おっさんノングラータ

会社帰りに至福を求めて

2007年10月の反省会

2007年10月31日 | チラ裏
「本は鏡のようなもの。それを読む人の内面を映し出す」なんて言葉があるが、今月は観る人の価値観や知識を問う映画が多かった。


まずは『パンズ・ラビリンス』。様々なメタファーがてんこ盛りで、観る人によって同じシーンでもこんなに解釈が違うのかと驚かされた。ある人は少女の最初の試練である大木を女性器だと捉え、洞に潜っていく行為を胎内回帰と解釈したし、またある人は大木=国家(スペイン)、大木を蝕む大蛙=独裁者(フランコ)だと考えた。夢判断などでは鍵はエロチックな象徴だし、『不思議の国のアリス』のようなエプロン・ドレスが汚されたりするので、もう少し性的なイベントがあったかもしれない。それはさておき、内戦時代から第二次世界大戦にかけてのスペイン情勢がある程度わかっていないと、いろいろ見過ごすことになりかねない映画だった。観て、大いに語れ

その点は『キングダム』も似ている。サウジアラビアとアメリカ、と言うよりは石油メジャーの関係を意識して観ると断然面白くなる。「FBIがサウジのルールを無視して無茶な捜査をする」「無敵のFBIが次々とテロをなぎ倒す」といった点が非難されそうだが、それぞれ911以降のアメリカが積極的に行っている価値観の押しつけ報復の連鎖である。明確には描かれていないものの自己批判的なものが感じられた。単なるアクション映画に終わっていないのがすごい。『シリアナ』を面白いと感じた人と一緒に観たい作品。


偶然だと思うが、今月上映された映画で50年代から60年代にかけてアメリカを語ることができる。

ゾンビーノ』は、ゾンビをペットにできる世界のホーム・コメディ。シュールなギャグは嫌いではないが、映画としてはもう一捻り欲しいところ。舞台は1950年代の郊外住宅地であり、強力な父権やマッチョリズムをゾンビを使って揶揄している。

『ゾンビーノ』ではマッチョの象徴たるゾンビ戦争の英雄が非業の最期を遂げるが、『ヘアスプレー』にも朝鮮戦争の英雄が登場し、主人公たちの行動を阻止しようとする。さすがに殺されることはないが、阻止は失敗に終わり、また性病持ちであることが明かされ、マッチョの権威は失墜する。映画は明るい未来を予感させるダンス・ムービーであり、鑑賞後は実に気持ちよく劇場を後にできる。トラボルタが一瞬見せる『フラッシュ・ダンス』のパロディも素敵だ。

ところが60年代はキューバ危機、ケネディ暗殺があって、ベトナム戦争へと突入していく暗黒の時代となる。その背後で暗躍していたCIAの創設からピッグス湾事件後までを描いているのが『グッド・シェパード』。夫婦生活の破綻を描くなら描く、端折るならもう少し端折って欲しかったし、時間軸の入れ替えに一部未整理な印象を持ったが、インテリジェンスの世界に関わるとろくなことにはならない、ということがよくわかる映画だった。OSSからCIAに組織が変わり、その役割が大きくなっていく過程がよくわかる。また調子に乗ったCIAがピッグス湾事件で大失態を犯し、墓穴を掘ったことも。CIAがケネディ暗殺に一枚噛んでいると思う人には是非観てもらいたい。


ローグ・アサシン』『ロケットマン』『クワイエットルームにようこそ』『仮面ライダー THE NEXT』はだいたい予想通りの作品。『クワイエットルームにようこそ』はシュールな笑いを楽しめるが、予想した以上に重い映画だった。メンタルなことで悩んでいる人、あるいはそういう人が身近にいる人は、何かと考えさせられることだろう。『仮面ライダー THE NEXT』は期待しなかった割には面白かったが、もう少し脚本が整理されていればと感じた。惜しい。


残念賞だったのは『インベージョン』。地雷とわかって踏みました。B級映画としても何とも中途半端な出来で、非常にがっかり。「共産主義恐い恐い」が使えないのなら、いっそ原作に忠実に作るとかすれば良かったのにと思う。セーターに密着した二コール・キッドマンの形の良い胸ばかりが記憶に残っている。

駄目かと思ったらやっぱり駄目だったのが『カタコンベ』。友人はサイコ・スリラーとして面白かったと評価していたけど、あらゆる意味で駄目だった。


読書傾向としては新刊ではなく少し古い作品ばかり読んでいたが、機本伸司の『神様のパズル』と『僕たちの終末』は当たりだった。前者はもともと評判が良い作品だったが、後者はどちらかと言えばwebで酷評されていた。つくづく他人の評価は当てにならないと思ったが、その逆のパターンが『イニシエーション・ラブ』。対象年齢を知りたい。もちろんこの評価も個人的なものであり、当てになるとは限らない

マイティ・ハート-愛と絆-』の予習として、『誰がダニエル・パールを殺したか?』を読んだが、読み物としてはそれほど面白いものではなかった。しかしダニエル・パール事件の大まかな流れを再確認でき、主犯とされるオマルがたどってきた道のりを知ることができたので、映画を観る上で大きな助けになると思う。だったら未亡人となったマリアンヌの『マイティ・ハート』を読めば良さそうなものだが、主観的になりすぎてないかと不安だったために『誰が~』を選んだ。こちらはこちらで取材小説のスタイルをとっていたので、十分に主観的だったのだが。

仮面ライダー THE NEXT(50点)

2007年10月30日 | 映画2007
PG-12の仮面ライダー
公式サイト

2005年に仮面ライダーを現代的にアレンジした『仮面ライダー THE FIRST』が公開され、機会がなくてそちらは観ていないのだが、観ておけば良かったと思わせるくらい本作は面白い映画に仕上がっていた(半分嫌味だが)。『スパイダーマン』などに比べて予算面で恵まれていないのは明らかだが、その限られた予算で映画を面白くしようとする努力が随所に見られた。監督は『劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4』の田崎竜太。

まるでホラー映画のようなシークエンスで映画が始まり、最初の惨劇が起こる。人気絶頂のアイドル、Chihiro(森絵梨佳)の新曲「プラチナ・スマイル」を聴くと呪われることがあり、顔を切り刻まれて殺されてしまうのだ。いきなり血塗れの死体が転がり、子供が見たら泣き出してしまうかもしれない。後で考えれば呪いの真相とは関係ない、金のかかっていない恐がらせ方も多いのだが。

場面は変わって仮面ライダー1号=本郷猛(黄川田将也)の日常が描かれる。彼は高校で生物の教師をしていたが、気弱な本郷の話を聞く生徒はおらず、教室は荒れ放題。それぞれ問題を抱えているような生徒だが、本郷は何故か不登校気味の琴美(石田未来)のことが気になり、一人暮らしをしているアパートまで押しかけてしまう。彼女はChiharuの親友で、最近連絡が取れなくなったことでChiharuの身に何かあったと心配し、何とか会って話をしたいと考えていたのだ。

この辺りのご都合主義はある程度は仕方がないとは言え、説明が足りなさ過ぎ。特に、琴美とChiharuの関係は琴美の台詞によってのみ表されており、それだけで納得しろというのはあまりに乱暴だ。普通に考えれば(たとえ最後の電話があったとしても)アイドルになって仕事が忙しくて連絡が取れない、という自己解釈で済ませてしまえるのだから。絶対に破れない約束を破ったとか、その約束が二人の絆を物語るものだったとか、短くて構わないのでエピソードが欲しかったところだ。

Chiharuには兄がいるが、妹と連絡が取れなくなったはずなのに不審に思わない兄もおかしい。親友には最後の電話を入れたのに兄に連絡しなかったのも変な話だ。またChiraruが所属する芸能プロダクションの所業も、「そりゃないだろう」という強引なもの。いっそショッカーに関係する組織であり、Chiharuを使った計画があったとするほうがすっきりする。

そのショッカーの今回の計画は、ナノロボットを使った人体改造。うまくいけばショッカーに忠誠を誓うかもしれない改造人間になるが、相性が悪ければ死んでしまうというもの。この計画を知った本郷猛は一文字隼人(高野八誠)とともにショッカーに立ち向かう。

仮面ライダーのデザインは出渕裕がアレンジしており、なかなか男前に仕上がっている。カラーリングも絶妙で、彩度を落とした画面によくマッチしている。

不整地路をオンロードのバイクで駆け抜けるシーンは馬鹿バイク映画の『トルク』を彷彿とさせる。またCB1300をベースにしたサイクロン2号で敵のバンを破壊するシーンはオリジナリティがあって惹かれる。総じてバイク・アクションは良かった。

戦闘員や量産型仮面ライダーとの戦いも、オーソドックスな殺陣とワイヤー・アクションとがミックスされていて面白い。敵ボスのチーターマン(シザーズジャガー/田口トモロヲ)も、両手剣に横回転といったような良い動きを見せてくれる。

二人が危機に陥った時にV3が登場するのはお約束。裏切り者続出のショッカーの社員教育はどうなっているのか疑問だ。燃え盛る炎の中、最後の戦いに臨むV3の絵は痺れるものがある。Chiharuパートのグダグダ感をしばらくの間、忘れさせてくれた。

前述した通り、物語の核に当たるエピソードでやや物足りない部分はあったが、全体としては楽しめる内容だった。あと一歩で十分に大人でも楽しめるコンテンツになり得るのだから、続編があるとすれば大いに期待したいところである。

(評価は100点満点です)


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クワイエットルームにようこそ(7/10)

2007年10月29日 | 映画2007
あなたもキ印、私もキ印
公式サイト

精神病棟を舞台にした映画と言えばジャック・ニコルソン主演の『カッコーの巣の上で』が思い出される。直接的には精神病治療に対する、間接的には管理型社会に対する批判が込められた内容である。それに対し本作は、「病院の内も外も大して変わらない」というメッセージが伝わってくる。それは例えば中の人も、中の人が外にいる時も、何かに救いを求めているという共通項で描かれている。

駆け出しのフリー・ライター佐倉明日香(内田有紀)は、ベッドに「5点拘束」された状態で目が覚める。そこは精神病院の隔離病棟だった。自分は何故、ここに運び込まれたのとか。記憶に残っているのは締め切りに追われ、原稿を書くためにノートPCに向かっていたこと。そして睡眠薬をアルコールで流し込んだことだった。

締め切りに追われているのに睡眠薬を摂取するという矛盾からも、最初に提示される記憶の内容が事実の全てではないことが明らか。精神病棟での治療なり生活なりを通じて彼女が病院へ運び込まれた本当の理由が解き明かされていくことが予想される。

原作・脚本・監督を務める松尾スズキは「笑いのための笑いはしない」とインタビューに答えていたが、前半は狙った笑いが少なくない。そのお陰で「目が覚めたら5点拘束」という、実は恐ろしいシチュエイションを拒否せず受け入れることができる。観客は内田有紀に容易に感情移入でき、精神病棟での生活を疑似体験することとなる。そして後半で辛辣な現実を突きつけられ、「じゃあ自分はどうなんだろう」と考えさせられる。巧みな構成だ。

高尚な表現なら人間観察、ずはり言えば見世物として、内田有紀以外の患者も興味深い。若手演技派と評される蒼井優をスクリーンで見たのはこれが初めてだったが、なるほどと思わせる好演。大竹しのぶの演技には、見ていて背筋が寒くなった。管理やルールに執着する看護婦を演じるりょうは、『カッコーの巣の上で』の婦長に勝るとも劣らない存在感を示している。

映画では彼女たちのエピソードにも触れられるが、主体となるのはもちろん内田有紀の話。次第に明かされていく彼女の過去は笑いの要素も含まれているが、衝撃的な内容。その中で二つのことを気づかされる。一つは「笑い」が彼女の人生におけるキー・ワードになっているが、笑いで何かが救われたことはないということ。もう一つは自分がこうしたい、こうなりたいという話はあっても、他者にこうしてあげたいという思いが殆ど伝わってこない点。その欠如に気づき、歪んだ形で答えようとしているために入院しているのが蒼井優だった。そして彼女と内田有紀は、病院内でのある作業によりその思いを短期間だけ育むことになる。これは機本伸司の小説『メシアの処方箋』に連なるテーマである。救いは身近なところにあるのである。

観終わった後、内容について誰かと話したくなるタイプの映画である。そのことを鬱陶しいと思わないでくれるパートナーがいれば、あなたは幸せであると言わざるを得ない

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以下、余談ながら。

土曜日のレイトショーで鑑賞したが、思ったより観客が多かった。それよりすごかったのが『クローズ ZERO』で、知人にも友人にもいないタイプが上映前のロビーにごった返していた。原作にも映画にも全く興味がなかったので、その人気のすごさにちょっとした衝撃を受けた。

ヘアスプレー(8/10)

2007年10月28日 | 映画2007
60年代にようこそ
IMDb

今、誰かをデートに誘うとすれば『ヘアスプレー』を選んだだろうし、実際、その選択は間違いでないと思わせる内容だった。

ピンク・フラミンゴ』などのカルト・ムービーで知られるジョン・ウォーターズの同名映画が原典。ちなみに彼は映画の冒頭、露出狂役で登場する。『ピンク・フラミンゴ』は劇中のお下劣決定戦犬の糞を食べることで有名だが、やろうとしたのは下品を極めることによる、固定観念の一転突破。白人の中では弱者であるデブの女の子が、ダンスを通じてより弱い立場にある黒人を救済するという『ヘアスプレー』は、武器がダンスに変わっただけで、若いエネルギーが旧弊を粉砕するという点で共通している。

そこで思い出されるのが、ファレリー兄弟の映画である。今年日本で公開された『リンガー! 替え玉選手権』は、健常者が身障者のフリをして身障者のオリンピックであるスーパーオリンピックに出場するというコメディ。現実にある差別を逃げることなく俎上に載せ、笑いというスパイスで臭みを消して観客に供するタイプの作品だ。フィジカルな欠点をネタにした映画では、ジャック・ブラック主演の『愛しのローズマリー』という秀作もある。

オリジナルはパット・ブーンのレコードを放り投げるシーンから始まるが、本作は「ボルチモア大、黒人の入学を禁止」という新聞の見出しがアップが映り、舞台であるボルチモアでは黒人に対する差別が色濃く残っていることを伝える。当時は黒人がテレビやラジオで出演するのが制限されており、黒人の持ち歌をまるで自分のもののように白人が歌うことがあったが、その一人がパット・ブーンだった。映画でも白人が黒人の曲を奪い、月に1回の「ニグロ・デイ」の司会者(クイーン・ラティファ)が番組のマネージャー、ベルマ(ミシェル・ファイファー)にクレームをつけるシーンがある。

この他にも黒人と白人が一緒に踊る場所ではロープで仕切りがされているとか、補習室で居残りをさせられているのは黒人ばかりであるとか、互いに住んでいる街へ行くことを「恐い」と言わせるとか、差別の実態をわかりやすく描いている。まあ一番わかりやすいのはダンス番組の黒人枠である「ニグロ・デイ」という言い回しだが、残念ながら字幕では「ブラック・デイ」とされている。それでは意味が伝わりにくいわけで、60年代の言葉にポリティカル・コレクトを適用する字幕はどうかと思う。

翻訳は戸田奈津子。清水俊二の弟子とは思えない日本語センスのなさはいかんともしがたく、「ホワイト(白人)の価値観/ライトな(正しい)価値観」「ビート/イート」「ウィッグ/ピッグ」といった韻などがことごとく無視されているのは残念だ。「ミックス」も差別をやめるといった受動的な訳し方をしていたが、本来は能動的に白黒混ぜようというニュアンスを含んでいるので、それではミシェル・ファイファーの怒りが伝わってこない。

そのミシェル・ファイファーはドイツ系の貴族の出であることが役名から想像がつくが、レイシズムのお手本のような言動を取ってくれる。星のお姫様の心臓でも食べたかのように若々しく、『恋のゆくえ ファビュラス・ベイカーボーイズ』を思い出させる美声を披露する。対するは女装したジョン・トラボルタで、オリジナルでトレーシーの母親とテレビ局局長(男装)の二役をこなしたディヴァインそのものだった。

ニグロ・デイの中止に立ち上がったのがトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)。自分がマジョリティの中のマイノリティであるためマイノリティに対して一切の偏見を持たない主人公が禁忌を破り、マイノリティを解き放つ。観客も自己の中にある偏見に気づき、映画のカタルシスをもって、たとえ一時的にでもそれを捨て去る勇気を得られるだろう。映画が描く60年代はその勇気を継続して持てる時代だったのだが(「朝鮮戦争の英雄」が性病の持ち主であることがわかるが、それは50年代を支配したくだらないマッチョリズムの終焉を象徴している)、ベトナム戦争後、アメリカの価値観は大きく揺らぎ始める。その背後にCIAの存在があるわけで、同時期に『グッド・シェパード』が上映されているのは興味深いことである。

残念だったのは、これまでに「You Can't Stop the Beat」を映画館の予告で散々見せられていたことで、これを劇中で見るのが初めてだったらどれほど盛り上がったことかと思う。

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以下、余談ながら。

予告の時から気になっていたのだが、トレイシーの友人を演じたアマンダ・バインズが良かった。と言うか、あの髪、あのファッションが萌えレーダーに反応するらしい。困ったものだ。

ヒートアイランド(6/10)

2007年10月27日 | 映画2007
お笑い『血の収穫』

垣根涼介の原作は読んだことがなく、また本作の存在も映画館で見たトレイラーで知った。事前情報が殆どない状態での鑑賞となったが、まずまず楽しめた。

渋谷でファイト・クラブを運営しているアキ(城田優)をリーダーとする「ギルティ」。渋谷をシマにしている関東ヤクザ「麻川組」。その渋谷でカジノを経営している関西ヤクザ「松谷組」。政治家やヤクザの裏金を狙う「強盗団」。それに南米マフィアと、全部で5つのグループが登場する。強盗団がカジノの売上げを奪い、その売上げの一部がギルティに渡り、残る4グループがその金を巡ってしのぎを削る、というのが大筋。

複数の組織が入り乱れる話と言えば、スケールはぐっと大きくなるが先日観た『グッド・シェパード』も同じだが、似たような登場人物が多いのと20年の時間差(老い)をビジュアルで感じにくいため、うっかりすると誰が誰だか、何が何だかわからなくなる。その点、本作では、それぞれ思いっきりカリカチュアされているのでそんな心配はない。安心してストーリーを追っていける。

そのカリカチュアの手法が観客に「くすり笑い」を誘う。ギルティの面々は、グループの名前の意味も知らないほど馬鹿だったり、太っている以外に撮り得のなさそうなサトル(鈴木昌平)は旺盛な食欲を示す以外に出番がないし、関西系のヤクザはボケとツッコミを交えながら暴力を振るうし、関東系のヤクザはいちいちポーズを決めて目薬をさすしで、ディテールで笑わせてくれる。南米系マフィアはパパイア鈴木が演じ、それだけで反則だ。磯野貴理子ネタにも、不覚にも笑ってしまった。原作がどうなっているか気になるところだが、恐らく文章で読むと痛々しく感じられるそうした小ネタが、映画では小気味良く演出されている。

フィルターがかかった、赤みを帯びた渋谷の映像も印象的。もちろん題名のヒート・アイランドをイメージしてのことだが、同時にアキが内心感じているだろう息苦しさや閉塞感も表現しており、結末を案じさせるものであった。

実際、これは閉じた世界の話である。大いなる偶然が連続するが、「どんな確率やねん」などという野暮なツッコミは控えたい。偶然と偶然をつなぐ必然の行為がきちんと描かれているので、優れたリレーの選手によるバトン渡しのように安心して見られる。そしてラスト・シーンで最終走者から第一走者に再び「バトン」が回される。

肩の力を抜いて観られる映画であり、また「渋谷」や「若者文化」「ポップ」などの言葉に抵抗がある世代の人も、それらにいちいち(笑)をつけたくなる層も、普通に楽しめる作品に仕上がっている。

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以下、余談ながら。

本作と『インベージョン』は会社帰りになんばパークスシネマで観た。その2回とも同じ列または一つ後ろの列に中年女性の「お一人様」がいて、映画が始まるや靴を脱ぎ、前列の背もたれに足をかけていた。トレイラーの間なら文句の一つも言えるが、本編が始まってからはどうも気後れしてしまう。他人の視界内で靴を脱いで汚い足を前の席の背もたれにかけるような愚劣な輩は、公共施設に来るな、ということだ。

今年、広島の映画館で『選挙』を観たが、その時は本編が始まってもおしゃべりをやめない初老の夫婦を、「静かにしてくれませんか」と老人が一喝した。長生きはできないかもしれないが、そういう老人になりたい。

ブラッド・ワーク(6/10)

2007年10月26日 | テレビ映画2007
この後からすごくなる
IMDb(6.2/10)
10月25日放送(テレビ東京、木曜洋画劇場)

21世紀最初のイーストウッド監督作品が本作であり、以後『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』へと続く。それらと比べると見劣りがするが、それ以前と比べると原作(マイクル・コナリーの『わが心臓の痛み』)をうまく料理した佳作である。例えばキース・ピータースン=アンドリュー・クラヴァンの傑作『真夜中の死線』を改悪した『トゥルー・クライム』(1999年)などと比較すると雲泥の差がある。『トゥルー・クライム』の脚本は原作をきちんと消化できておらず、また重要な設定を変更したために全体に齟齬が生じていた。一方の『ブラッド・ワーク』は原作に敬意を払いつつも適度な省略と誇張を行ってメディア・コンバートに成功した。

主演はイーストウッド本人。FBIの現場捜査官でありプロファイラーのマッカレブは連続殺人鬼を追っていた。犯行現場には決まって謎の文字列が残され、犯人は明らかにマッカレブを挑発していた。現場付近で犯人を見つけたマッカレブだが、追跡途中に心臓発作を起こし、取り逃がしてしまう。

マッカレブは心臓移植を受けるためFBIを辞職。それから2年、ようやくドナーが現れて移植手術が行われた。

そのマッカレブの前に、一人の女性(ワンダ・デ・ジーザス)が現れる。妹の命を奪った強盗を捕まえて欲しい、と。もはやFBIでもなければ私立探偵のライセンスを持っているわけでもないマッカレブだが、この申し出を断ることができなかった。妹の心臓が、彼の身体の中で脈打っていたのである。

警察は単なる強盗事件と片づけていたが、プロファイラーである彼は、些細な証拠からかつての連続殺人鬼へとつながる「線」を見つけ出す。ダーティー・ハリー的な手法を取らないのは『トゥルー・クライム』と同じ。イーストウッドが次第に事件にのめり込んでいくのは、もちろん姉の願いを叶えたいという気持ちもあるが、同時に仇敵を追い詰める心地よさも感じていたからだ。移植手術から数カ月しか経っておらず、体調万全でないマッカレブをサポートする相棒「バディ(ジェフ・ダニエルズ)」に車の中でそうした心境を吐露する演出が心憎い。アンジェリカ・ヒューストンティナ・リフォードも好演。

中だるみしそうになるとアクション・シーンが適宜挿入され、観客を退屈させない(あるいは、チャンネルを換えさせない)。ただしアクションが問題を解決するのではなく、地道な捜査の積み重ねが問題の解決へと導く。暗号の謎も犯人も、種明かしをされると「何だ」という程度だが。

主人公がアクションを起こしたことで起きる結果に対してどうリアクションするか、がハードボイルド小説の肝になると何かで読んだが、その説に従うと本作は断じてハードボイルドではない。つまりはダーティー・ハリー的ではない。もう少し移植された心臓に絡むエピソードがあれば話は膨らんだし、連続殺人鬼の目的と併せて不気味さも増しただろうが、犯罪スリラーとして楽しく観ることができる。

ただ、イーストウッドとワンダ・デ・ジーザズとのロマンスは蛇足だったように思う。それだったら移植患者とドナー(及びその家族)の関係をもっと掘り下げてくれたほうが話としては深みが出たのだが。

最初に書いた通り、本作以降、イーストウッドの監督としての手腕がぐっと高まっている。『ミスティック・リバー』にしても『ミリオンダラー・ベイビー』にしても原作の料理の仕方が抜群に巧い。その萌芽を『ブラッド・ワーク』に見ることができるのである。

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インベージョン(4/10)

2007年10月25日 | 映画2007
ウイルス性人類補完計画
IMDb

『インベージョン』はジャック・フィニイの小説『盗まれた街』を原作とする4本目の映画であり、多分、最低の出来だろう。それにしても、いくらハリウッドがネタ不足で喘いでいるからと言って、同じ原作をこれほど繰り返し映画化する理由は何だろうか。あまりに映画がつまらなかったので、そのことをずっと考えていた。

スペースシャトルが地球へ帰還途中、爆発・四散してしまう。広範囲に破片が散乱するが、その破片には正体不明のウイルスが付着しており、それに接触した人は感情を持たない「人間でない何か」に変質する。感染は爆発的な勢いで世界中に広まる。誰もが感情を持たなくなったものだから争う必要がなくなり、イラクに平和が訪れるわ、金正中は核施設放棄に合意するわで、軍産複合体が発狂しそうな世界情勢が訪れる。

この「人間ではない何か」は、戦争は嫌いだけれど、自分と異なるものは許せないらしい。感染していない人間を見つけると、ゲロを吐きかけてウイルスを浴びせるのだ。このウイルスは接触しただけなら大丈夫だが、レム睡眠中に分泌されるホルモンと結合して人間を「何か」へと変質させる。「眠っちゃダメ」という宣伝コピーの由来はここにある。敵だけではなく、睡魔とも戦わなくてはならないのだ。

人々の異変にいち早く気づいた精神科医のニコール・キッドマンは、「何か」になってしまった元夫にうっかり預けてしまった息子を救い出せるのか? そして感染を食い止めることはできるのか? 書いてて嫌になってきた。4点のうち3点はニコール・キッドマンに捧げます。いつもながら彼女は美しかった。たとえ3人の子供のうち2人がお菓子を取り合い、1人がその騒ぎから外れているのを見て、「あの子、学校で孤立してない?」なんて精神科医じゃなく素人が見てもわかりそうなことをわざわざ口にしても、だ。至近距離とは言え拳銃を使えば百発百中、狙い過たず脚に確実にヒットさせられるのだから、転職を考えたほうがいいんじゃないかと思う。

ドン・シーゲルによる最初の映画化作品では、「見た目は同じでも得体の知れない敵」とは共産主義を象徴していた。公開された1956年はアメリカ国内における赤狩りが終焉を迎えた時期であるが、ワルシャワ条約機構が生まれた翌年でもあり、冷戦の激化に伴い共産主義に対する根拠のない脅威が高まっていた。本土を武力で侵攻された経験を持たない*アメリカにとっては、共産主義という得体の知れない何かが国内で増長することこそ、リアルなインベージョン=侵攻だったのだろう。

* 厳密に言えば1812年戦争でイギリス軍にホワイトハウスを焼かれたことがある。

それでは今回の『インベージョン』では、何の侵攻を描きたかったのか?

スペースシャトルが墜落した結果、ウイルスが蔓延、人間性の喪失が始まり、世界中の紛争が終息した。完全に公平な世界、それ何て人類補完計画? と尋ねたくなるが、そんなことになれば争いがなくなる代わりに競争もなくなり、文明も終わってしまう。ウイルスが異星人による侵攻の尖兵ということであれば、それはそれでありか。人間が人間でなくなるのは困るので、映画の最後ではワクチンが開発され、感染者も元の人間に戻る。しかしその結果、再び世界各地で紛争が再開されるのだった。

皮肉なエンディングとも取れるし、ブッシュのやっていることは人間性に基づいた正しいことなのだと言っているようにも取れる。墜落したスペースシャトルの名が「パトリオット(愛国者!)」なのだから、何をかいわんやである。

今のアメリカが何かに「インベージョン」されるというのは現実感に乏しい。むしろアメリカが世界中に紛争の種をばら撒いているのであり、価値観を強要しているのである。政治的・経済的・文化的侵攻を行っている国が何の「インベージョン」に脅えるのか、という映画の観方そのものが間違っていることになる。そうなるとやはり、ブッシュは正しいと言いたいのか、と勘繰りたくなるのである。

監督は『ヒトラー~最期の12日間~』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル。この映画ではヒトラーを人間的に描きすぎていると、ユダヤ人団体から非難されたが、さすがにその罪滅ぼしで「人間だもの、紛争は仕方がないよね」という映画を撮ったわけではないだろう。

本作は試写が不評だったため、プロデューサーの指示でウォシャウスキー兄弟が脚本を変更、クライマックスのカーチェイスが追加され、変更箇所はジェームズ・マクティーグが監督した。そのため、オリヴァー・ヒルシュビーゲルを責めるのは酷かもしれない。観客にとっては払った金額に見合う映画さえ観ることができれば、そんなゴタゴタはどうでもいいことなのだけれど。

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僕たちの終末(7/10)

2007年10月24日 | 読書2007
『神様のパズル』(機本伸司/角川春樹事務所)
バーナード星には風土病があるんじゃなかったっけ?

他人の評価は当てにならないと痛感した一冊。『神様のパズル』『メシアの処方箋』に続く機本伸司の「自分探しSF」第3弾。宇宙、救世主に続いて、今回は恒星間宇宙船を造るという話。

今から半世紀ほど未来では太陽暴風が強まっていて、日本でもオーロラが見られるほどになっていた。このままでは地球上の生物が死滅するのは避けられない。国レベルではスペース・コロニーや地下シェルターを建造しているが、それではとてもこの難局を乗り切れそうにない。人類滅亡のカウント・ダウンが始まる中、恒星間宇宙船を建造し、移住可能(そうな)バーナード星系を目指すという突飛なアイディアがweb上で公開され、乗船希望者の募集が始まった。人材派遣業を営む父親がこれに応募したにもかかわらず、問い合わせをしても何らリアクションがないことを不審に思った娘・那由は主催者に直談判を申し込む。そこで明らかになったのは、主催者は政府にも強力な力を持つ神崎工業の御曹司、神埼正であること、しかし本家とは絶縁状態であり、天文学に詳しいタダのプータローであること、そして正に詐欺の意志はないが、計画性も皆無だということだった。父親の提言もあり、夢見がちな正とは対照的に実務能力の高い那由は、なし崩し的に恒星間宇宙船の建造事業を任されることになる。

とまあ、無茶苦茶な展開だが、いかにして中小企業が金銭的、技術的、政治的、法的制約をくぐり抜けて宇宙船を建造するかというシミュレーションである。黙っていても終末が訪れるという前提なので、多少の無茶には目を瞑ろう。

本作で特に批判の対象になっているのが、女性キャラクターの造形である。ツンデレの那由、可愛い系のプリン、クール・ビューティーのベガ、妹キャラのミリと、それだけ聞かされると「太陽の異常活動で人類の移住先を決めると言ったら『ヤマトIII』だろう」と真っ先に思ってしまう中年男性が読むには二の足を踏んでしまうが、実際、それほど気にならない。本作においては、登場人物の行動はワイドショーで報じられる芸能ニュースみたいなもので、感情移入する類のものではなく、「ああ、そうですか」で軽く受け流すことができる。読者としては人類滅亡という現実が突きつけられた時、恒星間宇宙船で脱出するというオプションがどの程度実現可能なのか、可能であれば自分はどのような選択をするかということに重きを置くべきであろう。宇宙船建造においては主人公側とは別に対案が出されるが、両者のプレゼンが始まると、自分が乗るとすればどちらがいいか、真面目に検討したくなる。そうした思考実験が、ひいては本書のテーマへとつながるのだ。

宇宙船建造に関する記述は少ないため、エンジニア系の話を期待していると肩透かしだが、本作の焦点は前述の通り「自分探し」に当たっているので仕方がない。

webで始まる詐欺まがいの話から始まって、風呂敷はどんどん大きくなっていき、どうやって畳むのかと思ったら、読んでいるこちらが照れるような落ちには笑った。でも、まあ、そういう理屈に合わない話は嫌いではない。

グッド・シェパード(8/10)

2007年10月23日 | 映画2007
いっそ校長=佐藤優、教頭=手嶋龍一で中野学校を復活させよう
IMDb

マット・デイモンとアンジェリーナ・ジョリー夫妻が愛と仕事の間で苦悩する駄目な映画かと覚悟をして観たが、良い意味で予測は裏切られた。むしろそうした乳繰り合いを期待して劇場に足を運んだ人は、冒頭5分で置いてけぼりをくらうかもしれない。第二次世界大戦からキューバ危機までの世界史の基礎知識がないと、日本人に馴染みのないテーマということもあり、話の流れが見えないのだ。あるいは、世界史を勉強していなくても、その頃に起こった事件をテーマにした映画や本に通じていればいい。今年公開された『さらばベルリン』も無関係ではないし、文庫になったジェイムズ・エルロイの『アメリカン・デス・トリップ』は本作の後に起きる、ケネディ暗殺を扱っている。どちらもお勧めできるほどの内容ではないが、観たり読んだりしていると本作を理解する助けになる。この映画は観る人を選ぶタイプの映画である。

映画はCIA主導で行われた1961年のピッグス湾侵攻から始まる。CIAは亡命者を武装させてキューバへ逆上陸させカストロを倒すことを目論んだが、計画は敵側に筒抜けであり、返り討ちに遭ってしまう。情報はCIAから漏れたらしい──そのことを示すかのように、作戦を指揮したエドワード(マット・デイモン)の許に1枚の不鮮明な写真と録音テープが届けられる。そこに情報漏洩のヒントが隠されているかもしれないと、エドワードは分析にかける。

と、ここで話は約20年前の第二次世界大戦前夜へ飛ぶ。当時はまだCIAは存在せず、その前身であるOSS(Office of Strategic Service)が創設されたばかりであった。メンバーは、イェール大学の限定的な学生組織である「スカル&ボーン」出身者が中心。成績優秀だったエドワードは特に見込まれ、同時にFBIからもマークされるようになった。

クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)と懇ろになったのはこの頃。友人の妹であるクローバーは積極的にエドワードにアプローチ。『スピーシーズ』のエロエイリアンもかくや、という勢いでエドワードを篭絡する。妊娠、そして結婚。しかしその一週間後には、エドワードのロンドン赴任が決まった。

アンジェリーナ・ジョリーは結婚前はうんざりするほどのフェロモンを放ち、結婚生活に疲れてからはいい具合に枯れていき、夫婦が完全にすれ違うようになってから諦念を漂わせと、20代からの20年間を見事に演じている。

第二次大戦中、エドワードはロンドンでイギリスの情報機関に学び、対諜報作戦(カウンター・インテリジェンス)を指揮する。戦後はベルリンへ飛び、ドイツの科学者を一人でも多く確保するために奔走した。なおクローバーの兄であり、エドワードの友人ジョンはビルマで戦死したことが明かされる。OSSはビルマに情報将校を送り込み、山岳部族を率いてゲリラ戦を展開した。『遠すぎた橋』にもOSS将校が登場する。

この後も映画の中のリアル・タイムの物語と過去とを交互に描かれ、OSSがCIAとなり、戦争が終わって平和になるどころか、インテリジェンスの重要性はますます高まり、エドワードが抜き差しならない状況に追い込まれていく様が映し出される。エドワードは感情を表に出さないキャラクターであるため、CIAに取り込まれていくことの焦燥感や戸惑いが伝わりにくいかもしれない。その代わりに初恋の相手であるローラ(タミー・ブランチャード)とクローバーの間で揺れ動く感情と、そのために犯してしまった失敗、最終的にエドワードが下す決断といった間接的な表現で、国家に取り込まれてしまった哀れな男の姿が描かれている。マット・デイモンの抑制の効いた演技が良い。

KGBがCIAに送り込んだスパイのエピソードでは、亡命スパイに思い切った台詞を吐かせる。今は別の主格になっているが、根本は同じである。『キングダム』でも少しだけ触れられている真実だ。このエピソードはごっそり削っても話の辻褄を合わせることができることを考えると、ロバート・デ・ニーロはよほどあの一言を叫びたかったのだろう。

さて、そうしたエピソードを通じてCIAが質的変化を始めたことを語りつつ、物語はクライマックスへ。映画の冒頭でエドワードに届けられる写真とテープの真相が明らかにされる。またもう一つの謎である、自殺したエドワードの父親の遺書の内容がついに語られることとなる。詳しくは書かないが、彼は「良き牧羊犬」になることを選ばざるを得なかった。そして彼が取った行動は、まさに良き牧羊犬が取るべきものだった。

もちろん、脚本上のミスと思しき点がないわけではないし、これがロバート・デ・ニーロにとって2作目の監督作品であることを割り引いても編集は巧いとは言えない。それでも2時間47分に及ぶ物語を見終わった後、インテリジェンスの世界に生きる男の矜持と悲哀が少しだけ理解できる。派手なスパイ・アクションや、非情な男の世界に涙する女の涙に期待して映画を観ると落胆することになるが、佐藤優や手嶋龍一(パンフレットに解説あり)の著作に興味がある向きにはお勧めしたい。

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グラスハウス(3/10)

2007年10月22日 | テレビ映画2007
馬鹿な男が馬鹿姉弟の遺産を狙う馬鹿話
IMDb(5.6/10)
10月18日放送(テレビ東京、木曜洋画劇場)

木曜洋画劇場は、その扇情的な独自の予告編でマニアの支持を集めている。本作でも「女子校生の身体に絡みつく、義理の父親の怪しい視線」と、何とも劣情をもよおす惹句が用意された。全くの間違いではないが、では映画を正しく紹介しているかと言えばそういうわけでもない。リリー・ソビエスキーの下着姿と水着姿のサービス・カットはあるが、一瞬だ(そもそも肉付きが良すぎてある種のマニアでないと反応しないのではないかと思う)。『グラスハウス』は一応サスペンス映画なのである。

学校で友人とジャンク・フードを食べるため、母親が作ってくれた弁当をゴミ箱に捨て、夜な夜な遊び回り、宿題のレポートを丸写しするような馬鹿姉(リリー・ソビエスキー)とゲームができればそれで満足、という馬鹿弟(トレヴァー・モーガン)。その両親が結婚記念日に交通事故に遭って死に、馬鹿姉弟はかつての隣人だったグラス家に引き取られることに。グラス夫妻はその名の通りガラス張りの豪華な邸宅で暮らしており、夫(ステラン・スカルスゲールド)は自動車整備工場を経営し、妻(ダイアン・レイン)は医師だった。シカゴに叔父はいたが、両親の遺書に従いグラス夫妻が後見人に選ばれた。

馬鹿姉弟には400万ドルの遺産が相続された。観客(視聴者)は馬鹿ではないので、グラス夫の経営している会社が何か金銭的な問題を抱えており、その遺産を狙っていると察しがつく。加えて馬鹿姉弟の両親は交通事故で亡くなっており、グラス夫が自動車整備工場を経営していれば、その関連も疑われる。そして、その予想通りに話が展開する。

グラス妻にダイアン・レインを起用しているのだから、また足りなさそうなリリー・ソビエスキーが馬鹿姉を演じているのだから、グラス夫妻の陰謀なのか、それとも全ては馬鹿姉の妄想なのか、結果は同じだとしてもそうした謎をもう少し引っ張っても良かったのではないか。最初から答えを見せられていて、それを出来の悪い方法で解き明かされても緊張感も何もない。グラス妻が最後に見たビデオ、あれは恐らく亡くなった夫妻の娘の映像だと思うが、そのようなエピソードをもっと効果的に使えば、馬鹿姉を一時的にでも観客の敵に仕向けることができ、話も膨らんだだろう。馬鹿姉の宿題にハムレットの研究が出されるが、両親の仇討ちという結末は既に予測済みなので、伏線にもなっていない。

終盤は大雑把にも程がある展開。グラス夫の計略は笑いなしでは見られないものであり、高利貸しの連中も、見ず知らずの男をナイフでいきなり刺すのはあんまりだろう。また両手を縛られた状態で車に乗せられ、崖から落ちてもなお平気で、警官を殴り倒して拳銃を奪う元気がある人間も珍しい。それだけ元気なら最初から自分の手で高利貸しを始末したらどうだろうか。

そもそも100万ドルの借金を返済するのに馬鹿姉弟の遺産を狙ったわけだが、どうやって金を引き出そうとしたのか疑問である。一応計画らしきものはちらりと描かれるが、あまりに説得力がなかった。また家の改築、増築のため、あるいは学費の高い学校へ通わせるためといって遺産を管理している弁護士から金を引き出していたが、そんなもの利子にもならない。まったく、馬鹿が馬鹿から金を引き出そうとする馬鹿話だ。

馬鹿つながりになるが、主演のリリー・ソビエスキーは『ウィッカーマン』という馬鹿映画に出演している。来年のラズベリー賞を総なめするのではないか、というすごい映画である。

麻薬中毒の女医という、これまた馬鹿げた役を好演したダイアン・レインだけが救いだった。

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『月光の夏』と『俺は、君のためにこそ死ににいく』

2007年10月21日 | 映画コラム
NHKスペシャル
「学徒兵 許されざる帰還 ~陸軍特攻隊の悲劇~」
10月21日放送

今年、陸軍特攻隊を扱った映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』が公開されたが、機会がなく観に行くことができなかった。興行的には失敗だったそうだが、好意的な評価も多く、特攻をテーマにした映画としては珍しく、ウェットに過ぎることもなかったようである。

映画の舞台となった知覧からは、沖縄へ来寇したアメリカ艦隊に対し、特攻作戦が展開された。1943年の10月21日、学徒動員の壮行会が行われ、動員された大学生、専門学校生の多くは搭乗員として短期間の訓練を受け、そして特攻作戦に投じられた。特攻作戦はレイテ沖海戦で海軍が始めたものだが、番組では海軍を後追いした陸軍の特攻作戦に焦点を当てている。『俺は~』を観る上で、良質の参考映像になるだろう。

しかし、特攻出撃した全員が戦死したわけではなかった。主に整備不良により、出撃できなかった者、途中で引き返した者が少なくなかった。正確な数は記憶していないが、4割程度だろうか。だが、特攻作戦を指揮する者としては、戦死したはずの人間が生きていると具合が悪い。これから死地に赴く者の士気が下がるかもしれないのだ。そこで彼らは福岡の振武寮へ収容されることになる。振武寮における隊員の扱いは想像がつくが、一度死ぬ覚悟をつけた人間が生き延びてしまったこと、自分は生きて同僚は死んでしまったことが精神に与える影響は計り知れない。振武寮から三重の基地へ送られた隊員のうち、終戦の翌日に3人は自決、3人は敵艦のいない海面に突入したという。

これまで殆ど語られてこなかった振武寮を扱ったのが、『月光の夏』だった。公開された1993年当時は宮崎県都城市に暮らしており、舞台が佐賀県鳥栖市と近いこともあって劇場へ足を運んだ。

鳥栖小学校に、ドイツのフッペル社製の高価なピアノがあった。死ぬ前にこのピアノを弾きたいと、二人の特攻隊員が小学校を訪れる。一人はピアニストの卵、もう一人は音楽教師を志していた青年。ベートーベンのピアノソナタ「月光」を弾いた後、二人は隊に戻り、そして沖縄へと飛び立っていく。

10年以上前に観たきりなので、記憶違いがあるかもしれないが、映画はこのエピソードと、このエピソードを検証する「ノンフィクション」パートがあり、前者はなかなか感動的だったが、後者は「振武寮」というそれまでに取り上げられる機会が少なかったテーマを取り上げる目新しさはあったものの、やや冗長な内容だった。無理に引っ張るのではなく、NHK特集くらいの尺で十分である。全てを語らずとも、最小限の言葉でそこで何があったか、当事者はどう思ったのかある程度は想像がつくし、想像がつかない層はそもそもこのテーマに興味を持たないだろう。また当事者の思いを完全に伝えることは、どれだけ時間をかけても不可能である。

むしろ問題は、ノンフィクション・パートの何がノンフィクションなのかを明らかにしなかった手法である。「掴み」のエピソードが検証できていない以上、こうしたやり方は疑問が残る。いっそ、前半部分を完全なフィクションとして、一つの作品として仕上げたほうが良かったのではないかと思う。

「自分も必ず後を追うから、安心して特攻して欲しい」と若者を生還の見込みがない特攻作戦に送り出した、陸軍第6航空軍司令官の菅原道大中将は、その言葉を実行することなく昭和58年、95歳まで生きたとナレーションは伝える。一方で、「特攻帰り」の語り部は、戦死した戦友の遺族を訪ねて全国を旅している。番組はここで終わり、やりきれなさだけが残る。

恐らく、特攻というものを考えるには、責任を曖昧にしてしまったという批判もあるが、一応は同じような約束をして、切腹という形でその約束を果たした大西瀧治郎を抜きにすることはできないだろう。「特攻生みの親」と呼ばれる大西だが、航空作戦においては非常に優秀な人物であった。『俺は~』では伊武雅刀が演じた。

映像作品では『ああ決戦航空隊』が大西個人に焦点が当てられており、鶴田浩二が熱演している。玉音放送に激怒し、天皇に自決を迫る鶴田の叫びに、あらためて特攻とは何だったかを考えさせられる。NHK特集や『俺は~』で特攻に関心を抱いたなら、観ておいて損はない映画である。

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アフター・ザ・ストーム(5/10)

2007年10月20日 | テレビ映画2007
肝心の心理戦は中日新聞で先発を予想する原レベル
IMDb(5.1/10)
10月16日放送(よみうりテレビ、シネマチューズデイ)

予告では海洋パニック・ムービーを思わせたし、DVDのジャケットもそんな感じだが、『ジョーズ』などを期待して観ると前半の30分で眠ってしまうかもしれない。原作はヘミングウェイの『嵐のあとで』。鮫も出ることは出るが、主題は沈没船のお宝を巡る人間の心理劇。レンタルの回転率を上げるためだろうが、「荒くれ海獣!」の惹句はひどすぎて笑ってしまう。なお本作は劇場公開作品ではなく、テレビ映画。

洋上に停泊する豪華ヨットの資産家に仕事を依頼されたアーノ(ベンジャミン・ブラット)。しかし夜に嵐が訪れ、翌朝、停泊地点へ向かったところヨットは沈没していた。捜索隊に見つけられるまでにお宝を引き上げることができれば、今の生活からおさらばできると、アーノは想いを寄せるコンキーナ(ミリー・アヴィタル)とともに宝石類を回収しようとする。しかしそれをジャン=ピエール(アーマンド・アサンテ)とジャニーヌ(シモーネ・エリーゼ・ジラード)に見つかり、4人で山分けすることに。

時代設定は1930年代なので、アクアラングを背負ってのダイビングではなく、金魚鉢のようなヘルメットと潜水服を使って潜るのがミソ。船上のコンプレッサーで空気を送り込んでやらなければならず、本当なら信頼関係がないとおちおち海底に潜っていられない。しかもジャン=ピエールは以前の潜水で鼓膜が破れており、財宝を回収できるのはアーノただ1人なのだ。残る男1人と女2人は船上で待っているだけである。

そうすると、アーノは海中で悶々と作業をしなければならないし、しかし殺人の嫌疑もかけられているので逃げ出すこともできない。それはジャン=ピエールのブラフであり、途中で見破られるのだが、そのために四人の心理戦はヒート・アップすることになる。しかもジャン=ピエールはコンキーナにモーションをかけ、ジャニーヌもアーノに財宝の横取りを持ちかけ、コンキーナは寝返ったふりをするよう仕向けられるので、四人の真意が全く見えくなり緊張の度合いは次第に高まる。ドラム缶を逆さにしたような簡易潜水室のようなものを使って金庫の中にある金塊を引き上げる時には、それまでアーノが一人だけで潜っていたところ、ジャニーヌが参加するようになる。つまり二人だけで海中で内緒話ができるようになり、いよいよ全員が疑心暗鬼に駆られて、心理戦はクライマックス・シリーズに突入する……はずだが、どうも役者の演技が冴えないこともあって、心理戦の緊迫感が伝わってこなかったのが残念。

ところで鮫だが、恐らく溺死した乗客を美味しくいただいたのだろうが、沈没船の周辺を遊弋している。しょぼいCGで処理されており、決して「荒くれ海獣」を期待してはいけない。

それほど意外性のある結末とは言えないが、蓋然性のある終わり方ではあり、海洋パニック・ムービーを期待していたのでない限りは「ああ面白いテレビ映画だった」という感想を持つだろう。ただしヘミングウェイ原作だと意識して観ると、腹立たしく思えるかもしれない。心理劇を面白く見せてくれるが、決してそれ以上のものではないのである。

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おそらくは夢を(2/10)

2007年10月19日 | 読書2007
『おそらくは夢を』(ロバート・B・パーカー/ハヤカワ・ミステリ文庫)
お前は誰なんだ?

今年3月、村上春樹による新訳『ロング・グッドバイ』が出版され、レイモンド・チャンドラー・ファンは大いに喜んだ。清水俊二の訳の『長いお別れ』は省略があったと言われていて、村上訳は「完訳」となる。より原文に忠実な文章であり、あらためてチャンドラーの筆力を感じた。だからと言って清水訳が駄目というわけではなく、文章の切れではこちらのほうが上だろう。依然として輝きを失ってはいない。

『おそらくは夢を』(『夢を見るかもしれない』改題)は、スペンサー・シリーズをだらだらと続けているロバート・B・パーカーによる、チャンドラーの『大いなる眠り』の続編である。本人は自分のことをチャンドラーやハメットの後継者と考えているようで、チャンドラーの遺稿を引き継いで『プードル・スプリングス物語』というとんでもない作品を仕上げた経歴を持つ。残念ながら本国でも日本でも酷評されたが、完全な続編として書かれた本作はどうだろうか。

『おそらくは夢を』では、プロローグを含めて随所に『大いなる眠り』を引用しており、原作をリスペクトしているとも、世界観を崩さないように努力しているとも言えるが、どうも手抜きのように感じられた。ストーリーもいたって陳腐だ。『大いなる眠り』でマーロウが救った妹はサナトリウムに入れられるが、そこで行方不明となる。執事の依頼で捜索を開始するマーロウだが、背後には権力の壁で守られているおかしな性癖の悪人が蠢いていた。そんな話はスペンサー・シリーズでやってくれ

しかもその悪人がやっていることがセコい。セコい上に間抜けでもあり、明らかな殺意を持った上でマーロウを2度も自分の船上で拘禁したにもかかわらず、死体の始末が楽だからと、沖合いに出るまで殺そうとしない。殺してから沖で捨てればいいじゃんと、どうしても突っ込みたくなる。

どれだけオリジナルを引用しようと、またマーロウらしさを演出しようと、筆力の差がありすぎる。チャンドラーのような気の利いた台詞は、残念ながらパーカーからは生まれてこない。外見をマーロウに似せたところで、中身はスペンサーなのである。いや、スペンサーがスペンサーをやるぶんには全く問題ないし、スペンサー・シリーズにも好きな作品はあるのだが、スペンサー・ライクなマーロウを出されても困る。もちろん、スーザンやホークが登場していつものかけ合いをしてくれるわけでなし、パーカーのファンにとっても消化不良な内容である。

また、翻訳の問題もある。石田善彦が悪いとは言わないが、フィリップ・マーロウの語り口は清水俊二の日本語で刷り込まれている。山田康雄以外の声でクリント・イーストウッドが日本語を話すと違和感があるのと同じで、どうも調子が出ないのだ。

そんなわけで、チャンドラーのファンにとっても、パーカーのファンにとっても読むと不幸になるのは確実であり、両者のファンでなければグダグダな話に過ぎないので、ネタにするのでない限り生暖かく見守るのが無難だろう。

スピーシーズ種の起源(4/10)

2007年10月18日 | テレビ映画2007
エロエイリアンvsずっこけ4人組
IMDb(5.5/10)
10月11日放送(テレビ東京、木曜洋画劇場)

魅惑のエロチック・ホラー第1弾」としてテレビ東京系列で放映された。第2弾以降が気になるところだが、翌週(10月18日)は『グラスハウス』。「女子校生の身体に絡みつく、義理の父親の怪しい視線……」と、相変わらず劣情をもよおす番宣ナレーションが素敵だ。その後は『ブラッド・ワーク』『DENGEKI』『椿山課長の七日間』と続くので、そのうち「魅惑のエロチック・ホラー」が忘れ去られそうで仕方がない。

人類が地球外知的生命体に向けて発信したメッセージに返信があり、そこには無限のクリーン・エネルギーとDNAに関する情報が書かれていた。そのDNAを人間のDNAと結合させて少女「シル」を作り出す。男性でなく女性にしたのは「そのほうが扱いやすいと思ったから」(科学者チームの責任者であるフィッチ=ベン・キングズレー)。少女は驚異的な速度で成長し、危険を感じたフィッチはガスによる抹殺を指示。しかし少女は研究所を脱出、列車に乗ってロサンゼルスを目指す。

列車の中で少女から大人の女性(ナターシャ・ヘンストリッジ)へと成長を遂げたシルは、地球侵略の意図があるのだかないのだか、人間の「種」を求めて夜の街をうろつく。

見所はナターシャ・ヘンストリッジの脱ぎっぷりの良さ。元モデルだけあって、身体のラインが実に美しい。その彼女がぽんぽん脱いで、積極的に迫ってくれるのだから、男としては言うことはない。個人的には金髪ロングより、黒髪ショートのほうが好みだ。どうでもいいことだけれど。

逃げたシルを追いかけるために集められたのが、仕事人レノックス(マイケル・マドセン)、人類学者のアーデン(アルフレッド・モリーナ)、霊能力者のダン(フォレスト・ウィテカー)、生物学者のローラ(マージ・ヘルゲンバーガー)。彼らは何となく自分の得意分野でシルを追いかけようとするが、シルの居所がわかったのは、彼女が殺した車掌から奪ったクレジット・カードを使ったためである。しかもシルの偽装事故死を何の疑いもなく信じ込み、勝手に一件落着にしてしまう危機感のなさには恐れ入る。まあ、それを言ってしまえば、バイオ・ハザードの危険性があるのに研究室のセキュリティが甘すぎるし、謎の生命体が火に弱いことを知っているのなら、どうして少女時代のシルをガスではなく焼却処分にしなかったのかと、突っ込みどころは他にも山ほどあるのだが。

そんな細かいことを考えず、ナターシャ・ヘンストリッジが上に乗って腰を振ってくれる場面を楽しみつつ、その正体であるギーガーがデザインしたグロテスクなエイリアンとのギャップを笑う。それがこの映画の正しい鑑賞法なのだろう。

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神様のパズル(8/10)

2007年10月17日 | 読書2007
『神様のパズル』(機本伸司/ハルキ文庫)
ゲーム化って「シムスペース」+恋愛シミュレーション?

出版順に読んでいたら、『メシアの処方箋』の評価はもう少し低くなったかもしれない。どうしても同じ作者の作品で比較してしまうので、本作に比べると第2作は明らかに見劣りするのだ。第3作『僕たちの終末』はさらに厳しい評価がされているが、これは近々読んでみたいと思う。

大筋は、落ちこぼれの大学生が16歳にして大学4回生の天才美少女と組んで、「宇宙を創造できるか?」を証明する、という話。それが主人公が通うゼミのディベートのテーマであり、ディベートに勝てるかどうかで卒業が決まるのだ。

前半の物理や宇宙に関する話は、物理やSFに関する知識に乏しい自分には辛いものがあったが、落ちこぼれ大学生の日記という形式で書かれているので文章が平易であり、またその彼に天才美少女が噛み砕いて解説してくれるので、本を投げ出さずに済む。何となくわかったような気にさせられる。

理論展開ではすごい話をしているのだが、主人公は片想いの女性に何とかお近づきになろうと無駄な努力をしたり、スーパーのバイトに励んだり、田植えを手伝ったりと、妙に生活観があってその落差が面白い。それでいて、一見無駄に見えるそれらの事柄が、最後には一つの主題に結びついていく。「宇宙は何か」という大きなテーマに向かうことで、結局は「自分とは何か」を考え、二人して成長していく過程が鮮やかに描かれているのだ。

『メシアの処方箋』同様、SFにさして興味がない人でも十分楽しめる内容だが、面白さ、完成度ともに本作のほうが上である。本作も『メシア~』も主題がかぶるところがある。悪くはないが、『メシア~』は取ってつけた感がないわけでもなく、それに比べると本作のほうがより自然に訴えかけてくる。その分、感動も大きい。

『神様のパズル』は映画化される予定だが、『蒼き狼 地果て海尽きるまで』の角川春樹事務所とエイベックス製作らしいので、不安で一杯だ。『時をかける少女』のように真面目にアニメーションで製作したほうが、うまくいく気がする。公開は2008年夏予定で、監督は三池崇史(「暴走すると伝わらないこともある」と認めながら三池を起用する角川春樹は薬が抜けてないのか?)、落ちこぼれ大学生は市原隼人、天才美少女は谷村美月。落ちこぼれがリーゼントにしていたり、双子の弟がいたり(どうもこの辺りは思いつきだけの改悪のような気がする)、谷村美月があんまり賢そうに見えなかったり、「SFラブコメ」なんて書かれていたりすると、不安は募るばかりだ。

【追記】

谷村美月って、海賊版撲滅キャンペーンで黒い涙を流していた娘だった。で、『時をかける少女』で声優をして、映画『リアル鬼ごっこ』に出演。ふーん。