そう、君からの横浜で会おうという誘いを、僕は受けることはできなかった。アメリカに嫁にやった君が、どんなふうに変わっているのか、どんな生活をしているのか、なぜ猫が彼女のベイビーなのだとか、知りたいことがどんどん湧いてきた。しかし、僕は横浜まで出かけることはできなかった。理由は鬱と心臓君のご機嫌。
しかし、この悔しい思いが、僕を少し前に向かせたようだった。
ラピュタの日常生活は、Nさんと二人の通院、キリスト教会のミサへの出席以外は、いつか、すれ違いの気持ちが深まっていた。カロの居ない空白が、お互いの姿を赤裸々の見せることになった。ほとんど、4LDKでの同居別居。
お互いに自分の部屋で、お互いのペースで一日を過ごす。しかも、3~4時間の時差がある生活。家でのシェアーする時間はリビングの時間。僕の心臓の病気が理由で、セックスは医者から禁止されていた。だから、伊豆高原のころから、肉体的な会話はなくなっていた。
Nさんはクリスチャンなのだが、何処か、他人に不信感を持っているように見える。例えば、人に対しての猜疑心をもっている様子。一方、僕は基本的には人を信頼する性格。僕のカウンセラーという職業からすれば、人間とのつながりは、まずは信頼がなくては始まらない。彼女は一見、おとなしい性格そうだが、頑固で人の言葉をそのまま受け止めるのは難しいようだ。僕は、おっちょこちょいで、活発に行動してしまう。
こんな心のすれ違いが、カロの死から2年くらいで、明らかになってきた。お互いの距離が広がっていくようだった。
考えてみれば、Nさんはカロを亡くすというペットロスの状態だし、伊豆高原にいるころ父を亡くし、母との間も上手くないらしい。さらには、53歳という更年期障害のど真ん中の歳。苦しんでいたのだろうと思う。
Nさんは時折、仙台から横浜の教会に出かけて、牧師夫妻に会って胸の内を聞いてもらったり、東北大学の心理学研究室のカウンセリングを受けたりして、自分の精神状態を回復しようとしていた。
この頃、できるだけ、二人で仙台の街に出ようと、県立美術館や地元のデパート、藤崎を訪れ、三越仙台店に毎年やってくるイタリア展にも足を運んで、外部の空気を吸おうと試みていた。
その年、僕は半血兄弟の京子姉を亡くした。あんなに可愛がってもらったのに、神戸での通夜も、告別式にも出られなかった。一日、一仕事、一回6時間という、心臓の先生からの生活指導があった。もちろん、自分でも体を動かして、神戸まで出かけられるような気力はなかった。
悔しさをバネに、普通の生活を取り戻すため、身近なことから始めた。
2008年の3月、2年間中断していたこのエッセイを書き始めた。元々は、2005年の12月から始めたが、カロの死があって、2006年3月から中断していた個人的なブログだ。気力がなかったし、集中力もなくなっていたが、何とかキーボードで自分の文章をつづれる様になった。
その年、春には東京まで出かけたかったけれど、それが出来なくて悔しかった。やっと、一人で東京行きを実現したのは、秋9月だった。Nさんは、僕を心配して大反対だった。どこかに、自分の管理下に病気の僕を置いて、安心していたいという気持ちもあったのだろう。だが、リスクを冒して、僕は手術後、初めて東京まで出かけた。
特に何をやりたいということはなかった。自分の自由を取り戻すのだという気持ちが強かった。
生まれた谷中を歩き、懐かしい上野公園に身を置き、浅草をぶらつき、最後には、横浜に足を踏み入れた2泊3日の一人旅だった。なんだか、少し、自信がついた。自分の世界を取り戻した実感があった。鬱病の薬、パキシルの量を独断で減らした。
これが実行出来たのは、君からの横浜への招待だった。横浜までは行けない、身動きのできない、気力のない自分を悔しがり、少しずつ、普通の生活を取り戻す努力を意識的にした結果だったのだろう。心臓の発作という直接的なリスクはあったのだが、実行できた。少し、自信が湧いてきた。
僕は、少し明るくなって、仙台に帰ってきた。これから、もっともっとできることを増やして、以前の生活が出来るようにと、努力を誓っていた。しかし、Nさんには、まったく別の感じがのこったと分かったのは、少し時間がたってからだった。
この東京行きは、僕にとっては、エポックメーキングな出来事だった。そして、Nさんにとっても、重大な意味を持っていた。それが、少しずつ、露呈してくるのだが…。
P.S.
<トンネルの写真は、flickrからMirelleRaadさんの“トンネル“お借りしました>
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