昔、新宿のFugetsudoによく通ったものです!

そろそろ先が見えてきましたから、今のうちに記憶を書いておこうと…

悔しさが、後押しをしてくれて

2015年08月23日 | ファンタジア・その後

 そう、君からの横浜で会おうという誘いを、僕は受けることはできなかった。アメリカに嫁にやった君が、どんなふうに変わっているのか、どんな生活をしているのか、なぜ猫が彼女のベイビーなのだとか、知りたいことがどんどん湧いてきた。しかし、僕は横浜まで出かけることはできなかった。理由は鬱と心臓君のご機嫌。

 しかし、この悔しい思いが、僕を少し前に向かせたようだった。



 ラピュタの日常生活は、Nさんと二人の通院、キリスト教会のミサへの出席以外は、いつか、すれ違いの気持ちが深まっていた。カロの居ない空白が、お互いの姿を赤裸々の見せることになった。ほとんど、4LDKでの同居別居。

 お互いに自分の部屋で、お互いのペースで一日を過ごす。しかも、3~4時間の時差がある生活。家でのシェアーする時間はリビングの時間。僕の心臓の病気が理由で、セックスは医者から禁止されていた。だから、伊豆高原のころから、肉体的な会話はなくなっていた。    

 Nさんはクリスチャンなのだが、何処か、他人に不信感を持っているように見える。例えば、人に対しての猜疑心をもっている様子。一方、僕は基本的には人を信頼する性格。僕のカウンセラーという職業からすれば、人間とのつながりは、まずは信頼がなくては始まらない。彼女は一見、おとなしい性格そうだが、頑固で人の言葉をそのまま受け止めるのは難しいようだ。僕は、おっちょこちょいで、活発に行動してしまう。

 こんな心のすれ違いが、カロの死から2年くらいで、明らかになってきた。お互いの距離が広がっていくようだった。

 考えてみれば、Nさんはカロを亡くすというペットロスの状態だし、伊豆高原にいるころ父を亡くし、母との間も上手くないらしい。さらには、53歳という更年期障害のど真ん中の歳。苦しんでいたのだろうと思う。

 Nさんは時折、仙台から横浜の教会に出かけて、牧師夫妻に会って胸の内を聞いてもらったり、東北大学の心理学研究室のカウンセリングを受けたりして、自分の精神状態を回復しようとしていた。

 この頃、できるだけ、二人で仙台の街に出ようと、県立美術館や地元のデパート、藤崎を訪れ、三越仙台店に毎年やってくるイタリア展にも足を運んで、外部の空気を吸おうと試みていた。

 その年、僕は半血兄弟の京子姉を亡くした。あんなに可愛がってもらったのに、神戸での通夜も、告別式にも出られなかった。一日、一仕事、一回6時間という、心臓の先生からの生活指導があった。もちろん、自分でも体を動かして、神戸まで出かけられるような気力はなかった。
 
 悔しさをバネに、普通の生活を取り戻すため、身近なことから始めた。

 2008年の3月、2年間中断していたこのエッセイを書き始めた。元々は、2005年の12月から始めたが、カロの死があって、2006年3月から中断していた個人的なブログだ。気力がなかったし、集中力もなくなっていたが、何とかキーボードで自分の文章をつづれる様になった。

 その年、春には東京まで出かけたかったけれど、それが出来なくて悔しかった。やっと、一人で東京行きを実現したのは、秋9月だった。Nさんは、僕を心配して大反対だった。どこかに、自分の管理下に病気の僕を置いて、安心していたいという気持ちもあったのだろう。だが、リスクを冒して、僕は手術後、初めて東京まで出かけた。

 特に何をやりたいということはなかった。自分の自由を取り戻すのだという気持ちが強かった。



 生まれた谷中を歩き、懐かしい上野公園に身を置き、浅草をぶらつき、最後には、横浜に足を踏み入れた2泊3日の一人旅だった。なんだか、少し、自信がついた。自分の世界を取り戻した実感があった。鬱病の薬、パキシルの量を独断で減らした。



 これが実行出来たのは、君からの横浜への招待だった。横浜までは行けない、身動きのできない、気力のない自分を悔しがり、少しずつ、普通の生活を取り戻す努力を意識的にした結果だったのだろう。心臓の発作という直接的なリスクはあったのだが、実行できた。少し、自信が湧いてきた。

 僕は、少し明るくなって、仙台に帰ってきた。これから、もっともっとできることを増やして、以前の生活が出来るようにと、努力を誓っていた。しかし、Nさんには、まったく別の感じがのこったと分かったのは、少し時間がたってからだった。

 この東京行きは、僕にとっては、エポックメーキングな出来事だった。そして、Nさんにとっても、重大な意味を持っていた。それが、少しずつ、露呈してくるのだが…。



P.S.
<トンネルの写真は、flickrからMirelleRaadさんの“トンネル“お借りしました>
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思いがけない展開

2015年08月09日 | ファンタジア・その後

 
 アメリカに嫁にやった君からの電話は、鬱に閉じ込められた僕の世界に風穴を作ってくれた。率直に言って、僕がNさんと結婚する前だったら、僕の気持ちはもっと素直に、君からのコンタクトを喜んでいただろうが。

 Nさんと僕の二人にとって、一人息子の犬、カロを失ってからの生活には、ハリが失われていた。僕の心臓は時に発作を起こし、ペットロスや、心臓病のアブレーションの失敗、Nさんの精神疾患の発症などが原因の鬱も、簡単には去ってくれない。Nさんのパニック障害も続いていた。

 必要以外には、二人で話すことがない、話すことができない生活が続いていた。抜け殻のような二人の生活だった。

 その冬、クリスマスカードの時期になっていた。カリフォルニアに住む、僕のお袋さん的な存在の心理学の80歳を超えた老教授と、イタリア、モンツアに住む古い友達と、スペイン、サラゴサに住む、同じワークショップで3週間一緒に過ごした歯医者さんからの3枚のカードに混じって、君からのクリスマスカードが来ていた。



 <Xmsカード>

 そのカードには、来年1月から2月にかけて、亡くなった親父さんの遺産相続のために、一人で日本に行くと書いてあった。そして、もし可能だったら、横浜あたりで、会ってみたいというメッセージがあった。仙台に籠ってから、横浜は遠い存在になっていた。体力的にも、気力的にも、一人で横浜まで出かけられる自信はなかった。なんだかなあと、ちぐはぐな自分の人生の展開に戸惑い、悔しい思いを引き出したカードだった。

 Nさんとの生活は、不毛だった。毎週二回の買い物と、毎日曜日のNさんとのミサ、月一の病院の受診、それだけだった。彼女も心療内科を受診していた。

 Nさんとの生活で、もう一つ、難しいことがあった。それは、二人の間の時差。毎日、3時間の時差があっただろう。僕が朝6時に起き、彼女は9時の起床。したがって、就寝も3時間くらいの差がある。いわば、家庭内のすれ違いだ。生活時間のスタートと終わりが、お互いにずれているのだ。

 結果として朝飯は僕一人で食べることになる。天気がいいと、洗濯を早くやって、太陽に乾かしたいと思う。しかし、Nさんは起きてこないから、僕がやることになる。Nさんの物の洗濯も僕が洗濯機を回し、ベランダに干し、そして取り込み、タンブラーに入れて乾かす。そして畳むという工程を僕が担当することになっていった。なんだか、少しずつ不満のようなものがたまっていった。

 年が明けて、1月の半ばだったろうか、君から携帯に電話があった。そういえば、相続のことで、日本に来ると書いてあったのを思い出しながら、雪のベランダに出た。懐かしいアルトの声だった。



 <雪のベランダ>

 今、九州の小倉にいるといった。小倉というのがピンと来なくて、なぜ小倉のかと僕は訊いた。アメリカで親しくなったご夫婦に招待されて、新幹線で小倉まで来ているという。ご苦労様なことだと思った。

 横浜に帰ったら、会えないかなと言われた。君に会えるなんて、この20年近く考えたことがないから、僕の頭は回らない。心の底では、飛んで行きたい気持ちだったろうが、頭はそうは考えなかった。それは、僕自身の体力に自信がなかったからだ。

 鬱の状態からは抜けられていなくて、ゴロゴロと、昼間もベッドの上に寝転んでテレビを見ていた。心臓の発作も頻繁に起きていたから、怖くて、自分でも用心していた。前回、心不全で救急車を呼んだことが記憶にあるから、Nさんは僕の身体的な動きを少なく抑えようと考えていたようだ。

 横浜に一人で出ていく気力も、体力もなかった。君の方から、仙台に来てくれたら、会えるのだけど…と切り出してみた。しかし、アメリカからの長時間のフライトと、小倉までの長い新幹線の往復で、君も疲れていた。仙台まで君に来てもらうのは難しそうだった。結果として、会って話をするということは不可能だった。

 2月にアメリカに帰るとき、成田から君は電話を呉れた。バイバイの電話だった。



 <成田#2>

 悔しさが湧いてきた。何もできない、自分自身に対する悔しさだ。


 何とか自分の力で、東京まで出かけられるような体力と、気力を取り戻さなくては…と、強く自分で感じたのだ。君との再会が何時になるかはわからない。たとえ、そのことがなくても、自分に自信を取り戻すためにも、僕は気力と体力を取り戻す必要があると、悔しさの中で考え始めた。

 春になったら、4月くらいになったら、東京まで出かけてみようと、心に決めた。少しずつ、自分の生活パターンを変えていった。

 しかし、気は焦っても東京は遠く、その年の春にはそれは実現できなかった。悔しさが、さらに深まっていった。だから、秋になったら、絶対に東京に行ってみせると自分に誓った。