の銀杏の木の周りには皮が付いたままの実が沢山転がっていました。その実はタダで差し上げます、と張り紙がありましたが、皮付きの銀杏は貰っても臭いし、その皮むきが大変なことは子供の頃の経験から解っているから誰も持って行かない。通りすがりの無人販売所で見かける一袋100円は、その苦労を考えると涙ものの値段です。


 弘法山を降りて四度越辺川を渡り、新しく建て替えられた越生町役場前を通って大黒天正法寺に着きました。大黒天のお堂は寺の左奥にあり、参拝者はここでよく間違えて、正法寺本堂に参拝して帰って行きます。なにしろ一見ただの蔵みたいにしか見えませんから。


 最後の法恩寺へ向かうために、正法寺の横手から出る所に可愛い石仏が置いてありました。このような石仏は地方の田舎道を歩いていると良く見かけます。手を握り合った男女の仏像など、ほほえましいものがあると、なんだかホッとするものです。


 午後3時に最後の恵比寿法恩寺に着きました。ここから越生駅まではほんの5分ほど。大黒天に参拝して法恩寺にもお参りをすまし、なおも四国88ケ所を巡ったと同等の御利益があるという、碑にもお参りをしてやっと解散と相成ったわけです。来年もまた会いましょう、と別れましたがどうなることやら。
 ここ法恩寺には渋沢平九郎の首が埋葬され、その埋首之碑があります。平九郎の首と躯は後に渋沢栄一により収容され、東京谷中の渋沢家墓地に埋葬され、全洞院に墓石が建立されたということです。いい勉強になりました。この正月も有意義なウォーキングになりました。
















2023年元旦は箱根矢倉岳からのご来光と富士山を楽しんで来ました。

2023年01月01日 | 登山
 私の家から箱根足柄峠までは車で1時間半の道程です。そんな訳でここのところ、正月は矢倉岳のてっぺんでご来光を見るのが習わしになっています。矢倉岳は山頂が開けていて、相模湾から昇る朝日や富士山の勇姿を見るのに最適な場所です。今年の矢倉岳は冷え込みも緩く、いつもなら太陽が顔を出すまでの待ち時間が辛いのですが、今回はそれが無くて助かりました。


 小田原の街と相模湾の向こう、雲の上の方が僅かに明るくなり始めました。でも本当に太陽が頭を出すまでにさらに10分ほどかかります。


 ご来光のお出ましです。強烈な光が正面から飛び込んできます。


 振り返ると富士山が淡いピンク色に染まっています。


 富士山の撮影に夢中の登山者の向こうには箱根大涌谷の白い噴煙が見えます。


 矢倉岳の登山道は数年前の豪雨で山の斜面が崩れ落ちて、一昨年まではコロナ問題もあって登山禁止になっていました。それも昨年には崩落した場所にロープが張られて通行可能となりましたが、今年はコースが変わり崩落地を避けた尾根上のコースになっています。しかしこのコースは朝暗い中では登山道が分かりずらく、コースを間違えた人たちのライトがいくつか見えました。しかるに帰りは昨年のコースを利用しましたが、道の状態は昨年とほとんど変わっておらず、崩落個所は別にして尾根コースよりも楽に歩くことができました。しかし安全を考えると尾根コースを歩くべきでしょう。崩落個所を通過中に上部からの落石の危険が大いにあります。




 崩落個所には現在も安全のためのロープが張られていますが大分痛んでいます。


 下山時に使用したコースの入り口は通行止めになっています。


 通行止め手前から尾根道への案内標識があります。


 尾根道の過半部は万葉公園になっており、万葉集にある歌詞を彫り込んだ歌碑が立っています。


 万葉公園の道は散策には打ってつけです。








 足柄城址公園から見る富士山はなかなかいいです。矢倉岳山頂から見る富士より風格があって立派です。また来年も足腰に異常がなければ矢倉岳のご来光を見に来ます。

私が今回気になったのは、矢倉沢から足柄峠までの山岳道路を爆走するドリフト族です。急カーブが連続するこの道は、ドリフト走行には打ってつけなのでしょうが、夜でも一般車が通る公道でのドリフト走行は大変危険です。夜間この道を利用する人は十分気を付けてください。








成田街道を京成勝田台から京成佐倉駅まで歩きました。

2022年12月19日 | ウォーキング
 前回のゴールは勝田台でしたので、今回はそこからスタートしました。ここで出口を間違えて南口に降りてしまいました。駅の外に出てみたら駅前の様子が何だか変です。目の前に見覚えのない風景が広がっています。そこで頭が混乱して降りる駅を間違えたかもと思い、駅前をウロウロ歩き回って、町内の案内看板を見つけてそれを眺めて、やっと自分が駅の反対側にいることに気が付いた次第。そんな訳でスタート時間が午前9時50分と、えらく遅くなってしまいました。
 伊野町に来た辺りで成田道の道標がありました。石の道標は三つも並んでいて、後ろには石の灯篭も立っています。一番右のものは歌舞伎役者の市川団十郎が寄進したものだそうです。それは置いて周辺は住宅団地が多くて、歩いている成田街道(国道296号)は兎に角車が多い。登り下りの車線は一車線ずつの狭い国道。そこへ持って来て歩道も狭いと来ているから、正面から人や自転車が来るともう歩道はいっぱい。


京成ユーカリが丘はモダンな駅で、さすが新興住宅団地の駅ならではと納得。ここから京成線と成田街道は離れていきます。


 街道沿いは休憩場所がほとんど見当たらなく、上座総合公園まで行って休むことができました。ここから手繰川まで下りになります。手繰川の水源は印旛沼です。


 手繰川に架かる手繰橋を渡るとすぐ旧道は左に分かれます。ここからはあまり車のことは気にしなくて済むようになりました。が道はいきなり急坂となり暫く息を切らす登りとなりました。登り切るとなんと昭和の面影を残す懐かしい住宅風景が目に飛び込んできました。ゆっくりとその情景を楽しみながら歩いているとT字路にぶっつかり、そこに右成田の古い石の道標がありました。ここは臼田のほぼ中心地で、とても落ち着いた良い町だと気にいってしまいました。




 道標の通りに右に進むと雷電の碑の案内がありました。雷電と言えば子供の頃マンガ本を読んで知った、ものすごく強かった相撲取りです。




 案内に沿って進むと妙覚寺というお寺の前に、立派な石碑が立っていて、それには等身大の雷電像が掘られています。そしてその脇には大きな手形もありました。


 雷電の碑を見て今度は雷電の墓へ向かう途中に、放し飼いにされたニワトリたちが呑気に遊んでいました。このような光景を見るのはもう何十年ぶりでしょう。




 雷電の墓は街道を下った所から、右に入った細い道を500mほど行った先にありました。ごく普通のお墓でした。2m近くもあったという大男の墓とは思えない、ささやかな墓石が親近感を抱かせます。夫婦並んだお墓でした。


 現在の成田道と合流した所に立っている道標です。




 左に京成電鉄と並行に東に向かうのですが、このころから天候がおかしくなり雨が降ってきました。ついでに気温もぐんと下がり、慌てて防寒上着を着込みました。京成電鉄が街道から離れて行くところから道は単調になり、ただ黙々と歩くだけでした。道が下りとなり下り切った所が鹿島川で、立派な鹿島橋が架かっています。


 橋を渡って左に少しばかり旧道が残っているので、そこを歩いて現在の国道に戻り、佐倉城の外堀に沿って進むと国立歴史民俗博物館の入り口に着きました。正面の大きなゲートを潜り緩い石畳の坂を登って行くと博物館でした。


 この城址は明治になって陸軍の訓練場になり、それらの説明看板があちこちに立っています。


 博物館は大人600円の入館料が必要です。玄関前まで行きましたが、帰りの時間を考えて入館はしませんでした。立派な建物です。


 一応城址は見ておこうと少し歩き回ってみました。その中に大きな石がゴロゴロと転がっている場所がありました。何か陸軍の建物の基礎に使うべく、城の基盤として使ってあったものを持って来て利用したということです。




 本丸跡と天守閣のあった場所を示す石碑です。すっかり公園化されて、近所に住む人たちの憩いの場所になっています。住民にとってはとても贅沢な公園です。
 最後に博物館を出てから街道を南に進み、佐倉市立美術館前から京成さくら駅まで歩いて、今回の成田街道歩きは終了としました。時刻は午後3時50分になっていました。街道歩きの最後のステージは来年の春ごろに予定しています。


 


 



山遊塾荒川俱楽部第228回目「鴨川を歩く」後半です。

2022年12月04日 | ウォーキング
 さいたま市の西、荒川に沿うように南下する鴨川後半を一年ぶりに歩きました。新型コロナは未だ衰えることなく、逆に勢いを増してきている現在ですが、何とも世間はもういい加減うんざり状態で、町に出れば昔と同じ人、人で溢れています。しかし私たち後期高齢者の集まりでは、やはりコロナは脅威で、人との接触を極力避ける人がいますから、このようなイベントに参加する人の数はなかなか増えてきません。今回も参加者の数は8名とちょっと寂しいものになりました。
 12月3日はこの冬一番の冷え込みになって,みんな背を丸めて埼京線日進駅に集まりました。スタートは午前9時10分。駅北口を出て前回ゴール地点の番場公園まで行き、そこから鴨川左岸を南下しましたが、埼京線鉄橋を迂回するするのに少々時間を無駄にしてしまいました。写真は何とか川べりに出て新開橋を過ぎたところです。


 鴨川は新大宮バイパスの東を並行して流れていますが、陸上自衛隊大宮駐屯地の下流、新平和橋で右岸に移り三橋総合公園に入りました。何と言っても冬場はトイレが近くなります。公園のトイレを逃がすわけにはいきません。


 と、そんな訳で全員用を済ますと軽い足取りで公園内を、南入り口を目指して歩きます。メタセコイヤも粗方葉を落としていました。公園を出た所が旧国道16号で、ここで加茂川橋を渡って再び左岸に戻ります。


 左岸を少し歩いて今度は内野橋を右岸に渡り、更に新大宮バイパスに架かる歩道橋を渡ってバイパスの西側に。私たちが歩道橋を渡っているとき、手前で立小便をしていた老人(私たちも老人ですが)が、堂々とバイパスを横切って行きました。片側3車線の広い車専用の、しかも交通量の多い所なのに凄い度胸だと、感心するやらあきれるやら。




バイパスに沿って鴨川大橋を渡り、大宮スイミングスクールの前を通り、大宮~所沢を結ぶ県道56号に出て、栄橋の大宮駅側のほとんど見過ごしてしまうような細い道に入ると、「鴨川水辺の里」入り口の立派なゲートに着きました。ゲートを潜って人工の流れに沿った遊歩道を行くと、可愛い花壇もある東屋に着いてそこで昼飯タイムにしました。


 公園の広場は落ち葉に埋まり、晩秋の姿そのままです。風も冷たく雲も低く陽も差さないような状態では、公園で遊ぶ人も無くてひっそりしていました。落ち葉の中に誰も採らないカリンの実が沢山転がっていました。


 昼食後、再び鴨川縁に戻り新川(元入間川)の合流点を確認してきました。鴨川は元々入間川に流れ込んでいた支流のひとつだったのですが、江戸時代の河川改修などで荒川の流れを一本化して、そこに流れ込む支流を整理した際に現在の形になったということです。鴨川下流一帯は昔見渡す限りの大湿原で、その中を旧荒川が乱流していたそうです。




 新川合流点のすぐ下流に関沼溜井跡があります。ここで軽い休憩にしましたが、ここは堤を築き鴨川の水を溜めて関沼貯井とし、周囲八ケ村の用水としたそうです。現在も残る堤には桜の老木が並木を作っています。春の桜が見事です。


 今も残る関沼(備前堀)です。今は野鳥の保護のために立ち入り禁止が禁止されています。野鳥観察用の窓から見た関沼風景です。


 野鳥観察場所のクロガネモチの並木が素敵です。白いスベスベの幹が奇麗で思わず撫でてみたくなります。


 鴨川縁を歩いているとき良く皇帝ダリアを見かけました。今年はどこもこの花が良く咲いていました。


 関沼を過ぎてからは鴨川左岸の土手道をせっせと歩き、国道463号(浦和所沢バイパス・地元では埼大通りと呼んでいる)までは時折陽も差し、陽気も良くなって皆上着も脱いでピクニック気分で歩きました。ここの浅間橋を過ぎて次の諏訪橋で県道57号に移りましたが、この約550mほどは元入間川の大囲堤であって、今は大型の車が引っ切りなしに走っています。57号から離れ桜区役所に立ち寄ってトイレ休憩。なかなか立派な建物で一見役所とは思えないほどです。


 桜区役所を出ると間もなく鴨川堤桜通公園で、快適な土手道を歩いて行きますが、ここも江戸時代に築かれた元入間川の大囲堤です。鴨川は荒川に沿って直線的にさくら草公園に向かって流れています。大囲堤の中にNHK放送所の紅白に塗り分けられた電波塔が聳えています。私たちはその下を通って、さらに桜区クリーンセンター前のさくら橋に着いて、今回のウォークを終了しました。