昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

生活を変えよう

2015年11月29日 | ファンタジア・その後

 新宿で10時間も君と話し、20年間のブランクが消えた時、僕は生活を変えようと心に決めた。

 仙台でのNさんとの諍いの日々を、何とか変えていこうと考えたわけだ。60代も残りもうわずかで人生の終末期の70歳もすぐそこにあった。



 <暗闇>

 心臓君はとても身勝手で、激しい発作がいつ起こるか分からないという状態が続いていた。あんなに頑張った心房細動の根治治療、カテーテル・アブレーション手術の効果は6か月で消え、洞調律には回復しなかった。他に方法がないから、他の抗不整脈薬が効かない場合だけ使われる劇薬、強力な抗不整脈剤のアンカロンと、心房細動が起きると、24時間で作られ始める血の塊を防止するワルファリンの投薬を受けていた。こうして、心房細動が脳梗塞を引き起こすことを防いでいるしかなかった。

 これらの薬が、いろんな制約を僕に課してくる。アンカロンには、間質肺炎や除脈、気が遠くなるとか、心不全、肝臓機能低下、甲状腺機能障害などの副作用が現れることもあるといわれている。さらに、ほかの薬との飲み合わせを制限する必要がある。しかも高価だった。

 ワルファリンは、僕の大好きな納豆を禁止した。血がサラサラになるので小さな出血でも、血が止まらない。だから運動は禁止されていた。制限、禁止のほかに、処方毎に血液検査が必要だった。とにかく、気が重くなるような薬だった。

 僕が残りの時間が少ないと考えたのは、僕がカウンセラーの教育を受けている時に起きたある出来事に遡る。僕が36歳の時のTAのワークショップで、「人生脚本」の理論と実証の実験をしている時だった。その時に出た命題が、「自分自身への弔辞を書く」だった。

 どんな弔辞を、何歳のころ、自分で自分に与えるかを考えて書くという演習だった。僕の告別式が行われている時、自分は自分自身にどういう言葉を弔辞として語るのかという命題だ。その演習で、僕が自然に考えたのは、僕は75歳で死ぬという脚本だった。



 <自分への弔辞>

 今も残っているその時に書いた自身への弔辞には、僕は75歳でくたばり、その時には達成感のある一生を送ったとある。栄光の日々は、自分の書いたエッセイに記されていると書いていた。36年も以前の予言だ。

 その39歳の頃、僕は先天的な心臓の病気の存在は知ってはいたが、心房細動の発作は全くなく、へっちゃらで部次長の職を務めていた。残業時間の制限が会社の産業医から出ていたが、そんなことは気にもしていなかった。なのに、なぜ75歳でくたばると考えたのかはわからない。

 この「人生脚本」とは、個人が約3~4歳のころに、自己決断したシナリオだといわれている。つまり、自分はどう生きて行こういう「早期の決断」に沿って書かれた脚本だ。僕の場合は、75歳くらいでくたばろうと決めていたようだ。それが明らかになったのは、この演習のおかげ。どんな一生を送ろうとしているのか、自分の人生脚本をやっと理解した始めたわけだ。

 僕にとって、75歳という年齢は、重要な意味を持っていた。今も、そう思っている。

 Nさんと仙台で、無意味な時を過ごしているのはまずいと思い始めたのが、70歳に手が届く時期だった。僕は、あと8年か長くて10年くらいしか、残りの時間を持っていないと気がついた。貴重な時間を今のまま無為に過ごして行っていいのかと、自分自身が問うてみた。大きな問だった。



 <時計>

 Nさんとの結婚は、53歳の時だった。あと残された20数年を一人で生きていくのかと考えた時に、一人じゃつまらないなと、一緒に時間を過ごす人に選んで決めた。熱愛の末、結婚したものではなかった。Nさんにとっても、40近くになって、これから独身で生きていくのはどうか…と考えていた時期で、僕たちの選んだ結論は、二人の共同生活だった。

 しかし、二人のボンド役を果たしてくれたカロが癌で一人、虹の橋を渡って行ってしまった時、僕たち二人は、いままで真正面からお互いを見ながら時を過ごしてきたのかという疑問が湧いてきた。お互いに、もったいない時間を過ごしているのかも…と考えた。

 Nさんは僕より15歳も若い。横浜で父を亡くし、祖母を亡くし、母の住む家を出て、他人の僕と暮らし、突然仙台に暮らすことになった。そこには友達も居ない。その上、一人息子のカロを亡くしペットロスの上に、さらに僕が心臓病を発症し、鬱になったことは、環境としては最悪だった。丁度、彼女の更年期障害のど真ん中でもあった。さらに、Nさんのお袋は弟さんをかわいがり、Nさんには距離を置いていた。結果としては、Nさん自身が、閉ざされた時間を、僕と同居別居の形で過ごしていたわけだ。辛かったに違いない。

 彼女がなぜキリスト教の洗礼を受けたのか、僕は聞いていない。何がそうさせたのかも聞いていなかった。宗教は個々人のものだから、他の人が入り込む余地はないし、キリストとの契約の世界にいる人だから、無神論の僕が聞いてもわからない。だから彼女には、教会の牧師さんが、本当の助言者だろうと思っていた。

 二人の世界をもうこれ以上築けないから、生活を変えようと思った。



P.S.
<写真<暗闇>は、flickrからAlex. Muellerさんの“Darkness”をお借りしました>
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.0 日本 ライセンスの下に提供されています。

20年間の話は…

2015年11月15日 | ファンタジア・その後

 アメリカ人のカミさんである君と会うということが、いつの間にか僕の気持ちの中で、熱いものに変わって行ったのはなんだったのだろう。まるで、長い間会えなかった恋人に会うかのような、心の高まりを感じていた。

 2009年10月19日、やっと君からの電話が来た。もう僕の気持ちの中では、ほとんどあきらめていたのだが…。僕は新宿プリンスに、10月20日から22日までツインを取っていた。夜を僕と過ごすかもしれないという気持ちもあったのだろう。君の電話は本当に、東京に出発する前日、ぎりぎり間に合ったわけだ。



 <プリンスからの眺め>

 君と会うことがダメでも、Nさんとの関係で、春と夏、一人で東京に出かけるという事実を積み上げる必要があったから、どちらにしても出かける支度をしていた。Nさんは、前年の9月に僕が一人で東京に出かけて以来、僕が誰かと東京で会っていると思い込んでいた。それは初恋の人だと思い込んでいた。それが誤解だと、僕はひっくり返すことはできないでいた。まあいいやとあきらめていた。

 21日に新宿に出てくると君は言った。そこで、じゃあ正午にプリンスのロビーでと約束をした。その日、午前の時間があるし、長く谷中を歩いていなかったから、一人で谷中墓地を歩いてみた。本当の初恋の人と別れたとき、一人で絵を描いた懐かしい場所にも行ってみた。寛永寺の裏手あたりだ。

 ホテルに戻ったのは、正午の30分くらい前だったと思う。部屋に入って、顔を洗って、僕はロビーに下りて行った。僕には、すぐに君だとわかる自信はなかった。20年以上経っているのだから、分からないかもと思いながら、ロビーを見渡した。記憶のあるやせた姿があった。ああ、君だと思った。

 小田急線の時間が分かんなかったから、30分も前についてロビーにいたという。ゴメンと言って握手をした。本当に、20年ぶりの握手だった。君は変わっていた。やはり20年の流れを感じた。僕自身もそうなはずだが、自分では見えないだけだったのだ。毎日見ている自分の顔の変化には、鈍感なのだろう。

 とにかく昼飯を食おうと、和食のレストランに連れて行った。最初は、ぎこちない言葉遣いだった。どんな距離感で話すのがいいのか、お互いにわからなかったのだ。とりあえず、和食のランチセットを選んで、お互いに顔を見合わせた。懐かしさが込上げてきた。

 グラス・ワインを飲みながら、君のアメリカの生活の様子を聞いていた。僕が聞き役だった。君は静かにアルトで話していた。この声に魅力を感じて、33年前に付き合い始めたのかもしれないと、古い感情が湧いてきた。

 部屋には来ないというので、和食レストランで話すしかないかと思い始めた。上にカフェがあるのは知っていたが、落ち着かない。何もしないからと、ツインの部屋に君を案内した。君には抵抗があったようだが、静かに話せないからと、二度目の誘いには、黙って部屋に来てくれた。それぞれ、一台のベッドボードに寄りかかって、平行に上向いて寝転んで話した。



 <ツイン>

 話した、話した。20年分の生活と感情を話してくれた。結婚生活はどうなのか、うまくいっているのか、幸せなのか、なぜ子供がいないのだとか、僕が心に持っていた質問をぶつけた。そこで、君がアメリカで必ずしも、幸せな時間を過ごしているのではないという感じを受けた。

 海外の日本人村の持つ特有の、狭い社会には溶け込めていないようだった。僕も経験があるからわかるのだが、外国のその地に、小さな日本人社会を作り上げる人たちがいる。特に女性の世界では、それは掟のようなものだった。序列が出来て、その序列に従った行動しかとれなくなる。君は、不満だったようだ。それで、日本人社会と没交渉の生活を始めたようだ。

 予想してないことだったのだが、君は嫁に行ってすぐに卵管炎という病気で、子供を産めない体になったと聞いた。何のために、蹴とばして君を嫁に出したのだと、神様のやり方に怒りが込み上げてきた。さらに、アメリカ人の旦那は、君との結婚の前に3度も離婚していたと聞いた。バカヤローと僕は心の中で叫んでいた。20年前に、そんなことを知っていたら、僕は、そんな結婚をするなと大反対をしただろうと話した。運命はどこまでも、皮肉にできている。とにかく、君とはすべてが遅すぎたのだ。

 でも、一番の気がかりは、卵巣がんで子宮を摘出したということだった。術後、継続的に検査を受けているという。最低、5年間は再発の危険があるという。今はセーフだが、いつ再発するか分からないと言った。まだ3年しかたっていないという。これは気がかりだ。僕も、心臓の発作の話をした。二人とも、危険を抱えている身だということだ。

 恨み、辛みの話はなく、僕も訊かれて、君と別れてからのNさんとの結婚の話をした。

 お互いのことを知るのが遅すぎた。悔しいことだ。そんなことだったら、もっと別の道を、二人とも歩めたかも知れないものをと、皮肉な状況をあらためて認識する。やはり20年は長かったのだ。

 あっという間に、昔の会話のスタンスになっていた。忘れていないやり取り、変わっていない会話だった。別れて過ごした20年間が、すっと二人の間から消えてしまった。

 話し始めて、あっという間に5時間くらいが過ぎていった。もう窓の外は暗くなっていた。何もしないから、泊まっていくかと聞いたら、兄や姉たちが待っているから帰るという。しょうがない。



 <坐和民>

 外で飲もうということになって、昔懐かしい、新宿大ガードをくぐって西口に出た。昔行っていた飲み屋を訪ねてみようと角のビルの最上階にのぼってみた。もちろん元の店はなかった。今は、居酒屋、坐和民だった。ちょっと覗いてみようということになって、案内されたのがバーカウンターのように横に並んで座る席だった。靴を脱いで落ち着いた。

 ワインボトルを一本空けるころ、全く昔の感じになっている二人に気づく。さらに、カウンターに置いたお互いの手が、そっくりなのを発見する。14年も付き合っていたのに、手が似ているって気が付かなかった。関節の出っ張り、静脈の流れまでそっくりだった。びっくりした。足元を見ると、足の指の感じがまたそっくり。好物の茄子の漬物にからしを塗りながら、心から笑いあった二人だった。

 小田急のターミナル駅まで送って行った。その道には、昔、君が飲みすぎて動けなくなって座り込んでいた小田急百貨店の建物の窪んだ所がある。ここ、覚えているかいと冷やかす。覚えていた。



 <小田急のターミナル>

 小田急線に乗り込む君を目で追って、赤いテールランプが見えなくなるまで見送った。感情が前面に出てきた。どうすることもできなかった。また、すぐにでも会いたいという気持ちに自分でも驚いていた。もしかしたら、これが君に対する初めての初恋の感情だったのかもしれない。

君からの連絡を待つ僕

2015年11月01日 | ファンタジア・その後

 あの電話で分かったことは、こんなことだった。

 君のうちの旦那がPCに詳しくて、気が付くかもしれないからPCからメールはできないと、君は言った。PCは日本語対応にもなっていないようだった。

 電話番号は教えてもらえなかった。僕が電話するかもしれないと心配したからだ。そうすると、僕からは手紙しか連絡方法がなかった。

 実は、米国の有料の電話番号調べで、君の電話を調べてみていた。



<電話番号調べ>

 そして、先ずはパーソン・トゥ・パーソンで、KDDI経由で電話してみた。ダメだった。こちらの交換台が向こうの交換台と電話番号を確認したけど、つないでもらえなかった。君の家の電話がそういう設定に成っているようだった。

 僕の住所と郵便局のスタンプで、住んでいるところが分かるからと、僕は手紙を東京にまで出かけて投函していた。そして、アニヴェルセルのSさんからもらった封筒にいれてハガキを出した、9月を待ってるよって。

 僕の出したハガキに応えて、君はアメリカから深夜の4時半に起きだして電話をくれた。絶対、生きているうちに会おうって約束した。

 僕の楽しみと、待つ苦しみが始まった。

 そして、9月15日からの電話待ちが始まった。君が免許の書き換えで、日本に来る時期の始まりだ。毎日の空気が重かった。どうなっちゃったんだろう…。

 もしかしたら、体調でも悪いのか?それとも、ご主人がいっしょに来日しているのか…。それとも、もう僕とは会わずにいこうと考え始めたのか…。それとも、僕が何回かトライした携帯からの電話がご主人にバレて、行動の自由が奪われたのか…。だから、来日できないのか…。

 洗剤だらけの手袋で食事の後片づけをやっていて、そんな時に電話が来たらどうしようかとか、とにかく気が気ではない。僕は疲れてしまった。

 この秋は会えないのかもしれないなって、ちょっと諦めモードにはいったりしていた。月一の病院の僕の心臓君の定期健診も、君との時間を作るために10月の延したのに、残るチャンスは10月だけじゃないか、といらだってもくる。

 先取りして、9月に病院に行って10月のはじめを空けておこうかなんて悩む。でもどうなるか分からないから、様子見だ。
 
 連休を避けて日本に来るのかもしれない、なんて電話のないことに理由をつけようとする自分がいる。

 何度も、新幹線の指定席の空席状態を調べる。何度も宿の部屋の空き状態を調べる。まだ、9月28日から10月3日までは大丈夫だ。早く連絡、くれないかなぁ、とため息がでる。



<はやて>

 Nさんが外出すると、今電話が来たら自由に話せるのになぁって思う。でも電話は来ない。

 昔の書類を出して、君の日本の実家の電話番号を見つけて、間違い電話のふりをして電話を掛けてみたりする。でも出た人は名乗らない。君の実家かどうか、もはや怪しい。実家は商売をしていたと思うから、本当はXXです、って答えが返ってきてもいいのに黙っている。

 こちらから、連絡がつかないことは、こんなに疲れることだとは知らなかった。大きなため息をつく。お~~ぃ、何とかしてくれって叫ぶ自分がいる。今日、25日も午後3時だ。連絡はない。

 立原の本を出してきても、目は単に行にしたがって流れるだけ。中味は頭に入ってこない。狂っているといえる。今日も電話はなかった。



 <立原の本>

 昨日も誕生日の今日(9月28日)も、電話はない。胸苦しさが少し胸の上のほうに上がってきた。どこか、今回はダメかもという諦めのような感じが出てきた。きっと、何かあったんだ、君の環境に、いやもしかすると君の心の中に。いまさら僕に会ったって、この20年程が取り返せるわけじゃない…とか。

 僕のほうは、1泊2日でも、2泊3日でもいっしょにいて、いろんな話をしたかったのだけれど…。たとえば、日本への帰国のことだとか、金の事だとかいろいろ。でも、ちょっと難しくなってきたのかもしれない。連絡方法が、手紙だけだという世界はこんなにも、もどかしい世界だったのかと思い知る。

 今日はもう10月4日。9月末に僕は病院で診察を受けて、次の予約も変更して、10月の前半を空けたけれど連絡がない。もう、今年は会えないのかなと諦めが半分以上になった。でも今度は何時、会えるのだって自問自答する。答えはない。

 苦しさは、少し和らいだようだ。諦めの心理的な効果かもしれない。でもどちらにしても、東京には出かけると決めている。また、アニヴェルセルの封筒で、この文章とシャガールの絵葉書を出すことになりそうだ。

 でも、本当にどうしたんだい。君の癌の再発を恐れている僕です。連絡をください。お願いです。D大学の名前の封書で出してくれれば、こちらは何とかなる。

 待って、待って、待ちくたびれた今日は10月7日です。

 もう今日は10月10日。今年はもう君に会えないと諦めの感じ。

 再来週の月曜日からの3日間、東京に出かける予定。会えるかどうかわからないけれど、行くしかない。僕は2泊3日の予定で、新宿PEPEの部屋を押さえている。

 無駄な結果になってもいいや。半年ごとの東京行きが実行できるだけでもいいやと考えてた。今日は10月15日。もう今年は会えないと悟った。Sさんの封筒で東京から手紙を出すために、準備をして出かけます。これで今回はおしまい。ほんとうに残念です。

 翌日、2009年10月19日に君から電話が来た。待ちに待ったことが現実になる。うれしかった。